2011年10月10日月曜日

【第47回】『昭和史1945−1989』(半藤一利、平凡社、2009年)

 「1980年以降生まれの世代は日本の右肩上がりの景気とそれに伴う高揚感を知らない」という趣旨のことを堺屋太一さんが以前述べられていたと記憶している。そうであるからこそ、この世代は生きることや成長することに対する切迫感が強い、と続く堺屋さんの主張に首肯しつつ、1980年より前の世代に対する羨望を抱いたものだ。1980年より前の世代が体感し、1981年生まれの私がリアリティを持って経験していないものはなにか。それは「昭和」という時代である。

 朝鮮戦争特需と高度経済成長によって世界の経済大国の仲間入りをし、バブル景気で景気が最高潮に達し、同時に終焉を迎えた、という経済上の流れは有名であろう。しかし、本書を読んで興味深かったのは、そうした経済上の成功を実現するための土台は、戦後の混乱期の政治史にあったのではないか、ということである。とりわけ東京裁判である。

 国内政治は国際政治に規定されるという点から考えれば、東京裁判が行われた1946年5月3日から1948年11月12日までの日本を取り巻く世界の情勢を見る必要がある。この時期には、チャーチルによる「鉄のカーテン演説」、ベルリン封鎖、イスラエルの建国といった東西冷戦の開始時期と符合する。つまり、大きな流れの中で緩やかに変化したというよりは、大戦争への緊張感が一気に高まった状況と言えるだろう。

 こうした状況を踏まえて、GHQの日本政府に対する姿勢の変化があったという著者の指摘はその通りだろう。すなわち、戦後直後のようにGHQが強気一辺倒で日本政府に対して政策の押しつけを続ければ、日本国内に革命機運が高まる懸念がある。革命機運が高まれば、同じ時代に共産主義化した諸外国を手本にした共産・社会革命を着想することは自然であろう。日本がソ連を首領とする共産圏に走ることは、GHQおよびアメリカ政府にとって最悪のシナリオであったに違いない。したがって、あるべき論ですべての戦犯に対して厳罰をもって裁くことはできなかったし、昭和天皇に対する処遇についても大きな影響を与えたことは間違いないだろう。

 このようにセンシティヴな背景で行われた東京裁判において、昭和天皇の戦争責任を問わないことはGHQやアメリカ政府にとって規定路線であったらしい。他方で、東京裁判に検事を派遣しているソ連や中国といった国々は天皇の戦争責任を明らかにしたかったようである。このような入り組んだ状況であるからこそ、裁判中のアメリカ側の検事は大変な気苦労があったようだ。たとえば、戦争犯罪を追求する側のアメリカのキーナン検事は、A級戦犯の罪を暴くために質問を行うのだが、それが天皇が主催した御前会議については触れないようにしていた。御前会議が戦争の意思決定の場でありそこでの天皇の発言が意思決定であったと断定されれば、ソ連や中国の検事に追及されて天皇の戦争責任を認めざるを得なくなる。東条の一言でアメリカ側の思惑が崩れそうになった時には、被告人、その弁護団、そしてアメリカの検事団までもがなかば「協力」して既定路線にあったかたちに修正する一幕もあったようだ。

 では、出来レースと言われてもしかたがないような東京裁判にはどのような意味があったのだろうか。
 
 著者によれば三つの特徴が挙げられる。一点目は日本の現代史を裁く、という意味があったとされている。戦勝国が行ったことにはすべて正当性があり、つまりアメリカの二度に渡る原爆投下やソ連による満州侵攻に対してお墨付きを与えたのである。二点目は戦勝国側による復讐の儀式である。これは国内政治が国際政治を規定する、という点で考えれば分かりやすい。日本との戦争における戦勝国でも多大な犠牲が出た。したがって、亡くなってしまった自国民の同胞に報いるためにも、日本に対して犠牲を強いらなければ治まりがつかなかった、ということであろう。三点目として日本国民への啓蒙強化の目的、ということが指摘されている。これは、軍部や政府による情報統制の結果として多くの日本国民が知らなかった日本軍による虐殺の数々を知らしめて戦争の悲惨さを理解させること。それに加え、戦争の責任は善意であった日本国民にはなく、悪意であった犯罪的軍閥にあった、ということを示し、平和を愛する民主主義国家の人民になるよう導く、という教条的なものであった、と言えるだろう。

 東京裁判に対する「法の適正な手続き」をはじめとした批判があることはよく分かる。しかし、そこから学べる点を探し、また東京裁判が今の日本に影響を与えている点を自覚することが「歴史を学ぶ」ことになるのではないだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