2014年12月6日土曜日

【第384回】『国盗り物語(一)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)

 戦国時代を描く小説、とりわけ信長や秀吉を主題とした著作を読むと出てくる「蝮の道三」。子どもの頃から斎藤道三の存在は知っていたが、主人公として描かれた作品を読むのは初めてであった。一介の油売りから身を起こしたとよく形容されるが、本作を読めば、それどころか寺を抜け出て何もない所から国のトップに立つところまで至ったことが分かる。その希有な人間性の本質は何か。三つほど挙げてみたい。

 澄んでいる。この男の声をきく者は、すべて、これがなまな人間の穢身から出た声か、とおもうほど、清らかである。自分のやることのすべてが正義だ、と信じている証拠だろう。(22

 一つめは、自分自身がやることを、どのようなことであれ、正義であると信じ込んでいる点である。自分に対する自信が揺らがず、信じて疑わない。少しでも自分を疑ってしまうとその自信の欠落が表面に現れ、他者にも伝わる。それがないため、他者から信頼を得られる。その信頼のもとが、道三の虚構であろうとも、他者はともすると進んで道三を頼ってしまうのであろう。

 庄九郎も、手をにぎった。冷徹な計算力が働くかとおもえば、ときに激越な感情家でもある庄九郎は、手をにぎりながら懐かしさに堪えきれず、涙がこぼれた。(247頁)

 第二は、人間味である。第一の点からは、計算づくで自信を持って行動する冷徹な切れ者という人間像がイメージされるのに対して、第二の点はそれを打ち消すかのような人間性である。情熱と冷静さというともすると相反するように見える二つの性質を併せ持つが故に、道三には不思議なエネルギーが宿されたのではないか。

 庄九郎は、昂奮している。この男ほど人間を馬鹿にしながら、この男ほど人間に惚れやすい男もめずらしい。(489頁)

 第三のポイントは、人間関係についてである。冷静に状況を観察しながら、自分自身が情熱的に振る舞う。こうした人を巻き込むリーダーとしての資質を持ち、他者から惚れられる存在でありながら、他者に惚れやすい存在でもあるというのだから、面白い。

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