2011年4月3日日曜日

【第19回】『ザッポス伝説』(トニー・シェイ著、ダイヤモンド社、2010年)

偉大なリーダーが世の中にはいるものだ。

ザッポスCEOのトニー・シェイが自ら著した本書には、バリューや経営戦略の真髄が至るところに現れている。実務家の生の声がこれほど経営学のフォーマル・セオリーに結びついている書籍はあまりない。コア・バリューと経営戦略との整合性がザッポスの強みであるが、そのバリューを成り立たせているのはザッポスに至るまでの著者の半生にあるのではないか。

著者は幼少の頃から儲けることが好きで事業を立ち上げていたと述懐している。ハーバードを卒業した後に創業した企業の売却によって巨万の富を得ることで、生まれてから追い続けてきた「儲ける」という目標を十二分に達成したわけである。

しかし、目標達成の直後に違和感をおぼえ、立ち止まり、深く内省する。著者は「幸せを感じた時のリスト」を作成し、そうして列挙されたリストにお金が伴っていないことに気づく。そして、優れた組織を創り上げることに焦点を当て始める。

優れた組織を創り上げる背景には、組織論と戦略論とが関連する。「組織は戦略に従う」と喝破したのはチャンドラーであり、反対に、「戦略は組織に従う」としたのはアンゾフである。つまりは組織論と戦略論とは相補関係にある。著者がザッポスにおいて成功した理由も、その二つにあることが本書では示唆されている。

まず組織論について。著者は良い企業文化を築き上げることが組織として利益を上げるための源泉であると述べている。そして、企業文化を創造するために、コア・バリューを全社員とのコミュニケーションを通じて設定したというのだから驚きである。対話を通じた理念浸透という文脈においてはリクルート社のデンソーにおける取り組みを髣髴とさせる。

そして、全社員が自分のものとして共有するコア・バリューをもとにして求められる人材像を定義している。著者自身も参考にしたと述べているが、『ビジョナリー・カンパニー②飛躍の法則』で言うところの「だれをバスに乗せるか」という話である。つまり、適切な人材に入社してもらう、ということである。採用および入社後の教育へのカスケーディングも見事であり、自社にとってなにが大事なのか、という視点が徹底して追求されている。

次に戦略論の視点で述べれば、各戦略アイテムの間における整合性が取れており、美しさすら感じる。一橋大学の楠木建さんの言葉を借りれば、ザッポスの経営戦略は一つの美しいストーリーとして織り成されているとも言えるだろう。

具体例を挙げよう。ザッポスではコール・センターを自社で持つだけでなく、それを自社のビジネスの根幹を為すものとして位置づけている。それだけではない。多くの企業ではコール・センターで働くオペレーターの通話の効率性を重んじ、いかに短時間で、いかにアップ・セルを掛けられるかを業績指標に設定しているのに対して、著者はそうした方法を明確に否定している。問い合わせの電話を顧客の真のニーズを探る最適な機会と捉えているため、マニュアル原稿は設けず、対応時間を意図的に気にしないしくみを整えているのである。つまり、ザッポスにおいてコール・センターはアフター・セールスとしての機能だけではなく、マーケティングや物流としての機能をも担っているのである。

もちろん、ザッポスでうまく機能しているからといっても、どの会社でも同じようにコール・センターを運営すれば良いわけではない。楠木さんが書いているように、自社のビジネス領域と戦略との適合性を考えずに他社の戦略をベンチマークと称して猿真似することは「自殺」行為なのである。あくまで起点となるのは自社の理念、戦略、そしてあるべき組織像である。

このように環境変化に合わせて戦略と組織との整合性を取り続けていることがザッポスの強みであると考える。その強みは著者だけに拠るものでないことはもちろんである。しかし、成功のための大きな一石を投じたのは著者にあり、そこに彼のリーダーシップを見出せる。

リーダーシップ教育を行なうNPOの代表を務める野田智義さんは、神戸大学の金井壽宏さんとの対談の中で「リーダーを目指してリーダーになった人はいない」と言う。ザッポスに至るまでの著者にも人を束ねるという記述は見られず、いかに自身が儲けるかという自分視点の述懐ばかりである。

しかし、そうした過去の内省を踏まえてザッポスにおいてはバリューを大事にし、顧客や社会への貢献に取り組んだ。そうすることで社員もまた熱狂的に働くようになった。これは同じ想いを組織全体で共有している状態であり、いわばリーダーとフォロワーとの相互依存関係であると言えるだろう。野田さんの言葉で言えば「リーダーシップの共振現象」が起きていると指摘できる。

本書は読み物として面白いばかりでなく、組織論、戦略論、そしてリーダーシップを考える優れた教材であると言えるだろう。

<参考文献>
リクルート HCソリューショングループ『感じるマネジメント』英治出版、2007
ジェームズ・C・コリンズ『ビジョナリーカンパニー②飛躍の法則』日経BP社、2001
楠木建『ストーリーとしての競争戦略』東洋経済新報社、2010
野田智義・金井壽宏『リーダーシップの旅』光文社、2007









2011年3月27日日曜日

【第18回】『反哲学入門』(木田元著、新潮社、2010年)

