2017年4月8日土曜日

【第695回】『易の話』(金谷治、講談社、2003年)

 「当たるも八卦当たらぬも八卦」という占いのイメージが強い易経。単なる占いの書ではなく、思想の書であるということは理解しているが、これまで易に関する書籍を読んでもピンとこず、興味を持てずにいた。著者が記したものがあることを知り、これを最後の機会として読むことにした。辛抱強く我慢して、本書を読むことを決めて、正解であった。

 人間が一つの判断に迷って、人間以上の力にたよってそれを解決しようとするのがうらないであるから、そこには人間をこえた一つの力に対する信仰が要請されるであろう。しかし、義理則ち思想の書物としてみられた『易』は、そこに書かれたことの解釈と吟味をとおして、現実の世界の意味を考えるという、人間的な理性のはたらきの対象である。人間をこえた神秘にかかわる性格と、人間的な理性にかかわる性格と、『易』はこの二つの顔をそなえている。(16頁)

 易は、占筮と義理という二つの役割を持つ書である。意訳すれば、占筮とは占いであり、義理とは思想である。後者の持つ意味合いの強さに興味を感じてしまうが、著者は、義理としてのみ易を読もうとすることを以下のように諌める。

 仏教の方で、「自力」と「他力」ということがあるのは、ひろく知られている。(中略)占筮によらないで自ら思索する態度は、まさにこの「自力」であろう。しかし、人はついに、はかない存在である。あまりにも未知のことが多く、あまりにも無力であることが自覚される時、人は「他力」へと向かうことになる。『易』にとって、占筮はやはり否定し得ないものである。(21頁)

 何かに対応するために自ら思索して解決しようとするのは自力の働きである。自分自身をコントロールし、状況に対処するこうした自力だけでは、大きな変化をストレスとして感じ、対処しきれない自分自身に無力感をおぼえてしまう。自力とともに他力という考え方も私たちには大事であり、占筮としての易の価値はたしかに存在するのである。

 易はうらないの書ではあるが、うらないは非常の場合に行なうのであって、平常は易の卦象と「爻辞」によって思索するというのである。(170頁)

 占筮は非常時に行うものであり、日常においては思索をすすめるための一つの考え方であり、つまりは義理の書として用いるのが適切な用い方であると棲みわけされる。では、こうした柔軟な現実の捉え方を促す考え方を、易はどのようにして身につけたのか。

 疑いもなく、ここでは儒教の再生がはかられているのである。そのためにこそ老荘や陰陽家の立場も導入された。そして、孔子や孟子では語らなかったはずの鬼神の説までもみえることは、墨子の影響をも思わせる。そのように諸派の思想を積極的に取り込んで自家の強化と再生をはかるのは、まず戦国時代も最末期から後のことであろう。(145頁)

 歴史に基づいて、現存する易の形式がどのように形作られたのかが述べられている。まず、儒教の再生を図る書としての位置付けがあり、そのために老子や荘子といった本来的には相対立する思想も取り込まれたというのだから面白い。易という存在の、懐の深さを感じさせられる箇所である。

 根本の無の立場に「たちかえる」というのは、『老子』の影響による王弼独自の解釈であった。
 この「たちかえる」ということは、『老子』の注でいわれているように「私心を滅し、身体を無に」することである。日常の生活に追われて、相対的な現象の世界にとらわれている眼を転じて、おれがおれがという主観的な我見を去り、客観的な公的世界と一体になろうとする努力である。そこに無の世界がひらけるとされる。(181頁)

 異なる様々な思想を含んだ書であるがために、自分自身の置かれている状況やあり方を相対的に捉えることができる。複数の視座から捉えることによって、主観的・独善的なものの見方を括弧に括って、あるがままの状態を見据えることができるのかもしれない。

 易の思想はこのように変化生成を尊ぶ。いいかえれば、この世界を変化してやまない日新生々の世界とみるのである。『易』はまことに「変易の書」であった。ただ、その変化は、まっすぐに無限に進展していく変化ではない。それは循環であった。(240頁)

 柔軟な捉え方をする背景には、変化する環境という前提がある。そうした環境の中で、自分自身の位置づけを把捉し、物事を捉えるために、易という変化を推進する書物の価値がある。

 現実の存在を確かなものとしてそこから離れない中国的思考では、やはり対待観から離れることがない。だから純粋な一元論は生まれにくい。キリスト教的な一神、この世界を創造した唯一の神といった存在は、中国にはない。それと関係して、純粋な形而上学的一元といったものは、考えられたことがない。ただ、対待観もまた、すでに述べたように、西洋的な二元論的対立ではなかった。それは二元的でありながら、実は一つのものの両面としての意味を持っていた。二にして一、一にして二である。対待は対立しながら総合され、変易は動きながら不易であった。
 この複雑な現実対応の中国的姿勢は、そのたくましい楽天的人生観とともに、今後の中国のあり方にも生きていくであろうと思う。(250~251頁)


 本書の締めくくりとして、易という存在から中国における思想のあり方、人々の思考のありようにまで示唆がなされている。中国の人々の逞しさ、現実的な生き方の背景には、易をはじめとした昔からの思想というバックボーンがある。もちろん、全員が全員というわけではないだろうが、中国のビジネスエリートが持つ深い教養に触れたことがある身としては、納得的である。


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