2018年3月4日日曜日

【第814回】『孤高の人(上)』(新田次郎、新潮社、1973年)


 単独登山の開拓者である主人公の人生を描いた本作。冒頭の部分から主人公の短い人生が指摘されているために悲しい結末を予期しながら読まざるを得ない。

 先にある暗い結末を思いながら読み進めることは憂鬱ではある。しかし、山に臨む主人公の清々しい気持ちや、日常における不器用ながらも誠実に物事に取り組もうとする姿勢に魅了される。

 特に、山の描写には惹きつけられる。たとえば以下の二カ所を読んでいただきたい。

 燕岳は緑の這松地帯の上に白いなめらかな奇岩を擁していた。風化現象によって細く鋭く磨きあげられた白い岩群は、遠い昔からきめられた作法を維持するかのように、ひとつひとつが欠くべからざる美の要素として、どの一部を取っても、すべて絵の主題になり得るような配列をなしていた。(163頁)

 なぜ、そんなふうに、巨大な石のかたまりが、そこにあるのだろうかという、自然の配剤に対する感謝をこめた疑念が青空に向って突き出ている槍ヶ岳を見たときに起った。そして、その槍こそ、日本の山を象徴する中心であるような気がした。(187頁)

 山を近くから眺めたり、山の頂上付近からの眺望はあまりに美しく、どのように表現して良いかわからない。しかし、上に引用した著者の文章にはうならさせられるばかりである。これほど美しく、かつ飾らない表現はなかなかお目にかかれない。

 冬山への挑戦という観念が大きな誤謬だった。戦いであると考えていたところに敗北の要因があった。山に対して戦いの観念を持っておしすすめた場合、結局は負ける方が人間であるように考えられた。老人のいった、えれぇこったということばは、えらいことだのなまったものだろうが、その言葉は哲学的な深みを持っているように考えられた。たしかに冬山をやることは、えらくたいへんなことであった。たいへんなことをやろうとする以上、たいへんな覚悟でかからねばならない、いそがず、あわてずに、慎重にやらねばならないということが、えれぇこったと口でいいながら歩くとえれぇことにならなくて済むのだ。それは、あの長い八ヶ岳の山麓を歩きながらためしたことであり、それがまた、冬の八ヶ岳の頂上においても通用することに加藤は刮目した。(238頁)

 山に対する主人公の態度が清々しい。自然と対立しようとするのではなく、また敵わない相手として観念するのでもない。尊敬の念を持ちながら、大変なことであることを自覚して一歩一歩踏み進めること。登山だけではなく、人生にも言い換えることができそうな至言ではなかろうか。

【第766回】『八甲田山死の彷徨』(新田次郎、新潮社、1978年)

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