2011年5月14日土曜日

【第25回】【番外編】余は如何にしてアパパネ信徒となりし乎


POGとは Paper Owner Game の略称であり、実在の競走馬を用いたゲームである。デビュー前の数千頭の競走馬の中でどの馬が活躍しそうかを予想し、その相馬眼を競い合うという馬好きの矜持を賭したものとも言えるだろう。以下は私が仲間内のPOGに参加していた2009年12月に書いたエッセーであるが、一部冗長に過ぎるので加筆・修正している。



「ダノンパッションが右前脚屈腱炎を発症。来春のクラシックは絶望。」
12月4日にインターネット上のスポーツ紙各誌でこの報道を目にしたときの落胆は酷かった。ダノンパッションは、「私の馬」たちの中でようやく頭角を現した、大きなレースを勝てそうな牡馬(オスの馬)であり、それだけ期待を掛けていた存在だったのである。その彼が故障とは…。屈腱炎であれば約半年前後はレースに出られないことを覚悟しなければならない。最初から期待していなければここまで落ち込むことはなかったに違いない。明るい将来を嘱望できる存在であったが故に、故障という現実に直面して私は酷く落ち込んだのである。

将来といっても遠い話のことではない。ダノンパッションはその二週間後にG1レース「朝日杯フューチュリティーステークス」(以下、朝日杯)への出走が確定しており、上位人気が予想されていたのである。私はレースが行なわれる中山競馬場に彼を応援しに行こうと思い、期待に胸を膨らませていたのである。「私の馬」がG1で勝つシーンを目の前で見る機会が遠のく瞬間であった。

競馬において、G1レースはよくテレビ中継されているために頻繁に行なわれているイメージがあるかもしれない。しかしG1は年に十数回しか開催されないレースであり、またそうしたレースに出走できる競走馬は、ごく一部の競走馬だけである。実際、POGに参戦した初年度における「私の馬」は、G1で好勝負を演じるどころか、ただの一頭としてG1に出走することすら叶わなかったのである。

しかし暗澹とした心持ちの中で思い直した。二週間後の期待は潰えてしまったが、一週間後があるではないか。一週間後には、2歳牝馬(メスの馬)のG1レース「阪神ジュベナイルフィリーズ」(以下、阪神JF)があり、そこにも「私の馬」が出走することが確定していたのである。「私の馬」の出走が実質的に確定した11月の時点で、私は阪神JFがある阪神競馬場行きを心に決め、妻の了承を得、宿泊先も押さえ(正確には「お願い」をし)、準備を整えていたのである。POGに参戦して初めて迎える「私の馬」のG1レースへの出走は胸が躍るものであり、またもし勝つことになるようならば是が非でも現地で見たいと思っていたのである。

阪神JFに出走が確定していた「私の馬」は二頭いた(後述するように、その後タガノガルーダが出走のための抽選に通ったため、最終的には3頭が出走)。一頭目はステラリード。彼女は8月に開催されたG3・函館2歳ステークスを勝利した、私にとって恩人ならぬ「恩馬」である。というのも、POGとは獲得賞金の多寡を競うゲームであるため、賞金が高いレースでいかに勝つかというのがゲームの行方を左右する一つの大きなポイントとなる。二年目のシーズンが開始した直後に、ステラリードがG3というG1・G2に次ぐカテゴリーのレースを勝ったため、私はこれ以上ないほどのスタートダッシュを決めることができたのである。

8月のそのレースで走るステラリードを応援するために当初は函館まで見に行くことも検討したのであるが、さすがにそれは断念してテレビの前で応援することにした。競馬のテレビ中継を見て心から興奮したのはディープインパクトが走った凱旋門賞以来であっただろうか。普段、「私の馬」たちは民放各局が放送する競馬中継番組には出てこない。民放のテレビ中継の放送時間は午後3時頃から4時頃の間であるが、その時間は活躍している馬が走る時間であり、そのような馬は「私の馬」のうち数えるだけしかいないからである。特に私の場合は、POG参戦一年目に指名した馬たちがほとんど活躍しなかったので、テレビ中継で「私の馬」を見たことは一年半(私が参加しているPOGの一期間は一年半である)で数回を数えるのみであった。したがって、テレビで「私の馬」を見るだけでテンションは上がるものであり、特に函館2歳ステークスでステラリードは一番人気を背負っていた。「私の馬」がテレビで中継される大きなレースで一番人気になることなど、それまで経験したことがなかった。

