幼少の頃、アニメで見たり、子供向けの本で三国志には触れていた。子供の目で見ても面白い作品であり、友人と三国志を話題にしていた。中国における三国時代は、日本における戦国時代のようであり、何となく胸躍る雰囲気の漂う物語であることは言うまでもないだろう。但し、しっかりと分厚い小説で読んだことがなかったこともあり、また最近は歴史小説をよく読んでいることもあり、このたび読むことに思い至った。
子供の時に三国志をたのしんでいたときは、冒頭の部分では、関羽や張飛と比較した劉備の「普通さ」が不思議であった。さらにいえば劉備に対して「凡庸さ」のようなイメージを持っていたと思う。なぜ、勇躍する猛将である関羽や張飛から義兄として敬愛されたのか、曹操や孫権と中国を三分して蜀を統べる存在とまでなったのか、よくわからなかった。この劉備に対する見方が変わったのが、大人としていま三国志に向き合った時に抱いた最も大きな気づきである。
玄徳はもとより、そう腹も立っていない。こらえるとか、堪忍とか、二人はいっているが、彼自身は、生来の性質が微温的にできているのか、実際、朱雋の命令にしてもそう無礼とも無理とも思えないし、怒るほどに、気色を害されてもいなかったのである。(184頁)
心を動かされないこと。これは、リーダーとして最も大事な要素の一つではなかろうか。リーダーシップの作用の中の動に関する要素は目立つ一方で、静に関する要素の良さはなかなか際立たない。しかし、ここで描かれている劉備の動かない心は、どこか響くところがある。
四、五年前に見た黄河もこの通りだった。おそらく百年、千年の後も、黄河の水は、この通りにあるだろう。
天地の悠久を思うと、人間の一瞬がはかなく感じられた。小功は思わないが、しきりと、生きている間の生甲斐と、意義ある仕事を残さんとする誓願が念じられてくる。(206頁)
劉備における静のリーダーシップの本質の一端は、時間観にあるのではないか。目の前の時間というよりも、自分自身をも超えた広くて長い時間軸を以て世界を眺めているため、現在に一喜一憂しないのであろう。
劉備のライバルとなる曹操も、この第一巻から登場する。鼻っ柱が強くエリートのようなイメージを持つ彼の存在がまた、劉備との好対称を為し、三国志の物語としての面白さを増している。
戦は、実に惨憺たる敗北だったが、その悲境の中に、彼らは、もっとも大きな喜びをあげていたのだった。
曹操は、臣下の狂喜している様を見て、
「アア我誤てり。ーーかりそめにも、将たる者は、死を軽んずべきではない。もしゆうべから暁の間に、自害していたら、この部下たちをどんなに悲しませたろう」と、痛感した。
「訓えられた。訓えられた」と彼は心で繰返した。
敗戦に教えられたことは大きい。得難い体験であったと思う。
「戦にも、負けてみるがいい。敗れて初めて覚り得るものがある」
負け惜しみでなくそう思った。(474~475頁)
初めての敗戦で死地から辛くも免れた後に、曹操が帰って来たことを喜ぶ将兵たちの様子から学ぶシーンである。天才肌の奸雄として描かれてきた曹操が、純粋な気持ちで反省し、学ぶ姿が、美しさすら感じさせる。
『三国志(二)』(吉川英治、講談社、1989年)
『三国志(三)』(吉川英治、講談社、1989年)
『三国志(四)』(吉川英治、講談社、1989年)
『三国志(五)』(吉川英治、講談社、1989年)
『三国志(六)』(吉川英治、講談社、1989年)
『三国志(七)』(吉川英治、講談社、1989年)
『三国志(八)』(吉川英治、講談社、1989年)
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