2014年12月14日日曜日

【第388回】『易経』(高田真治・後藤基巳訳、岩波書店、1969年)

 先日、自分にとってのベスト10冊を選ぶというワークを行なった。その相手が、ベスト1として挙げていたのが本書である。そこまで勧められれば読んでみたいと思うのが心情である。しかし、率直に言ってよく分からなかったというのが印象である。

 ただし、そうした中でも興味深かった部分はある。本書を読むまでは、易というものを単なる占いとして認識していた。「当たるも八卦当たらぬも八卦」や「乾坤一擲」といった言葉は易経から来ており、どちらも博奕で使われることの多い言葉であろう。しかし、博奕のように、ある目が出た時にそれが一対一で意味合いを持つという論法を易経を取っていない。たとえば、以下の箇所を見てほしい。

 无妄は、虚妄なきこと、自然のままにして真実なこと。卦徳の天道をもって動くに取る。この无妄真実の道をもって事を行なえば大いに亨るが、そのためには貞正をとり保つことがよろしい。もし動機が不正であるならば、かえってみずからわざわいを招くことになるであろうから、進んで事を行なうにはよろしくない。(上巻・233

 「自然のままにして真実なこと」とは良い意味合いを持つものであろう。しかし、動機が不正である状態であれば良くない意味合いになると結んでいる。以下の箇所も同様だ。

 凶ではあるが静かにしていれば吉だというのは、道に順う心があれば害にはならぬということである。(下巻・15頁)

 凶という悪い内容のものであっても、それをいかに回避するかという方法が書かれている。ここに、占いとは異なる思想を私たちは易経に見出すことができる。

 易は天道を推して人事に及ぼし、広大ことごとく備わらざるはない。易は修養の書であり、経綸の書であり、立命の書である。以って身を修むべく、以って事業を興すべく、以って尊富安寧を保つべく、以って貧賎不遇に処すべきである。(上巻・28頁)

 易経は修養の書なのである。占いというものには、楽をしようとするものというイメージがあるが、自分自身を修養させるための書物なのである。


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