その結果として、ディープインパクト以来の高揚感をおぼえることとなり、ゴール前での大接戦では興奮しすぎてしまった。ゴール直前で他の馬に交わされたようにも見えたので意気消沈していたのであるが、掲示板の一番上に「私の馬」の馬番が表示されたときの感動は今でも忘れられない。それだけ忘れられない存在である彼女が今度はG1に挑戦するのである。これは見なければならないだろう。

出走することが確定していたもう一頭の名前はアパパネという。11月に行なわれたレースでレコード勝ちをしており、VTRで見るかぎり(大きいレースではなかったのでテレビで中継されていなかったのである)では強そうに見えた。もちろん、勝つことを期待してはいるのであるが、牡馬を相手にして大きいレースで敢然と勝ったステラリードよりも強いとは思えない。

12月10日、大阪に移動する前日である。アパパネへの競馬評論家の評価が存外に高い。コンビニで立ち読みした競馬雑誌「ギャロップ」では2番人気に推されている。これは嬉しい誤算であるのだが、他方で、複数のスポーツ紙の報道によれば、アパパネは食欲不振で調子がいまひとつ上がらないとの報道もある。なんとも悩ましい状況である。

一方、ステラリードの評価は著しく低い。ギャロップでは△印(競馬新聞・雑誌における印の意味合いは◎⇒○⇒▲⇒△の順番で評価が高い)が二つ付いているのみである。私の事前の予想ではアパパネよりもステラリードの方が高い評価であろうと思っていたので、案外である。阪神JFの前哨戦とも言える11月のあるレースでたしかにステラリードは負けた。しかし力負けには思えなかったし、それほど悪い内容であったようには思えないため、私の中でステラリードの強さに対する確信は揺らいでいない。とはいえ、POGをやるようになってから競馬評論家の競走馬を見る目の凄さをまざまざと見せ付けられることが多いので、不安は募る。

期待と不安が交錯し、しかしややもすると不安な気持ちが大きくなる中、翌日、大阪へと移動。

12月13日、阪神JFのレース当日。梅田を経由して、仁川へと向かう。一人で競馬場に行くことは久しく経験していない。十数年ぶりであろうか。新鮮な気持ちを抱きつつ、阪神競馬場には初めて訪れるため、漠然とした不安な気持ちもある。

しかし期待の方が大きいようだ。ステラリードとアパパネに続いて、抽選を潜り抜けてタガノガルーダが阪神JFへの出走を決めたため、まさかの「三頭出し」である。「私の馬」が出走する初めてのG1レースにしては、いささか威勢が良すぎる。繰り返しになるが、POG一年目に指名した「私の馬」たちはG1出走には一頭も縁がなかったのだから。

競馬場に辿り着いて阪神JFの単勝オッズを見ると、一桁倍率の馬が5頭もいる混戦模様である。2歳のレースのオッズのばらつきはこのようなものなのかもしれないが。その中でもアパパネは人気を集めており、2番人気である。どの「私の馬」にもがんばってほしいが、三頭出しともなると気持ちが図々しくなる。来年以降のレースへの出走を見据えると、ステラリードには3着に甘んじてもらって、アパパネとタガノガルーダで1・2着を独占してほしい、とまで大それた夢を見てしまうのである。

阪神競馬場は思いのほかきれいだ。大変失礼な先入見であるが、訪れる前までは「阪神」という言葉のイメージから、野次が多く雑然とした競馬場を思い描いていたのである。東京競馬場や中山競馬場よりもむしろ整然としていて好印象を持った。

レースが始まる時間まで余裕を持って訪れたのは一長一短であった。レースを見逃す恐れがないという意味では落ち着いて構えていられるのであるが、時間があるためにレースのことを考えすぎてしまい、心が落ち着かず、なんだかふわふわとした気分である。ディープインパクトを応援するために競馬場を訪れたときもそうであったが、他のレースの馬券を検討して気を紛らわすということもできないのである。かといって、阪神JFのレース展開を具体的に検討するというわけでもない。ひたすら、「私の馬」たちが勝ってくれるかどうか、またパドックで彼女たちの姿を見逃さないようにパドックが込み始めるタイミングを見計らうことに意識が向かってしまう。その結果、いたずらに場内を散策し、パドック場の下見と本馬場の下見とを何度となく繰り返すこととなる。

