2017年8月6日日曜日

【第734回】『日本仏教史』(ひろさちや、河出書房新社、2016年)

 「日本において仏教は、民衆や庶民のための宗教ではなしに、支配階級のための宗教でありました。」(16頁)という冒頭の話に目から鱗が落ちる思いであった。仏教に造詣のある方々には当たり前のことなのかもしれないが、いわゆる宗教というものである限り、個人が依拠するものであり国家が介在することは二次的なものだと考えていた。

 しかし、考えてみれば当たり前であるが、現在のように情報や人の行き来に制約があった島国という特性を考えれば、ユーラシア大陸から流れてきたものは国家が輸入したものである。したがって、日本における仏教という存在には、その出自として国家仏教としての意味合いが強いことを意識する必要があるだろう。

 こうした国家のアイデンティティと関連する存在であるからこそ、明治における廃仏毀釈という現象を理解することができる。天皇を中心とする国体を創り上げるという近代明治国家の物語を正当化するためには、神道との近接を図ることが合理的である。いわば、国家神道というフィクションによって、権力主体の正当性を明らかにしようとしたのであり、そうなると邪魔な存在になるのがもう一つの国家宗教である仏教である。仏教の正当性を打破することで、神道の正当性を証明するために廃仏毀釈という考え方に至ったのである。

 国家宗教が持つ宿命としての、権力主体からの庇護と排撃。その宿命を持った仏教を、導入時に広く膾炙させた聖徳太子が、皮肉にも政治性を除いた仏教の本質を提示していた、という著者の主張は興味深い。やや長いが引用する。

 仏教者としての聖徳太子の思想は、「世間虚仮、唯仏是真」に結実している。
 そしてこれこそが、仏教の真実をよく言い当てた言葉である。わたしたちが仏教を学ぶのであれば、世間を虚仮と見なければならない。(中略)
 聖徳太子は、仏教の真理をよく見抜いた人である。わたしは彼を尊敬する。
 ところが、日本の仏教は、太子によって喝破された仏教の真理をまったく無視してしまった。仏教は権力者のものであり、権力者にとっては世間が虚仮であるか/否か、いっさい関心がない。ただうまく仏教を利用して、自分たちの利益を増大させることだけが大事なのだ。そして、権力者イコール国家であるから、仏教は徹頭徹尾「国家仏教」である。その「国家仏教」は、真の仏教者=聖徳太子の発言なんかに聞く耳を持たないのは当然であった。

 だとすれば、聖徳太子は古代の日本の土地で咲いた仏教の徒花であった。わたしにはそのように思えてならないのである。(29頁)


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