桜田門外ノ変を現場で指揮した関鉄之介に焦点を当てて描かれた本作。変事に至るまでの緊張感の高まる描写も凄いが、暗殺を完遂したのちの行動に多くのページが割かれている。
本書を読むまでは、桜田門外ノ変は、井伊直弼を殺害するという水戸浪士の怨恨的な目的による事変であったと認識していた。しかし本書によれば、大老を除いた後に朝廷を擁護して官軍として倒幕活動を行うことが大目的であったという。桜田門外ノ変において薩摩藩士が参加していたことからも納得的である。
しかしながら、事前の計画通りにいかないのが世の常なのであろうか、はたまた計画が杜撰だったからであろうか。井伊直弼の暗殺とともに朝廷を守護するべく兵を上京させると約していた諸藩は動かなかった。鉄之介が事変後に訪れた諸藩での対応にはもの哀しさすら感じられる。
さらには、脱藩したとはいえ心の拠り所である水戸藩の、事変の関与者に対する対応もまた、凄まじい。
水戸では、斉昭が藩士に軽はずみな行動に出ることをきびしく禁じたが、会沢正志斎は、大老暗殺を決行した水戸脱藩士たちの行為に激怒していた。
ことに、総指揮をとった高橋と金子への怒りはきびしく、斉昭に上書して、藩政改革に反対した門閥派の谷田部藤七郎兄弟よりもその害は百倍も重い、と記した。(154頁)
桜田門外ノ変を起こした水戸藩の改革派にとって、尊崇の対象は藩主斉昭であり、思想的なバックボーンは藩校の教授頭取であった会沢正志斎であった。その両者から、この事変が否定されたのである。改革派にとっては織り込み済みなのかもしれないが、心情的にはどうだったのだろうか。
それでも、斉昭の存在は鉄之介にとって大きかったようだ。
かれは、自分の半生が斉昭のためにあったのだ、と常々思っていた。自分だけにとどまらず水戸藩の同志たちは、斉昭の栄誉を維持するために心身を捧げ、桜田事変も斉昭を執拗におとしめた井伊直弼に対する報復であった。そのため多くの同志が命を断ち、捕われ、自分も追われる身ににあっている。
もしも、斉昭という存在がこの世になければ、自分は下級藩士として妻子とともに水戸城下で安穏にすごし、ささやかな出世を願って勤務にはげんでいただろう。
斉昭は、自分が生きる意味そのものであり、その死によって心の支えが音を立ててくずれるのを感じた。(291頁)
逃亡先で、斉昭の訃報に触れた際の鉄之介の述懐である。著者によるフィクションであるとはいえ、読んでいてもの悲しくなるシーンだ。
ただ、怖いと感じるのは、あとがきで著者が触れているように、桜田門外ノ変は二・二六事件と近い点である。過剰な精神論、一方的な天皇への忠誠、それらを阻害していると認識する権力者の殺害計画、事後の計画の杜撰さ。物語を読み進めると鉄之介や改革派に同情してしまいがちだが、一歩引いて捉えることもまた、重要なのかもしれない。
【第881回】『桜田門外ノ変(上)』(吉村昭、新潮社、1995年)
【第871回】『漂流』(吉村昭、新潮社、1980年)
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