哲学とは西洋に独特な思考方法であり、なにも普遍的な思考の枠組みではない。したがって、日本人をはじめとした非・西洋文化圏の人たちが哲学的な思考様式に馴染めないことは当たり前である。

著者が第一章で指摘する上記のような主張に触れて、目から鱗が何枚も落ちるような思いであった。哲学というものに大学受験の頃から好んでかじってきたが、本書を読んで、自身が曲解していた部分やそもそも理解できていない部分が多いことに改めて気づかされた。著者は日本に西洋流の哲学がなかったことを積極的に捉えた上で、ニーチェを祖とする反哲学というアプローチの可能性を述べている。

では反哲学とはなにか。「反」というからには、哲学とはなにかについても合わせて述べねばならないだろう。

著者は、哲学とは超自然的思考でありソクラテス/プラトンからヘーゲルまでの潮流であるとしている。それに対して、反哲学とは自然的思考でありソクラテス/プラトンより前の時代とニーチェ以降の潮流である、とする。

前者は自然と人間とを対立的に捉え、自然を超克すべき対象としているのに対して、後者は人間を自然の一部として包摂されたものとして捉えている。そうした捉え方は日本人のアプローチと近いと言えるだろう。実際に著者は、松尾芭蕉が自然を「造化」と呼び、人間は「造化にしたがひ、造化にかへる」としている部分を引用し、その近似性について指摘している。しっくりとくる例証であると言えるだろう。

では、ソクラテス/プラトン以降の西洋哲学が思想的に全く同じかというと、そういうわけではない。要約すればその流れは三つに大別され、それぞれの思想とキリスト教との関連性を捉えると違いが明瞭になる。

一つめはプラトンおよびその思想を引き継いだアウグスティヌスである。プラトンのイデア論を背景に厳格な政教分離を目指したのがアウグスティヌスであり、彼は「神の国」と「地の国」とを峻別することを説いている。その峻別は、政治と宗教だけではなく、信仰と知識、精神と肉体とを分けるアプローチにも繋がっていると言えるだろう。

それに対して、政教を結びつけることを正当化したのがプラトンの弟子であるアリストテレスと、その思想を継承したトマス・アクィナスである。アリストテレスがプラトンのイデア論を批判したように、教会をイデアとして捉えるのではなく、世俗の諸権力とを連続的に捉えようとしたのである。したがって、彼らの思想を背景として教会による国家への介入は正当化されることとなった。

その結果として、15世紀以降に世俗権力との過度な結びつきにより堕落したキリスト教を改革する、と主張したのがルターやカルヴァンである。彼らの思想の背景にはプラトンやアウグスティヌスの哲学が流れていることは自明であろう。つまり、プロテスタンティズムにはプラトンやアウグスティヌスの思想が背骨になっていると考えることは邪推ではないだろう。

このように、キリスト教史を紐解くと、プラトンとアウグスティヌス、アリストテレスとトマス、という二つの潮流による覇権争いが行なわれていると解釈できる。

こうした二つの潮流はいずれも神による視点であり、もっと人間の視点を重視することが大事ではないか、としたのがデカルトである。なにが存在しなにが存在しないかを決定する役割を「人間理性」が果たすとしたのである。これを端的に示したのが彼の有名な「私は考える、ゆえに私は存在する」である。デカルトをもって西洋近代精神の誕生とみなすことが多いのは、自然超克の思想が強固になったことを意味するのではないだろうか。

と、ここで考えねばならないのが、先週のブログで取り上げたサンデルである。サンデルはコミュニタリアニズムの萌芽をアリストテレスに求めており、これは超自然的思考と形容される系譜にあるのは間違いない。他方で、サンデルの主張は非西洋圏での親和性が高いことを考えると、自然を超克するという発想が強いようには思えない。私たちがサンデルを読む際には、彼が自然をどのように捉えているのかについて仔細に見る必要があるだろうが、私の解釈では、彼の政治哲学は反哲学の系譜に位置づけられるのではないだろうか。

先々週から今回まで、三週に渡って哲学に関する書籍を取り上げてきた。来週は気分を新たにしてビジネス書を取り上げる予定である。おそらくは、『ザッポス伝説』を扱うことになるだろう。

2011年3月21日月曜日

【第17回】『サンデルの政治哲学』(小林正弥著、平凡社、2010年)

昨年テレビで放映されて一大ムーブメントとも言える人気を博した「ハーバード 白熱教室」。毎週ビデオに録画をし、たのしみに観ていた。かじったことのある哲学者の名前や考え方が取り上げられているのは刺激的であり、サンデルの問いかけやファシリテーションは実務上の参考となった。

それにもかかわらず、正直に白状すると、ビデオを観ているといつの間にか転寝してしまうことがよくあった。テーマに興味があるのに、集中が持続しない。生来の「ながら族」が故に、他の行動を取りながら番組を観るという姿勢が宜しくなかった、という側面もあるだろう。しかし、集中が続かなかった理由はそれだけではなかった、ということが本書を読んでよく分かった。

集中が持続しなかったもう一つの理由。それはケースメソッドの前提にあった。ケースメソッド形式の授業の場合、ケースとともに参考文献が指定されることが通例である。したがって、あの番組で議論しているハーバードの学生たちは、サンデルの哲学や授業で扱われる哲学者の考え方を予習した上で議論している。つまり、私の集中が続かなかったもう一つの理由は前提知識の欠落にあったと思える。結論的に言えば、あの番組の議論の深みを味わうためには、視聴者も前提知識を持った上で、かつ議論に参加するような真剣さで鑑賞することが求められていたのではないか。

