2011年10月30日日曜日

【第50回】『フーコー・コレクション1 狂気・理性』(M.フーコー、筑摩書房、2006年)

 フーコーは、理性を明らかにするために狂気を研究した。本書のタイトルにもある狂気と理性とは、一見して単なる反対概念のように思えるが、反対概念とはすなわち相補関係である。
 
 いわば狂気の誕生とも言える現象は、精神疾患を狂気と認定した事実に拠るところが大きいようだ。精神疾患を狂気と認定する主体は医師であり、医師とはすなわち理性的な人間の代表的な存在である。理性的な存在が狂気を抽象化し、理性的な秩序の一部に嵌め込むことで、狂気を理性の支配下に置こうと試みたのである。その結果、狂気を対話不可能な存在として位置づけることで、非理性的な存在である狂気を持つ人間は理性的な人間から隔離される論理が構築されたのである。

 フーコーによれば、狂気を理性的に位置づけることは、教会が医学の力証言を求めて行ったものである。ここで注目すべきは、もともと教会と医学とは円満な関係ではなかったということである。いわば狂気を位置づけるために、キリスト教会は医学の力に助けを求めざるを得なかったのである。こうして教会と医学との歩み寄りが実現し、狂気を医学的にも宗教学的にも同定し「異端」とすることに成功したのである。

 こうした狂気の歴史を紐解くことは、狂気とそれを包摂する社会との関係性を明らかにすることになる。それはすなわち、人為的な制度、法律、警察、科学的概念、といった様々なものの構造的な研究を行うことに他ならない、とフーコーは述べる。このように考えれば、狂気とは理性的な社会の中にしか存在しないということが分かる。つまり、野生の状態において狂気とは存在しないのである。そこに存在し得るのは名状しがたい現象であり、狂気ではないのである。
 
 狂気という言葉を発する時に内包する意識について自覚的である必要がある。なぜなら、この言葉を使ってしまう以上、そうした対象との分断が行われ、分断された対象とは対話の可能性がなくなってしまうからである。主体が国家であれ個人であれ、理性によって啓蒙するという「上から目線」の危険性をフーコーは示唆しているように私には思える。

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