午後3時。パドック場に「私の馬」たちが現れる。テレビ局の人たちや競馬関係者で溢れた華やかなパドック場を「私の馬」たちが闊歩する姿を見られるなんて夢ではなかろうか。自分の興味がないレースにおけるパドックの周回時間はいたずらに長く感じるものだが、興味があるレースにおいてはとても短い。もっと見ていたいのに、あっという間にパドック場を出て出走馬は馬場へと向かう。私もそれに合わせて馬場が見えるところへといそいそと移動を開始する。

スタート直前、思わず目を覆いたくなることが現実となる。アパパネがゲート入りを嫌い、なかなかゲートに入らないのである。人間、ここまで最悪の状況というのはどうやら予想できないらしい。「私の馬」がこのようなことになってしまうなんて、全くもって想像できなかった。アパパネはもうダメだろう。暴れてしまって最悪の場合には出走すらかなわないかもしれないし、出走できたとしてもテンションが上がりすぎて暴走してしまうかもしれない。せっかく二番人気にまでなっているのに勝てないのか。アパパネへの期待の分を、ステラリードとタガノガルーダに期待を掛けよう。

その約1分半後。

ゴール手前の坂道を先頭で登りきり、ゴール板の前を真っ先に横切ったのはそのアパパネであった。腕が震えた。私の携帯電話にはアパパネが「私の馬」であることを知悉する知人・友人からメールが何通も届くのであるが、携帯電話を動かす手が心もとない。

レースが確定するのを待つことなく、競馬場の出口へと向かい、帰路に着いた。目の前の幸運をにわかに信じられず、晴れやかな舞台から逃亡するかのような不思議な感覚である。駅のホームに着き、電車に乗る。当たり前のルーティンをこなすことで、冷静さを取り戻す。冷静になるとともに、嬉しさがこみ上げる。「私の馬」がG1を獲ったのだ。と同時に、あろうことかレース直前に勝手に勝利を諦めたアパパネに対して心の中で何度も謝りながら、車窓からの大阪の景色を見るともなく眺めた。

2011年5月7日土曜日

【第24回】『大局観』(羽生善治著、角川書店、2011年)

著者の本をこれまでも好んで読んできた。二十歳前から将棋界の第一人者として活躍する傍ら、将棋だけに邁進するのではなく異分野のプロフェッショナルと盛んに交流をはかる姿勢には棋界を引っ張ろうという気概を感じる。むろん、著者は棋界に対する意識からこうしたことをしているわけではないだろう。異分野の人々との対話から深く内省し、新たな知見を紡ぎ出しているのだろう。

これまでの書籍も刺激的であったが、本書もまた、示唆に富む良書であった。とりわけ、勝負勘や人生観、対人関係といった領域に関して刺激を受けたことについて記してみたい。

第一に、勝負において著者は本書のタイトルにもなっている大局観を重視している。大局観を使う上では、将棋における終局の場面を想起することが大事であるそうだ。「詰み」の場面から逆算する発想を重視し、その逆算の際に読みや直感を大事にする、というアプローチを取るのである。

将棋を指す際には、現在の局面をもとにして数手先を読むということを考えてしまいがちだ。少なくとも私にとってはそうであり、これが素人の発想ということなのだろう。卑近な例で恐縮であるが、これは麻雀を考えれば理解し易い。現在の自分の手や河から今後の局面を想像することはもちろん大事であるが、それ以前に、自分の手が出来上がった状態から現在の打ち手を逆算するのはセオリーである。他者との駆け引きが求められるゼロサムゲームにおいては、逆算と積み上げを用いた戦略的思考が求められるということであろう。

第二に、人生観についてはラッキーに関する記述が興味深い。いつもラッキーなことに恵まれているという人は外発的な偶然性に委ねているのではなく、内発的な必然性を創り出してラッキーを活用できるようにしている、というのである。つまり、どのような状況になっても対応できるように常に準備をする、ということであろう。

ラッキーについて態度や精神論でうやむやな議論をする自己啓発本をするものが多い。それに対して、著者が述べていることは、イチローが大事にする準備に通ずるものであり、クランボルツ教授のPlanned Happenstance Theory を髣髴とさせる至言であるのではないか。プロフェッショナルや研究者が異口同音にいうことには深みと重みが感じられる。

最後に、ビジネスにおける対人関係を想起させる部分があった。コーチングにおいて、教わる側が教える側に対して積極的に質問をすることが大事である、というのである。質問や傾聴といった教える側の知識やスキルばかりに目が行きがちであるが、コーチングにおいては教わる側の言動もまた重要である。