本書は書名の通り、サンデルの政治哲学を解説した本である。大胆に要約してしまえば、リバタリアニズムとリベラリズムを批判的に捉えた上で、コミュニタリアニズムの思想的な可能性を示唆する、という内容である。それぞれの流派を対比的に論じているために、論旨が明快であり分かり易い。そして、こうしたサンデルの哲学の背景を踏まえた上で、前掲番組の書籍版とも言える『これからの「正義」の話をしよう』(以下『正義』と略記)を読んでみた。すると一つひとつの話題の深みを理解でき、一気に読み終えてしまった。前提知識がない状態で悪戦苦闘しながら番組を見ていたときとは好対照である。そこで、『正義』を未読の方には本書をセットで読むことを強くお勧めしたい。

むろん、こうした前提条件を満たしただけで本書および『正義』を一気に読み終えたわけではないだろう。それは必要条件であって、十分条件ではない。その大きな理由は、私がかつてはまった哲学者であるベンサムとロールズを批判的に論じられているからである。ベンサムの功利主義はリバタリアニズムへと継承される考え方であり、ロールズはリベラリズムの代表的論者である。好きな人物を批判されて興味深いというのもおかしいのかもしれないが、これらの人物は哲学者である。哲学者は批判されてこそ価値があると思うし、そうされることで読者は俯瞰的に哲学の体系を理解することができる。だからこそ、好きな哲学者や著者ほど批判されてほしいと考えるのである。

コミュニタリアニズムについて本格的に触れるのは今回がはじめてであるが、偶然にもリバタリアニズムやリベラリズムの思想的限界を真剣に考えたことがある。今から12年前、母校の受験会場で小論文の試験に取り組んだときである。設問は、大きい政府と小さい政府に関する文章を読んだ上で、どちらかの立場に立って他方を批判的に論じよ、というものであった。本書に関連して記せば、大きい政府の思想的な背景にはリベラリズムがあり、小さい政府の背景にはリバタリアニズムがある、と言えるだろう。

18歳の私は、リベラリズム的な考え方の利点を主張し、リバタリアニズムの問題点を指摘した上で小さい政府を批判した。そこですんなりと終えればよかったのであるが、二項対立的な書き方で果たして良いのか、と疑問に思ったのである。なぜなら、リベラリズムにも限界があり、他方でリバタリアニズムにそれを補完する可能性があるのではないか、と考えたからである。さんざん迷った私は、二割弱の分量を割いて、「そもそも問いを二項対立的にしているのが誤りであり、小さい政府にもこれこれのメリットがあるので全面的に批判するのは問題」という趣旨のことを書いた。

この時点でコミュニタリアニズムという具体的な方向性は見えていなかったのだが、その萌芽を感受した原体験であったのではないか、と今になって思えるのである。つまり、リベラリズムとリバタリアニズムでは解決できないなにかがあり、それをどう解消しようかと悩んだのである。このように考えると、今回の読書体験はあのときの「宿題」に取り組む良い機会であったと意味づけられて感慨深い。

私が本書を面白く読んだ理由は上記の通りであるが、なぜ今サンデルが流行っているのか。それは極端な考え方が蔓延しがちな状況の中で、判断力を高めることの必要性を多くの人が感じ取っているからではなかろうか。というのも、サンデルは『正義』の中で自身の哲学の正しさを主張するのではなく、対話の大事さを主張している。異なる立場の人同士が持論を主張しあうだけでは『バカの壁』の状態に陥るだけである。そうした状況を止揚するために、サンデル的な対話および正義を考える思考的枠組みが求められているのではないだろうか。

その前提には自己の中での多様性も大事である。つまり、必ずしもサンデルだけが正しいのではない。あるときはサンデル的な考え方をし、違うときにはベンサムやロールズの考え方を使えるといった具合に、自身の頭の中に引き出しを用意し、それを適切なときに開けるための準備をしておくことが大事なのではないだろうか。

<参考文献>
マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』早川書房、2010
養老孟司『バカの壁』新潮社、2003





2011年3月13日日曜日

【第16回】『国家とはなにか』(萱野稔人著、以文社、2005年)

まず、この場を借りて、今回の地震に被災し、今も苦しんでいらっしゃるみなさまに心からお見舞い申し上げます。

こうした事態に対して私にできることはなにか、と思案した結果、お金を寄付することがベストなのではないかと考えている。寄付という行為に関する最も古い記憶は阪神淡路大震災のときである。当時、中学三年生であったのであるが、クラスメート全員で寄付金を集め送らせてもらったことが原風景としてある。こうした昔の記憶や現在の行為を鑑みると、外国で起きた天災事変に対してよりも、<日本国>内で起きたものに対してより積極的に寄付を行なってしまう心情は否定しがたい。このように考えると、<日本国>という国家、また<日本人>としての私という存在を改めて意識するのである。

