2014年12月21日日曜日

【第391回】『日本教徒』(イザヤ・ベンダサン、山本七平訳編、角川書店、2008年)

 本書は、著者が戦国時代から江戸時代を生きた不干斎ハビヤンをして、「日本教」の開祖であるという大胆な仮説を提示したものである。ハビヤンという名前から外国人をイメージされる方もあろうが、日本人である。彼の思想および宗教における変遷を要約した以下の箇所が、彼の特異な来歴を理解すると共に、それを通じて「日本教」の内容を理解できると言えよう。

 彼を「棄教者」とか「転びキリシタン」とか「転向者」とか呼ぶのは誤りである。彼自身は少しも変っていない。彼はその人生を仏教の僧侶としてはじめ、ついでキリシタンの修道士となり、おそらく最後には儒教的道教的(?)思想家として終ったと思われるが、この間の彼の態度はむしろ、真摯なる求道者のそれである。そしてその態度に明確に見られるのが一種の「個人主義」である。彼は、彼のいう意味の宗教乃至は思想と「自己」とを対等の関係におき、「ハビヤン個人」が、いずれの宗教乃至は思想を選択するのも自由だ、という態度をとった。すなわち彼の“転向”は常に自らの意志に基づく「選択」であって、ある思想を基準とした「転向」ではない。この点その態度は非常に“近代的”といえる。そしておそらく日本人における“個”の自覚は、常に、「宗教・思想の自主的選択」いわば、「人が神を選択する」という彼の思想的遍歴と同じ形でなされているのであろう。(148~149頁)

 故・小室直樹氏も指摘しているように(『日本人のためのイスラム原論』(小室直樹、集英社、2002年))、日本人は、「規範に合わせて人間の行動が変わるのではなく、人間に合わせて規範が変わる。」(同書、124頁)と考える人々である。したがって、ハビヤンは、自分自身が拠って立つ宗教や思想ありきではなく、自分自身の有り様を表す手段として宗教や思想が存在するに過ぎない。私自身が特定の宗教を持たない人間だからかもしれないが、こうした「日本人」像は私にはしっくりくるように思える。

 さらに興味深いのは、こうした自分自身の有り様や世界観を積極的に提示するのではなく、消極的に提示するという「日本教」の特色である。

 「日本教徒」が寓意でなく「実在」することは、彼が証明している。何ものにも動かされない独特の「世界」を自らのうちにもった一人物が、ここにいる。だが彼はその世界を一度も積極的に提示せず、いわば「消去法」で提示しているのである。(29頁)

 自分自身を提示する際に、「私は○○である」と定義するのではなく、「Aでなく、Bでもなく、Cでもない人物である」と消去法で定義する。良く捉えれば、柔軟に自分自身の有り様を定義することができると言えるし、悪く言えば日和見主義と言われる考え方であろう。

 では引き算の考え方によって定義される「日本教」においては、何をもって是とされるのであろうか。著者は、謀叛についての考察から、その内容を明らかにしている。

 「人をも人と思わず」「世を世とも思わぬ」罪に対する告発であり、その罪の行為に対する正当防衛ともいうべき一種の抵抗の権利の発動であり、しかもその発動が、「理念としての血縁への忠誠」に抵触しないからであろう。ということは、ここに、謀叛を起す側にも起される側にも、ともに共通する一つ[の]「義」への忠誠が要請されており、それが基準となって、それにはずれた者の方が不当なのであって、「起す側」「起される側」「天皇家の介入」といったことで、「正当」「不当」がきまるわけではないことを示している。そしてこの基準がハビヤンにとっては「聖」であり、神に等しい絶対であったのであろう。(124頁)

 「人をも人と思わず」「世をよとも思わぬ」行為が、義に悖るものとして認識される。したがって、そうした行為と見られないものが正当な謀叛として大義を持っていると人々に認識され、その一つの例としてハビヤンは、平家打倒を目指す源頼朝の挙兵を挙げる。もっと時代を下れば、明智光秀の信長に対する謀叛が不当なものと認識され、その光秀を討とうとした羽柴秀吉が認められたのかを考えれば、より分かり易いだろう。

 こうした「日本教」においていかに生きることが求められているのか。そこにおいては中庸と形容できるような有り様が理想像の一つとして描かれている。

 人間の一生の「貸借対照表」は、その人の終末において決算をすれば、結局は勝者も敗者も同じであるという考え方なのである。いわば頼朝のように、この貸借のバランスをとっていれば、すなわち「人間相互債務論」に基づく「負債」を意識してその意識に基づいて行動していれば、その生涯は、勝者として終りを迎えうる。しかし「受恩」の義務を認めず、一方では「施恩」を権利と意識して、その権利を乱用して自己の「資産」を浪費してしまえば、結局、破産者=敗者として、生涯の終りにそれを清算しなければならぬ、しかし、清算がすめば、人間は結局同じだというところに、いわば彼の「救い」があるわけであった。(145頁)

 ポジティヴとネガティヴの絶妙なバランスを取ること。換言すれば、物事がうまくいっている時には分をわきまえてほどほどのところで前進することを慎み、うまくいっていない時には諦めずに打開しようとする。「日本教」が他国から理解されにくく、また私たち自身もよくわからない原因の一つが、こうした極めて曖昧でハイコンテクストな部分にあるように、私には思える。


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