この話は最近、ある方と話していて「援助を受ける力が初期キャリアの人々には重要」という指摘を受けたのであるが、上記の部分を読んでそのことを思い返した。忙しいミドル・マネジャーに管理職研修やコーチング研修と称した負荷を掛けすぎるのではなく、マネジメントを受ける側に対する「援助を受ける力」の強化を行なうことが、ビジネスの現場で求められているのではないだろうか。

<参考文献>
『夢をつかむ イチロー262のメッセージ』ぴあ、2005年
J.D.Krumboltz, Luck is no accident 2nd edition, Impact Publishers, 2010





2011年5月1日日曜日

【第23回】『会社法【第2版】』(伊藤靖史・大杉謙一・田中亘・松井秀征著、有斐閣、2011年)

会社法について学ぶのは本書が初めてである。普段はあまりに自明すぎて意識して考えることが少ない「会社」というものについて、法的な観点から考えさせられる良い契機であった。初学者なりに感じ取った部分を書いてみたい。

日本において株式会社制度が導入されたのは、1872年に制定された国立銀行条例において株主の責任規定が明示されたことが萌芽であると言われている。では、なぜそれまでの日本における商習慣の延長上として企業の制度を作るのではなく、西洋からの輸入物である株式会社制度を導入したのか。

本書によれば、そこには資金調達の側面に理由があるとしている。つまり、諸外国からのプレッシャーに伍するために殖産興業の推進が必須命題であった明治政府にとって、巨額の長期資金を企業に結集させるしくみとして株式会社制度が輸入されたというのである。

こうした背景を持って導入が進んだ株式会社制度には、いくつかの主体間におけるバランスに対する「配慮」があり、それが興味深く思えた。たとえば、単独株主権と少数株主権との比較である。

単独株主権とは、「1株でも株式を保有する株主であれば行使できる権利」である。他方、少数株主権とは、「行使のために一定数の議決権、または総株主の議決権の一定割合の議決権もしくは発行済株式数の一定割合の株式を有することが必要とされる権利」である。

このような二つの権利はお互いに牽制し合う緊張感のある関係性にあると言えるだろう。単独株主権を広く認めすぎると、あまりに多くの株主が自由に主張を言い合う百家争鳴の状況に陥り、何も決められなくなってしまうという状況に陥る可能性がある。したがって、環境変化に対していち早く対応することが難しくなってしまうだろう。

そうかといって、少数株主権に重きを置きすぎることにも課題がある。多くの権利を少数株主権にしてしまうと、多数派株主や取締役の権限濫用に対する対抗手段がなくなってしまう。その結果、少数の株主を保有するというインセンティヴが減衰してしまい、多くの資金を集めるという株式会社の本来の意義にもとることになってしまう。このように対立しがちな個別の事象についてバランスを考えることが会社法では求められているのである。

本書の内容を全て理解した、というレベルからは程遠く、会社法にはどのような項目があり、どのような議論が為されているのかについて目を追っただけにすぎない。しかし、よく分からないなりに項目を拾い読みするという読書のスタイルにもそれなりに意味があるのではないか。その場で理解できないことであっても、後日なんらかのキーワードが気になって調べことで理解する、ということはよくあることだ。そのためには、分からない状態でもまずインプットしておかないと、そもそも調べるという行動に移ることはないだろう。

2011年4月24日日曜日

【第22回】Luck is no accident 2nd edition(John D. Krumboltz, Impact Publishers, 2010)

In career theories, there are two types. One is static approach, and the other is dynamic one. Each of them has own merits. At every our career stages, it is important for us to judge which is better to use.

When we face serious transitions or career change, static approach fits to us. Static approach helps us to reflect our career process. After we reflect our past of career and life, we can clear our core values. And also we can find out our strong points in our work career.

But the environment of our work place is not static, and the changing speed is getting faster and faster now. Based on the changing environment, the important skills of our work are also changing.

Then, what should we do ?

When we want to see our future career, the dynamic approach is useful. This book is written about it. Using the planned happenstance approach, we have the chance to stretch our hidden value. Through doing it, we may create the inner environment.

And continuing to challenge leas us to the life long learning. When we want to challenge in our work, we have to learn a lot of things. On the other hand, learning wider knowledge leads us to deepen our work. In this book, there are many hints to use by ourselves.