本書は暴力の集中化が国家を形成するという考え方を取っている。やや長くなるが、まずは暴力という誤解を招き易い言葉について解説する。暴力という言葉を見ると「暴力装置」発言で大臣を辞めた方を多くの方が想起されるのであろうが、私自身はあの事件に関する報道を憂慮する者である。たしかに、「暴力装置」という誤解を招き易い言葉を、大臣という立場にある人物が使ったことは誤りであったと思う。数週間前に論じた鯖田さんの著書にもあるように、<日本人>は戦争を想起するものに対して心理的に抵抗感を抱きやすいからである。

しかし、ウェーバーを持ち出すまでもなく、「暴力装置」という言葉自体は価値中立的な言葉であり、いわば「右」とも「左」とも関連しないものである。ウェーバーの著書を理解しているはずであるマスメディアの記者たちが、その背景を捨象して「暴力装置」発言のみを取り上げることは、大臣を攻撃するためのものにすぎない。そうした姿勢のみがマスメディアを席巻してしまうという事態は、言論の多様性を著しく否定するマスメディアの自壊的行為とも言えるのではないだろうか。このような文脈で私はあの事件の一連の報道を憂慮しているのである。

暴力とは、実際に行使するのではなく潜在的に行使できる可能性の領域に留まっている限り、相手の行為領域を規定できる、と本書は主張する。暴力の行使そのものは、相手に痛みや怪我といった身体的状態を引き起こすだけであり、相手に意図して行動を取ってもらうことにはつながらないからである。こうした潜在的な暴力の行使可能性を権力と呼ぶ。国家は、否定的な行動への罰としての暴力発動によって権力を実践し、また権力を示威することで暴力の蓄積を行なう、という権力と暴力の相乗的な関係性を用いて成立している、と言えるだろう。

こうした暴力の集中化による国家の形成は、近代国家のはじまりの時期と符合する。言い換えれば、それ以前の国家は、国王どうし、商人どうし、農業従事者どうし、といった国家を超えた職能団体のつながりが強いネットワーク的な多元的国家であり、○○人であるという同胞意識は強くなかったのである。そうした状況で国家を統一させていたものは宗教的な権威であり、近代国家の形成は、宗教的な権威から政治的な権威が自律した結果であると言えるだろう。

では国家を形成する思想的なバックボーンが宗教でなくなった後に、なにがそれに代替したのか。その代替物が「われわれの歴史」という歴史意識である。つまり、その国家の領土内に存在した各時代の政府が担ってきた政治や経済、そこで暮らす人々の生活や伝統を意図的に編纂したものを、国民の歴史として見做すのである。こうして、国家に属する人々の意識の統一化を試みたわけである。

また、国家に存する権力関係の脱人格化という現象も見逃せない。つまり、近代国家では特定の人物に権力が集中するのではなく、特定の機能に権力が集中する形式になっている。こうした匿名の権力化が暴力の組織化を抽象化する。抽象化された権力は、機能を介在してそれを担う人物に関与するため、その人物の意識を希釈化する。つまり、自分の意思決定が最終的な暴力行使に至るまでに無機質なプロセスを経るために、その判断は強化され易いのである。こうした現象もまた、意識の統一化を強化することに繋がるといえるだろう。

上述したことは国家側からの意識の統一化あるが、他方で国民の側から意識の統一化を行なうものがナショナリズムの作用である。なぜ暴力の蓄積形態である国家に対して国民がナショナリズムを希求するのか。それは、国家の暴力はその領土内に住む国民のために行使される、という意識を国民が保有しているからである。

こうしたナショナリズムは類似性に基づく同胞意識の形成にも繋がる。ここにおける類似とは作為的なものである。本書によれば、<われわれ>と<外国人>との間には客観的な差異が予め存在するわけではなく、<われわれ>の同一性が構成される方法こそが、誰が<外国人>でありどのような差異が<われわれ>と<外国人>とを隔てているのかを決定するとしている。つまり、<われわれ>の歴史意識とナショナリズムとは相互に強化し合う密接な関係性を有していると言えるだろう。

では、こうした想像された歴史意識というようなアンダーソンが述べるような国家=フィクション論によって国家と想像されたものとを切り分ければよいのか。本書はそうした考え方を取らない。国家を純然たるイデオロギー装置と捉えることは、暴力の蓄積と権力の正当化という実態的なものを見失うことに繋がるからである。しかし、はたしてその通りなのか。このあたりの議論は、『想像の共同体』やアンダーソンの近著を参考にしながら、近日中に考えてみたい。

本書では国家のメカニズムについて哲学的に論じられていたわけであるが、何が正しいのかといういわば正義に関するものについては触れられていない。そこで次回は、国家単位に囚われず政治哲学の領域から正義について考えたい。取り上げるのは去年流行したマイケル=サンデルさんの著書である。

<参考文献>

鯖田豊之『世界の歴史(9)ヨーロッパ中世』河出書房新社、1989
鯖田豊之『日本人の戦争観はなぜ「特異」なのか』主婦の友社、2005
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』書籍工房早山、2007
梅森直之編『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』光文社、2007










『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫・萱野稔人著、集英社、2010年)

2011年3月6日日曜日

【第15回】『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫・萱野稔人著、集英社、2010年)

いざなぎ超えと言われた20021月~200710月までの69ヶ月に渡る経済成長。この未曾有の好景気を肌感覚として実感できなかった最大の理由は所得が増えなかったからである。では好景気がなぜ国民の所得増をもたらさなかったのか。

