<欲望の対象>と<欲望の原因>の区別を使って次のように言い換えてもいい。人は、自分が<欲望の対象>を<欲望の原因>と取り違えているという事実に思い至りたくない。そのために熱中できる騒ぎをもとめる。(39頁)
原因があるから対象が存在するのではない。欲望の対象を所与の前提として、そうした欲望を持っているから行動するかのように人は思うようだ。欲望の多くは、自分自身に備わっているものではなく、外界から与えられるものなのではないか。これが著者の本書における問題意識である。
欲望を取り巻く外界に対する認識の一つに、暇と退屈という似て非なる二つのものがある。それぞれの意味合いについて、著者は以下のように定義づける。
暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇のなかにいる人のあり方とか感じ方は無関係に存在する。つまり暇は客観的な条件に関わっている。
それに対し、退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は主観的な状態のことだ。(100~101頁)
暇が客観的なものであるのに対して、退屈は状況に対する主観的な捉え方に基づくものである、と著者はしている。そうであれば、退屈という状態において、いかに欲望の対象が形成されるのか、ということが問題になってくる。その際の一つのテーマとして、現代社会においては消費行動が挙げられる。
消費者が受け取っているのは、食事という物ではない。その店に付与された観念や意味である。この消費行動において、店は完全に記号になっている。だから消費は終わらない。(147頁)
冒頭で引用した通り、自身の中に欲望の原因があるから欲望の対象を欲するということではなく、外部から与えられた観念や意味によって対象を欲するようになる。したがって、消費行動の主要な原因は自分自身にあるものではなく外部から与えられるものである。だからこそ、自分自身に必要なもの以上のものを、絶え間なく外部から与えられることによって、欲望に歯止めがかからなくなる。これが現代社会における消費行動であると著者は喝破する。
労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象となる。自分が余暇においてまっとうな意味や観念を消費していることを示さなければならないのである。「自分は生産的労働に拘束されてなんかないぞ」。「余暇を自由にできるのだぞ」。そういった証拠を提示することをだれもが催促されている。
だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。(152頁)
消費の対象が労働関係にまで及んでくると、その影響は労働以外の時間としての余暇の時間にまで及んでくることとなる。こうした現象はSNSで飛び交う情報を見れば、嫌が応にも首肯せざるを得ないだろう。むろん、私はSNSが悪いというつもりは毛頭ないし、実際に私も楽しんで使っている。このブログを書いているのもその一環だ。ただし、「自分が余暇を楽しんでいる」ということを不必要に、または他者からの目を気にしてアピールしようとする、という心持ちがあるかどうか。この点に留意しながら、もしそうした心持ちがある場合にはSNSへの投稿を一旦留保するというゆとりを持ちたいと思う。
「決断」という言葉には英雄的な雰囲気が漂う。しかし、実際にはそこに現れるのは英雄的有り様からほど遠い状態、心地よい奴隷状態に他ならない。(299頁)
余暇の消費の延長上で起こるのは、何かを始める、組織を立ち上げる、新しいことにチャレンジする、といった決断をSNSでアピールすることであろう。私自身も二十代の後半まではそうしたことをよくやっていたし、頻度は少なくなれども現在でもそうした行動を時に取ってしまう。ここで著者が指摘しているのは、決断した対象に対する結果に関してではなく、決断することによって他の対象への関心がなくなり、一つのものだけにフォーカスできるという心理状態である。これを奴隷状態と呼んでいることから考えればその含意は分かるだろう。つまり、本来は多様な関心があって揺れ動くのが本性であるのに対して、自分自身が決断したことに焦点を当てることは本性から離れ自分で自分を奴隷状態にしていることに過ぎない。さらには、そうした自縄自縛や疎外といった状態に心地よさを感じるのが、決断をアピールすることが持つ危険性であろう。決断が必要な時もあろうが、常にそうした状態を繰り返したくなる常習性に対して、著者は警鐘を鳴らしているのである。
『自由とは何か』(佐伯啓思、講談社、2004年)
『社会学の根本概念』(マックス・ヴェーバー、清水幾太郎訳、岩波書店、1972年)
『愛するということ』(エーリッヒ・フロム、鈴木晶訳、紀伊國屋書店、1991年)
『社会学の根本概念』(マックス・ヴェーバー、清水幾太郎訳、岩波書店、1972年)
『愛するということ』(エーリッヒ・フロム、鈴木晶訳、紀伊國屋書店、1991年)
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