Of course it is important for employees to think about their own career and life. But, it is also important for employers to care the career of their employees.

Though some kind of career workshop is important, but posting is one of the important factors of career development. The company which does care the timing of posting may consider employees as important capitals.

2011年4月17日日曜日

【第21回】『プレップ労働法【第3版】』(森戸英幸著、弘文堂、2011年)

INAXメンテナンス事件の最高裁判例が出されたときに本書を読んでいた、というのは偶然の一致である。しかし、その偶然の一致によって、労働者とはなにかということを強く意識しながら本書を読むこととなった。

労働法とは、事業主や管理者と労働者との関係性を扱う法律であり、より一般化すれば私人間の法的問題を取り扱うものである。私人間の法的問題を扱うおおもとの法律は民法であるのだから、民法と労働法との関係性について述べることで筆者は本書を書き進めている。

では民法に対する労働法の意義はなにか。端的に記せば、職場に適しづらい民法の考え方をケアするのが労働法である。筆者によれば、民法の考え方の大前提である契約当事者の平等をそのまま職場に適用してしまうと、労働者と使用者とは対等な立場にあるということになってしまう。すなわち、自由に契約を解除できるという民法の法理をそのまま適用すると、使用者は労働者を自由に解雇することができることとなってしまう。こうした民法による契約当事者の平等性を企業における労働の実態に近づけるかたちで法律化したものが労働法なのである。

労働者の使用者に対する劣位な状況を改善するための枠組みの一つとして、労使協定がある。労使協定の成立要件に過半数組合または過半数代表者の同意を要件としていることは、労働者と使用者とが一対一で自由に契約を結ぶことの潜在的な不利性を緩和しようとしていることであろう。労働者が複数集まることで使用者との対等な関係を築くことが労基法の基本的な考え方なのである。

こうした文脈で捉えるとINAXメンテナンス事件の最高裁判例に考えさせられることは多い。

本事件は、高裁判例が出された時点で後述するものをはじめとしたいわゆる「判例集」に取り挙げられるほど注目されていたものである(判例集に載るもののほとんどは最高裁判例である)。争点は、個人事業主が労組法上の労働者として認定されるか否か、ということであった。

地裁、高裁に続き、数日前の最高裁においても、労働状況を実態的に判断することで、個人事業主であっても労組法上の労働者として認定されるという判決が出された。特定の企業に雇われない存在である個人事業主に労働者性が認められることは、これまで企業内に閉じられていた労働法の守備範囲が企業外にまで広がったと言えるだろう。

この具体的なインパクトの一つとして本書を読んで類推したものが、労働協約の拡張適用に関するものである。労組法17条によれば、「一の工場事業場」に常時使用される「同種の労働者」の4分の3以上がある1つの労働協約の適用を受けることになった場合には、その工場事業場に使用される他の同種の労働者、つまり非組合員に関しても、その協約が適用される。この条文の効果の一つとして、著者は拡張適用が職場の労働条件の統一化に繋がることを指摘している。

したがって、労組法上の労働者として認定される個人事業主は、同種の労働者に近い労働条件を認められるようになるのではないか、というのが初学者である私なりの類推である。このように考えるため、今回の判例の影響の大きさを感じ取るのである。

他方で、INAXメンテナンス事件の判例を手放しで称揚するわけにもいかないようだ。明治大の野川教授は『労働判例インデックス【第2版】』において、同事件の高裁の判旨における個人事業主を労働者として認定する判断枠組みの硬直性を指摘している。つまり、実態判断の判断枠組みを今後の判例で積み上げていく、ということが裁判所や学者に求められることになるのであろう。

そうした労働法の解釈と現場のビジネスへの適用に対して、一人の人事実務者として意識を強く持つことは言うまでもない。個人事業主のような自由で柔軟性の高い新しい働き方をいたずらに制約するような判例や法解釈に対しては、実務者として声を上げていく必要があるだろう。実態判断の解釈の難しさにより、個人事業主の労働者性をめぐる裁判が多くなることが予想されるため、引き続き注視していきたい。

<参考文献>
野川忍『労働判例インデックス【第2版】』商事法務、2010年



2011年4月10日日曜日

【第20回】『歴史とは何か』(E.H.カー著、岩波書店、1962年)