本書ではその根本原因を諸外国との交易条件の悪化に見ており、その最も大きなインパクトを与えているものは石油をはじめとした天然資源であるとしている。つまり、好景気によって主に海外への売上が上昇した一方で、生産過程で使われる天然資源の価格高騰により支出が増えたために効果が相殺。その結果として、利益が逼迫して所得の上昇に蓋をした、という構図である。

と、ここまでは普通の議論であるが、本書では天然資源の交易条件が悪化した歴史的な背景を経済および国家という二つのファクターで丹念に議論されているのが特徴的である。

歴史を遡れば、1960年代までは石油メジャーと呼ばれる大手数社が油田の採掘や石油価格を実質的に支配していた。これは、西欧の中心的国家が周辺部に植民地を設け、土地を囲い込むことで資源や市場、労働力を安価に手に入れて経済発展を遂げる、という帝国主義的なアプローチと言えるだろう。しかし、脱植民地化運動や資源ナショナリズムの高揚で中東の資源国が発言力を高めたためにOPECの価格決定力が増した。中東諸国と石油メジャーとの勢力が逆転した事実を端的に表したのが1973年に起きたいわゆるオイルショックである。

中東の石油産出国が影響力の源泉としていたのは、石油の採掘に伴う労働力や土地という実態経済であった。それ以前の石油メジャーも同じ権益により支配力を維持していたのであり、同一のルールに則って勢力の交代が行なわれたと言える。

しかしその後、ルールが変わる。OPECの価格支配に対抗するために、石油を金融商品化して国際石油市場を整備し、金融商品の売買によって利潤を得ようという動きが1990年前後からアメリカを中心に起きたのである。つまり、実体経済に影響を与える地政学的な枠組みが取り払われ新しい経済の流れが生まれたのである。

このような大きな流れで捉えれば、イラク戦争は石油利権という実態経済上の利益を得るための戦争ではない。そうではなくて、ドルを基軸通貨とする国際石油の金融市場のルールを守るためのアメリカによる戦争である、と本書は指摘する。当時を思い起こせば、ユーロが基軸通貨として台頭していた時期であり、基軸通貨競争でドルがユーロに敗れる事態になれば、アメリカが金融取引を通じて内外で得ている利潤が一気に消滅する危険性があったわけである。そのような時代背景の中でイラクは石油をユーロによる取引にすると発表した。したがって、アメリカとしては、他のあり得る理由を根拠にして、自国通貨を守るために戦争を行なったのではないか、という主張である。

この主張の合理性の判断は読者諸氏に任せるとしても、領土を経由せずに、金融取引をもとにして他国の経済を支配するというのが現在のグローバル化であるという論点は充分に首肯できるものと言えるのではないか。そして、その流れに乗り遅れているのが日本経済であるということも言えるだろう。

では、巷間でよく言われるように、こうしたグローバル化の進展に伴って国家の存在意義はなくなるのであろうか。本書ではこのような考え方は否定されている。たしかに近代以降に支配的であった国民国家という形態に変化は起きているが、それは国家じたいがなくなるということではないというのである。というのも、市場と国家とはときに対立的に捉えられるが、それは誤った捉え方であり、市場経済と国家とは共犯関係にあるのである。

つまり、近代資本主義の進展は、暴力を扱う国家と、労働を管理する資本家とを分離する作用をもたらした。国家は暴力を背景として保有する領土内の人民から租税を徴収し、自国以外の存在からの略奪の危険性を排除する。そうした安全面での保障を背景に資本家は経済活動を行なうことで富を蓄積して労働者に配分し、また国家に対して租税を納めて国家の強化に繋げるという構図である。やや穏やかでない書き方になっているが、要は、市場と国家との相互依存関係がイメージしていただければありがたい。

こうした国民国家の形態が変わりつつある、ということはどういうことであろうか。本書によれば、実は、冒頭で記した金融化に向かう現象は現代のみに特有のものではない。つまり、実物経済の利潤低下、金融化の拡大、バブル発生、ヘゲモニーの終焉、という一連のプロセスは、スペインやポルトガル、オランダ、イギリス、といったかつてヘゲモニーを担った国々がかつて経験したプロセスと同じなのである。したがって、我々はこうした脱近代的な社会システムの構築が必要である、というのが本書の結論である。

では、どうすれば良いのか。交易条件を軸にして国家と資本市場との関係性を論理的に導き出す本書の視点は見事であるが、具体的なアプローチは強調されていない。したがって、他の書にその方向性を見てみたい。

私が参考になると思ったのは藻谷浩介さんの『デフレの正体』である。第一に、交易条件が優れた外国に学ぶ、という視点である。その最たる模範例がブランド化である。フランス、スイス、イタリアはITや金融で世界を席巻するということはないが、優れたブランド商品を売ることで莫大な貿易収支を国外から得ている。卑近な例であるが、自家用車は買わないがブランド商品は年に数十万円も消費する、という日本の家庭を思い浮かべれば、その戦略の有効性は自明であろう。したがって、とりわけ新興市場で売れるブランドを強化することが日本の交易条件を強化するために有効なのである。

