2014年12月20日土曜日

【第390回】『菜根譚』(今井字三郎訳注、岩波書店、1975年)

 NHK教育の「100分 de 名著」での2014年11月放送分で取り上げられた本書。今日的な表現で言えば自己啓発書とも捉えられかねないものであるが、私にはそのように思えない。というのも、現代における自己啓発書がハウツーを提示するのに対して、本書は多様な考え方の存在を示唆させるような逆説的な表現に満ちているからである。人間の持つ多様な価値観の存在を前提にして、自分自身が見ていない側面に焦点を当てる論法は刺激に満ちている。珠玉の言葉の数々を、いくつか紹介していきたい。

 君子の心ばえは、青天白日のように公明正大にして、常に人にわからないところがないようにさせねばならぬ。然し才智の方は、珠玉のように大切に包みかくして、常に人にわかりやすいようにしてはならない。(その心事が明白でないと陰険だと思われ、その才華を表わしすぎると、衒うと思われるから。心事が本で、才華は末である。)(前集・三)

 意図は明確に示す一方で、能力は全てを見せないようにする。これと逆のことを想起すれば、この指摘のポイントが分かり易いだろう。つまり、能力があることが明白であるのに、何をしようとしているのか意図が不明瞭な人物がいたら、周囲は警戒するだろう。

 (人情は翻覆常なく愛憎は忽ちに変ずる)。恩情の厚いときに、昔から、ややもすれば思わぬ災害を生ずることが多い。それ故に、恩情が厚くて得意な境遇のときに、早く反省して後々の覚悟をしておくがよい。また物事は失敗した後に、かえって成功の機をつかむことが多い。それ故に、失敗して思うにまかせぬときにこそ、手を放し投げ出してしまってはならない。(前集・一〇)

 他者から評価されている間に自分自身を省みるようにし、うまくいかないときに諦めずに努力しようとすること。自明の理であるとともに、行なうことは難しい真理である。

 苦心して仕事にはげむのは、たしかに美徳である。しかし、あまり苦心してあくせくしすぎると、本性を楽しませ心情を喜ばせることがなくなってしまう。また、さっぱりして執着がないのは、たしかに風格が高い。しかし、あまり枯れて干からびすぎると、人を救い世に役立つことがなくなってしまう。(前集・二九)

 こうした逆説的表現が本書の最大の魅力であろう。執着せずに淡々と仕事をしすぎることも良くないし、また苦労を買ってしゃにむに働きすぎるのも良くない。どちらとも自分の中に思い至ることがあるポイントであり、心がけるようにしたいものだ。

 古人の書物を読んでも、字句の解釈だけで聖賢の心に触れなければ、それでは文字の奴隷となるにすぎない。また、官位にあっても、俸給を貪るだけで人民を思い愛さなければ、それでは禄ぬす人となるにすぎない。また、学問を講じても、高遠なりくつを説くだけで実践躬行することを尊重しなければ、それでは口先だけの禅となるにすぎない。また、事業をおこしても、自分の利益だけを計って後々のために徳を植え育てておくことを考えなければ、それでは目先だけの花となるにすぎない。(前集・五六)

 テクストを理解することだけではなく、そのテクストを書く背景にある著者の心を感じ取ろうとすること。「文字の奴隷」という言葉が重たく刺さる至言である。

 心はいつも空虚にしておかねばならぬ。空虚であれば、道理が自然にはいってくる。また、心はいつも充実しておかねばならぬ。充実しておれば、物欲がはいる余地はない。(前集・七五)

 これまた難しい二律背反である。空虚にしながら、充実させておく。考え続けたいテーマである。

 人格が才能の主人で、才能は人格の召使いである。才能だけがあって人格の劣ったものは、家に主人がいなくて、召使いが勝手気ままにふるまうようなものである。どんなにか、もののけが現われて、暴れまわらないことがあろうか。(前集・一三九)

 人格の陶冶なくして、才能を活かすことはできない。そうであるにも関わらず、能力や才能の向上を徒に煽り、人格に焦点を当てる書籍がいかに少ないか。しかし、そうであるからこそ、人格に焦点を当てることの重要性が高いというのもまた、皮肉な現象である。

 つまらぬ小人どもを相手にするな。小人には小人なりの相手があるものである。また、りっぱな君子にこびへつらうな。君子はもともとえこひいきなど、してくれないものである。(前集・一八六)

 前段には目新しさを感じなかったが、後段にまでは思いが至っていなかった。たしかに、自分が尊敬する相手には媚び諂ってしまうことがあるにもかかわらず、それをそのまま受け取ってもらえない感覚を持つことがよくある。その理由は、ここでの指摘にある通りなのであろう。

 倹約はたしかに美徳ではあるが、度を過ごすとけちになり、卑しくなって、かえって正道を損なう結果になる。また、謙譲は良い行為ではあるが、度を過ごすとばかていねいになり、慎みすぎで卑屈になって、たいてい何かこんたんのある心から出ている。(前集・一九八)

 後段は、慇懃無礼を指しているのであろう。しかし、丁寧すぎると翻って礼を失するということに加えて、何らかの良くない意図が内包されているようにすら見えてしまうものだという指摘を心して受け止めたい。

 思い通りにならないことを気にかけすぎるな。また、思い通りになってもむやみに喜んではならない。いつまでも平穏無事であることをあてにするな。また、最初から困難を思って気おくれするな。(前集・一九九)

 考えさせられる逆説の繰り返しである。スタティックな状態を期待してはいけない一方で、ダイナミックな変化を恐れてアクションを起こさないこともまた戒められている。

 歳月は、元来、長久なものであるが、気ぜわしい者が、自分自身でせき立てて短くする。天地は、元来、広大なものであるが、心ねの卑しい者が、自分自身で狭くする。(方々に不義理を重ねたりして)。春は花、夏は涼風、秋は月、冬は雪と四季折々の風雅は、元来、のどかなものであるが、あくせくする者が、自分自身で煩わしいものとしている。(すべて、その人の心の持ち方によるものである)。(後集・四)

 読むだけで長閑な気持ちになる箇所である。このようにありたいものだ。

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