歴史の書物を読む際には、書物に書かれている「事実」ではなく、それを書いた歴史家に関心を持つべきである。

著者の簡潔にして明瞭なこの指摘はもっともである。歴史の書物を含めて、文章を書くという行為は、多様で膨大な事実のほとんど全ての部分を捨象し、換言すれば、ほんの一部の事実を抽象化して述べることに過ぎない。

続けて著者は、膨大な事実の入力と、それに続く抽象と捨象、その結果として文章を出力する、という一連の流れにより、書き手自身が見出したものの意味や重要性を俯瞰することができると言う。つまり、読むことと書くことの相互作用であり、アウトプットを意識した上でのインプットの重要性がここで示唆されているとも読めよう。これは、組織行動論の大家であるカール・E・ワイクが用いる「わたしがなにを言いたいかは、言ってみないとわからない」という話にも通ずる指摘であると言える。インプットがアウトプットを規定するとともに、アウトプットがインプットを規定するのである。

こうした歴史家と事実との相互作用の不断の過程として歴史は成り立つ。さらに著者は、歴史哲学という学問は科学が為すような一般化を射程範囲に捉えると主張している。つまり歴史は、多様な解答を単純化することで、混沌とする事実の諸連関に秩序と統一とを導き入れるのである。

ここで私たちは一般化の持つ可能性と危険性について想起する必要があるだろう。過去の混沌とした事実に対して意味性を見出して現代社会への適用可能性を導出するというのが歴史の持つ可能性である。他方、恣意的に過度な一般化を行なうことで自身の主張を扇動するポピュリスト的な歴史家の言説には注意を喚起する必要がある。

国家という主体が提唱する歴史も同様である。ベネディクト・アンダーソンが指摘するように、国家が「正しい」とする「歴史」を「国民」が読むことで「想像された共同体」が生まれる様は、歴史の危険性の一部と捉えて構わないだろう。ナショナリズムは、内部の同一性を高めるとともに、外部への排他性をも高める作用をもたらすからである。

このように、一般化の危険性を勘案した上で可能性に焦点を当てることで歴史の持つ意義を享受できる。では、歴史家と歴史の相互作用はどこに向かうのであろうか。その捉え方は、西洋文化圏に属する著者と、非・西洋文化圏にいる人々とで異なるように思える。

まず著者は、私たちを取り巻く環境に対する理解力と支配力を増すことに歴史の意義を見出している。環境適応を行ない続けるために、間断なく歴史を描き続け、超長期的に目指すべき一つのあるべき歴史像を実現する、という発想である。これは、著者も指摘しているように、キリスト教における絶対者の代替物として歴史および歴史哲学というものを位置づけているのである。歴史をいわばイデアのように捉えるこの感覚が、非西洋文化圏に属する私には、分かるようで分からない。

この「分かるようで分からない」感覚は、以前のエントリーで扱った野内さんの『偶然を生きる思想』がよく解説してくれている。端的に二項対立的に改めて述べれば、「日本人は歴史を川の流れのように循環するものと捉える」のに対して、「西洋では、歴史を構築物的な持続性のあるものと捉える」(http://bit.ly/hObxPA)。歴史に対するこの感覚の相違が著者の上記の主張への違和感となっているのであろう。

違和感について否定的に捉えるむきもあるかもしれないが、私はむしろそこに積極的な意味合いを見出しており、違和を感じることに大きな可能性を感じている。違和感とは、自分たちのものの見え方を相対的に理解する契機になるからだ。

歴史に対する考え方、またその西洋とそれ以外の文化圏の違和感について触れられる本書を読む経験は、著者と読者との建設的な相互作用をもたらす良い機会となるのではないだろうか。

<参考文献>
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』書籍工房早山、2007年
野内良三『「偶然」から読み解く日本文化 日本の論理・西洋の論理』大修館書店、2010年





2011年4月3日日曜日

【第19回】『ザッポス伝説』(トニー・シェイ著、ダイヤモンド社、2010年)

偉大なリーダーが世の中にはいるものだ。

ザッポスCEOのトニー・シェイが自ら著した本書には、バリューや経営戦略の真髄が至るところに現れている。実務家の生の声がこれほど経営学のフォーマル・セオリーに結びついている書籍はあまりない。コア・バリューと経営戦略との整合性がザッポスの強みであるが、そのバリューを成り立たせているのはザッポスに至るまでの著者の半生にあるのではないか。

