江戸末期、なぜ、徳川御三家と呼ばれた水戸藩が幕府と対立することになったのか。尊王攘夷思想がその大きな思想的なバックボーンとしながら、本書ではそれに付随する要素が詳らかに解説されている。さながら、小説を読みながら、幕末史の一端を学べる一石二鳥の良書だ。
まず水戸藩がいかにして急進的な尊王攘夷思想の運動に傾注していったのか。背景には、藩内で元々の家格の高かった門閥派と呼ばれる家臣団と、改革派との対立がある。両派の対立が本格的に生じたのは、第八代藩主斉脩の後継問題が起った時からはじまったとされている。思想的な対立が、後継者問題によって先鋭化するのは、後述する将軍継嗣問題と同じである。
第九代藩主となった徳川斉昭は藩政改革を行い、藩を代表する学者であり尊王攘夷思想家であった藤田幽谷・東湖父子の教えを受けた門下生を中心とする改革派によって支持された。反対に言えば、斉昭は、門閥派が藩の要職を占めていた藩政を、改革派の支援によって改革しようとしたと言える。
しかし、異国船の増加に頭を悩ませる幕府に対する斉昭の過度な藩政改革の一部が、幕府側の反発を招き、1844年に藩主退任と謹慎処分が下される。具体的には、改革の一つとして、増加する寺院と僧侶により領内の経済と領民の生活が重い負担を強いられる傾向にあったことが挙げられる。斉昭は、仏教を排除し、代わりに尊王の背景にある神道を重視した。この宗教改革が、幕府の許しも請わずに行われたことを門閥派が幕府に訴え、幕府の力を借りて門閥派が改革派の首謀である斉昭に一矢報いたのである。
内政は外交に通じる。藩内政治は、幕府政治と影響するが、幕府政治は諸外国との外交に影響を受ける。斉昭の謹慎は、増加する異国船への対応という外交政策によって、解かれることになった。
阿部は、早くから斉昭の国防論に共鳴していて、斉昭の力をかりて異国船対策に取りくもうとする気持が強かった。斉昭は、初めの頃は異国船を容赦なく打ちはらうべきだと主張していたが、日本の軍事力が外国とは比較にならぬほど劣弱であることから、軍備の強化を先決とし、それがととのってから決戦の覚悟をすべきであるという考えに変っていた。それは、かれが熱心に外国事情を研究した末の結論で、藤田東湖、会沢正志斎ら改革派のすぐれた学者の意見をいれたものでもあった。(32頁)
老中阿部正弘の外交政策ブレインとして斉昭は幕政の中心に返り咲いた。しかし、ペリー来航ののちにハリスが来日し条約締結を迫るのと時を同じくして、阿部が病死した頃から、斉昭は幕府の権力中枢で孤立する。
さらには水戸藩士によるハリス暗殺未遂事件が表面化したことで、幕府による水戸藩に対する警戒感は強まった。過激な攘夷思想による排外主義的な行動をとるというレッテルが貼られたのである。
水戸藩を幕府と対立させた決定打は、条約締結問題と絡んで生じた将軍継嗣問題だ。実の息子である一橋慶喜を推す斉昭は、越前・薩摩・宇和島・土佐の諸藩主と連携しながらも、徳川慶福を推す紀州派との暗闘に敗れる。その紀州派の中心にいた井伊直弼に、水戸藩が目をつけられたのは、政治に敗れ、かつ江戸から近い距離にあったことから致し方なかったのかもしれない。
こうして、尊王攘夷思想と相容れない外交感を持ち、水戸を苦しめる安政の大獄の首謀者である井伊直弼に対して、水戸藩の藩士が恨みを抱く要素が十二分に用意される。憎い存在である井伊直弼の暗殺に向けた藩士たちの各藩への奔走が描かれ、下巻の桜田門外ノ変の実行へと続く。
【第871回】『漂流』(吉村昭、新潮社、1980年)
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