これ以外にも、高齢富裕層から若者への所得移転を進める、女性労働力の活用、外国人観光客と短期定住者の積極的受け入れる、といった施策が展開されている。個別の議論は本を読んでいただくとして、ここで考えたいことは、こうした具体的で実効性がありそうに思える施策がなぜ現実の経済界や政治界で展開されてこなかったか、ということである。

藻谷さんの主張は、既存の経済「学」の射程にない発想に拠るものである、というのがその大きな理由であるのではないだろうか。つまり、藻谷さんが主張する上述の施策は、サプライ・サイドではなくてディマンド・サイドの施策であり、ディマンド・サイドの富の蓄積主体の移転を主張している。しかし、経済学において、ディマンド・サイドの中身を因数分解するという議論は正当な経済学の射程外なのではないだろうか。そうであるからこそ、藻谷さんや水野さんは「正当な経済学者」から異端として批判されているのであろう。

私はどちらが正しいということを申し上げたいわけではないし、経済学を専門に学んだ人間ではないので言える立場にもない。しかし、既存の経済学、とりわけケインジアンが主張してきたもので言えば、たとえばIS-LM曲線に基づく経済施策は日本経済に効果が薄かったと認識している。2000年代に行なわれた公共工事の増加、地域振興券の配付、高速道路料金の低減、といった財政政策(IS曲線を右側にシフトさせようとする施策)、ゼロ金利政策による金融政策(LM曲線を右側にシフトさせようとする施策)。こういった典型的な経済政策が所得向上に繋がらなかった事実を直視すれば、既存の経済学だけでは対処できないという現実を見つめなければならないだろう。だからこそ、水野さんや藻谷さんといった辺境の経済学者の意見に耳を傾けることは有益なのではないだろうか。

追記
本書は経済と国家に関する書籍であるので両者について書きたかったのであるが、今回は経済に関する記述に傾注しすぎてしまった。そこで、来週は、本書の共著者である萱野さんの『国家とはなにか』を参考にして国家に焦点を当てて書いてみたい。

<参考文献>
福田慎一・照山博司『マクロ経済学・入門』有斐閣、1996
藻谷浩介『デフレの正体』角川書店、2010





2011年2月27日日曜日

【第14回】『多読術』(松岡正剛、筑摩書房、2009年)

最近、人生の大先輩から異口同音に著者の名前を聞き、また「千夜千冊」で読書家として有名な著者の読書方法に興味があったため、本書を読んだ。畏れ多い書き方になるが、著者の読書方法と私の読書方法とで共通する部分があり、安心したことがある。

それは、本を読みながらマーキングをする、という点である。

著者によれば、本にマーキングをすることは、読みに徹することができ、再読のスピードが上がる、という二点のメリットがあるという。同感である。

私の場合は、文章に線を引くだけではなく、読んだ日付を本に記すことにしている。そうすることで、いつ、どのような状況で、その本に接したかを分かるようにしているのである。著者も指摘しているように、読書はコンディションや環境に影響を受けるものである。また、ある時期に読んで意味不明であったものが数年後に読んだら印象が一変する、ということもある。そうしたことで過去の自分との差分を見るためにも、日付を入れることが有効であると考えているのである。

やや余談になるが、本にマーキングをする人物として養老孟司さんの名前が本書で出ている。養老さんは2Bの鉛筆でマーキングをするのだそうだが、2Bの鉛筆がないと読書に集中できないらしい。この気持ちはよく分かる。私の場合は、赤・青・緑の三色ボールペンでマーキングをするため、それがないと読書に集中できない。ために、私が持ち歩く全ての鞄には三色ボールペンが一本ずつ常備されている。(尚、私がなぜここまで三色ボールペンにこだわるかは、参考文献にある齋藤孝さんの本に拠るところが大きい)

読書とはなにか。この大きな問いに対して様々な観点から論じられているのが本書であるが、著者の結論は、読書とは編集することである、という点にある。つまり、インプットした情報を記憶構造で静的に管理するのではなく、インプットした情報と既存の情報とを編集構造として動的に維持するということである。したがって、脳内の情報はネットワークとして組み替えを起こし続ける可変的なものであると言えるだろう。

こうした議論を踏まえ、読書はファッションと同じである、という秀逸な著者のアナロジーが挙げられる。私たちは、ジャケット、シャツ、パンツ、靴下、靴とをそれぞれ単独で選ぶわけではない。それぞれの組み合わせでその日の服装を決めるものである。読書もそれと同じであり、一冊一冊ずつを単独で読むのではなく、本を自由自在に組み合わせて自分の頭の中でコーディネートすると深みが増すわけである。

編集構造としての読書を考えれば、本の情報は送り手から受け手にメッセージを一方的に伝達されるものではないと言えるだろう。つまり、受け手の受け取り方が肝要であり、そうした意味では送り手と受け手との相互交渉によって読書は為されるものである。換言すれば、読書とは単に受動的な行為なのではなく、主体的な行為でもある、とも言えるであろう。

こうした双方向コミュニケーションの一つのありようとして、ダイアローグがビジネスの現場で注目を集めている。これも送り手と受け手との相互交渉を重視した一つの運動であると言える。たとえば、中原淳さんと長岡健さんとの共著によれば、従来型の送り手から受け手に一方的に情報を送り届ける方法は導管メタファーと呼ばれている。そうしたコミュニケーションが成り立つには、世の中には唯一の正しい解答が存在して、それを他者に伝えるということが前提とされているが、現実のビジネス現場がそうした状況にないことは自明であろう。中原さんと長岡さんはそうした問題意識の上でダイアローグの可能性について展開しているのであるが、それを読書に置き換えれば編集構造がキーワードとなってくるのではなかろうか。