著者は幼少の頃から儲けることが好きで事業を立ち上げていたと述懐している。ハーバードを卒業した後に創業した企業の売却によって巨万の富を得ることで、生まれてから追い続けてきた「儲ける」という目標を十二分に達成したわけである。

しかし、目標達成の直後に違和感をおぼえ、立ち止まり、深く内省する。著者は「幸せを感じた時のリスト」を作成し、そうして列挙されたリストにお金が伴っていないことに気づく。そして、優れた組織を創り上げることに焦点を当て始める。

優れた組織を創り上げる背景には、組織論と戦略論とが関連する。「組織は戦略に従う」と喝破したのはチャンドラーであり、反対に、「戦略は組織に従う」としたのはアンゾフである。つまりは組織論と戦略論とは相補関係にある。著者がザッポスにおいて成功した理由も、その二つにあることが本書では示唆されている。

まず組織論について。著者は良い企業文化を築き上げることが組織として利益を上げるための源泉であると述べている。そして、企業文化を創造するために、コア・バリューを全社員とのコミュニケーションを通じて設定したというのだから驚きである。対話を通じた理念浸透という文脈においてはリクルート社のデンソーにおける取り組みを髣髴とさせる。

そして、全社員が自分のものとして共有するコア・バリューをもとにして求められる人材像を定義している。著者自身も参考にしたと述べているが、『ビジョナリー・カンパニー②飛躍の法則』で言うところの「だれをバスに乗せるか」という話である。つまり、適切な人材に入社してもらう、ということである。採用および入社後の教育へのカスケーディングも見事であり、自社にとってなにが大事なのか、という視点が徹底して追求されている。

次に戦略論の視点で述べれば、各戦略アイテムの間における整合性が取れており、美しさすら感じる。一橋大学の楠木建さんの言葉を借りれば、ザッポスの経営戦略は一つの美しいストーリーとして織り成されているとも言えるだろう。

具体例を挙げよう。ザッポスではコール・センターを自社で持つだけでなく、それを自社のビジネスの根幹を為すものとして位置づけている。それだけではない。多くの企業ではコール・センターで働くオペレーターの通話の効率性を重んじ、いかに短時間で、いかにアップ・セルを掛けられるかを業績指標に設定しているのに対して、著者はそうした方法を明確に否定している。問い合わせの電話を顧客の真のニーズを探る最適な機会と捉えているため、マニュアル原稿は設けず、対応時間を意図的に気にしないしくみを整えているのである。つまり、ザッポスにおいてコール・センターはアフター・セールスとしての機能だけではなく、マーケティングや物流としての機能をも担っているのである。

もちろん、ザッポスでうまく機能しているからといっても、どの会社でも同じようにコール・センターを運営すれば良いわけではない。楠木さんが書いているように、自社のビジネス領域と戦略との適合性を考えずに他社の戦略をベンチマークと称して猿真似することは「自殺」行為なのである。あくまで起点となるのは自社の理念、戦略、そしてあるべき組織像である。

このように環境変化に合わせて戦略と組織との整合性を取り続けていることがザッポスの強みであると考える。その強みは著者だけに拠るものでないことはもちろんである。しかし、成功のための大きな一石を投じたのは著者にあり、そこに彼のリーダーシップを見出せる。

リーダーシップ教育を行なうNPOの代表を務める野田智義さんは、神戸大学の金井壽宏さんとの対談の中で「リーダーを目指してリーダーになった人はいない」と言う。ザッポスに至るまでの著者にも人を束ねるという記述は見られず、いかに自身が儲けるかという自分視点の述懐ばかりである。

しかし、そうした過去の内省を踏まえてザッポスにおいてはバリューを大事にし、顧客や社会への貢献に取り組んだ。そうすることで社員もまた熱狂的に働くようになった。これは同じ想いを組織全体で共有している状態であり、いわばリーダーとフォロワーとの相互依存関係であると言えるだろう。野田さんの言葉で言えば「リーダーシップの共振現象」が起きていると指摘できる。

本書は読み物として面白いばかりでなく、組織論、戦略論、そしてリーダーシップを考える優れた教材であると言えるだろう。

<参考文献>
リクルート HCソリューショングループ『感じるマネジメント』英治出版、2007年
ジェームズ・C・コリンズ『ビジョナリーカンパニー②飛躍の法則』日経BP社、2001年
楠木建『ストーリーとしての競争戦略』東洋経済新報社、2010年
野田智義・金井壽宏『リーダーシップの旅』光文社、2007年