編集やネットワークとしての読書を考えるためには、どういった組み合わせを自分の脳内で展開するか、ということが次の課題となる。著者によれば、そのための一つのヒントとして非自己的な本、つまりそれまでの自分が興味を持っていなかった領域の本を読むことを勧めている。むろん、興味を持っていなかった領域の本を読むのであるから、それを好きになる確率は低いのであるが、失敗することを気にしなくて良いそうだ。たとえ失敗するとしても、異分野へのチャレンジは必要である、ということである。

たとえ失敗したとしても、その過程で得られるものは大きい。様々な分野の本を読むことで、多様な読書方法を試行錯誤で身につけることができるのである。一例を挙げれば、速読と精読のどちらが優れているか、というのは問いが誤っている。本の領域によって、またその読書の目的によって、選ぶべき読書方法は異なり、したがって速読も精読もできる状態にしておくことが大事なのである。

ここまで読書を称揚すると、読書三昧の生活が望ましいようにも捉えられるが、著者は読書三昧という状況を明確に否定している。複数の人間とのやり取りを伴う仕事を続けながら、時間をやりくりして読書をするべきである、と言うのである。おそらくここには先述したネットワークの問題が関連しているのであろう。つまり、読書三昧の生活はいわば閉じたネットワークになりやすい。ネットワークを開いた状態にし続けるためには、他のことをしている時間や、他者との対話をたのしむ、ということが重要なのではないだろうか。

最後に、著者は書店に行くことも勧めている。書籍をネットで検索したり注文することはもちろん有効であるが、他方で、書店で背表紙を見て、目次を読んで、購入するということも必要なのである。書店を訪れて気になったものに目を通してみると、ときに意外な発見もあるものだ。

私の好きな書店の一つに、東京駅の丸善がある。本書を読んで、その中にある松丸本舗に行きたくなった。松丸本舗とは、著者がプロデュースする書店である。

<参考文献>
齋藤孝『三色ボールペンで読む日本語』角川書店、2002
中原淳・長岡健『ダイアローグ 対話する組織』ダイヤモンド社、2009





2011年2月20日日曜日

【第13回】GANTZ(奥浩哉、集英社、2000年~)

未完のものについて書くのはいかがかなとも思うのですが、「試論」ということで書いてみようと思います。尚、本エントリーでは映画版やアニメ版を対象とせず、コミック版のみを対象とすることを予めお断りしておきます。

同僚に借りたGANTZを一気読みしたぐらいですから、明らかに本作品にはまったのは事実です。しかし、その魅力を記そうとすると、はたと困るのです。何に魅了されたのかについてうまく説明できません。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」とも言われますが、なぜ「語りえぬ」のかについて探索することには意義があるのではないか、と考え、試論を記してみます。

そのためにはまず設問を変える必要があるでしょう。なぜGANTZに魅了されたのかと直接的に理由を探るのではなく、間接的なアプローチを採ることとします。すなわち、これまで私が魅了された作品とGANTZとは何が異なるのか、という設問が有効ではないでしょうか。

ここでは、ドラゴンボール、北斗の拳、はじめの一歩、あしたのジョー、新世紀エヴァンゲリオン、MAJOR、アカギ(もしくはカイジ)、すごいよマサルさん、という八つの作品との違いについて記します。蛇足ですが、こうして列挙してみると私の世代観がもろに出るなぁと思うと同時に、明らかに欠落している領域があるなぁという二つの思いが出てきます。

ドラゴンボールで最も印象に残っているのは、ナメック星でクリリンがフリーザに殺された後に悟空が超サイヤ人になる件(くだり)です。何度読み直しても感動をおぼえてしまいます。引いた書き方になってしまいますが、同じ釜の飯を食べ、幾多の闘いの場を共にした戦友が殺されて潜在力が引き出される、ということであり、共感をおぼえやすい設定だと思います。

かたやGANTZではこうした展開は見当たりません。加藤が死んだ時は星人と刺し違えたというタイミングもあって、計ちゃんが怒り狂うというリアクションはありません。むしろ、闘いの後に計ちゃんは悲嘆してしまい、直後のチビ星人篇でタイムオーバーをおかす有様で、クリリンの死をきっかけに悟空が限界を超えたのとは対照的です。

もっと書けば、GANTZには理不尽な死が多いように感じます。あんなに点数を稼いでいた西君があっけなく星人に殺されたり、和泉が死んだのもあまりに唐突です。また、途中から良い味を出していたおっさんが極めて短いミッションの中でやられてしまったのも理不尽に思えます。このように、いきなり死が訪れるというのがGANTZの特徴のように思え、こうした特徴は決して私の趣味ではなく、この点は魅力に感じるポイントではないようです。

続いて比較したいのは北斗の拳です。私にとっては、ラオウとケンシロウとの死闘がハイライトです。あのシーンではラオウは敵であるわけですが、単純にケンシロウに共感をおぼえるのではなく、ラオウにも敗れてほしくない、という複雑な感情を持ちながら読み進めた記憶があります。北斗の拳では、他の敵の中でも必ずしも完全なる悪役ではないケースが多く、善と悪という単純な二項対立を感じさせない部分が私にとっては興味深かったのかもしれません。

他方のGANTZでは、星人の存在は独特ではありますが、決して善であるかのような気配はありません。また主人公の側であっても、たとえば和泉は善とは言えず、悪と言えるでしょう。GANTZの世界に戻りたい一心で、現実世界で大量殺人を犯すわけですから。私が好きなキャラである西君も善的ではなく、どちらかと言えば悪ですし。したがって北斗の拳とGANTZとは大きく異なりそうです。

続いて、はじめの一歩です。私にとってのベストバウトは宮田君と真柴の東日本新人王の準決勝です。なんとしても勝ちたい真柴に故意に足を踏まれてパンチを受けた宮田君は致命的なダメージを負ってしまうわけですが、一歩との再戦を目指して死に物狂いで戦うシーンは圧巻です。いつもは冷静沈着な宮田君の変貌ぶりに驚くとともに、深く感動した質感を今でも覚えています。

このように、宮田君と一歩という固定的な関係性がはじめの一歩に通底するストーリーであると思うのですが、同じことはあしたのジョーにもあるように考えます。

もちろん、ジョーの好敵手としてはホセ・メンドーサやカーロス・リベラ、古くはウルフ金串がいます。しかし、結局は力石との関係性が第一でしょう。金竜飛との東洋太平洋王者戦で、苦戦の中で力石の生き様を思い出してジョーはいわば覚醒して勝つわけですが、その際にジョーが言う力石との「奇妙な友情」があしたのジョーのテーマだと思うわけです。

このように、はじめの一歩がわりと分かり易い友情であるのに対してあしたのジョーは奇妙な友情である、という違いはありますが、友情を一つの軸にしている共通項はあります。しかし、GANTZのストーリーの軸が友情にあるとは思えません。友情関係に最も近いのは計ちゃんと加藤でしょうが、一歩と宮田君、ジョーと力石、といった関係性とは濃さが違うように感じます。彼らとの関係性と比較すると、どこか淡々としたものを感じるのです。したがって、友情という軸でGANTZを括るのも私にとっては少し難しいようです。

新世紀エヴァンゲリオンについて。この作品における使徒とGANTZにおける星人とは、その存在感の不可思議さが似ているとも言えます。しかし、使徒が唯一無二の目的のために人類を襲撃してきたのに対して、星人の存在意義は今ひとつ分かりません。

また、エヴァではシンジ君の自我意識の獲得が一つのテーマになっていると思うのですが、GANTZでは自我意識の獲得がテーマとは思えないのです。たしかに計ちゃんの自我の変容はテーマの一つではあると思うのですが、自我意識をメインにしてストーリーを括るのには無理があるでしょう。

次に、MAJORとの比較を試みます。MAJORで魅せられるのは吾郎の目的意識の高さであり、それに向けた成長欲求の高さおよび克己心の強さです。海堂という野球の名門高校で一軍に勝利した後に、あえて弱小高校に入り直して甲子園を目指す、という発想には痺れました。また、その海堂との県大会の準々決勝で眉村を抑えた直後に力尽きてボークで試合を終えたシーンは感動的です。こうした劇的な試合の裏には、他のどんな同世代よりも徹底して練習をする日常があるという、イチローやダルビッシュの発言を想起させるような徹底的な克己心があります。

これに対して、GANTZにおいては成長や克己心というものはほとんど描かれません。一時期、GANTZメンバーの多くが計ちゃんの家に集まって鍛錬するというシーンがありますが、あまりに一瞬の出来事です。

今度はアカギについて検討します。鷲津麻雀をはじめとして異様な状況の中での闘牌が続くわけですが、そうした場を最終的に支配するのはアカギの圧倒的な理性です。したがって、一見して異世界に見えて、最終的には不条理に理性が打ち勝つというストーリーであり、これは不条理な見方の死が多いGANTZとは大いに違うでしょう。

最後に、すごいよマサルさんとの比較を行ないますが、GANTZと最も親和性を感じるのが本作品です。平和な学園生活を送る高校生たちの織り成すいわゆるギャグ漫画である本作品とGANTZに共通するのは何か。それはストーリー展開の読めなさです。

人の生死を扱うGANTZと学園での何気ない生活を扱うマサルさんとではテーマが全く違います。しかし、マサルのボケの読めなさや、メソをはじめとしたキャラの意味不明な行動、副タイトルにもなっている「セクシーコマンドー」の全国大会の予期できない終わり方が、GANTZのストーリーの読めなさに共通しているのではないかと思うのです。あっけなく人が死に、訳のわからない大変な状況に計ちゃんたちが巻き込まれていく、というところに同じ匂いを感じるのです。

こうして半ば強引に共通性を見出したわけですが、これはあくまでストーリーの展開のしかたというHOWに関するものに過ぎません。何に魅了されているのか、というWHATに関してはまだ分かりませんし、それはGANTZが完結するまで分からないのかもしれません。この辺りで「語りえぬもの」について語ることはおしまいにし、引き続き、おとなしくGANTZの展開の読めなさをたのしむこととします。