2012年9月2日日曜日

【第104回】『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子、朝日出版社、2009年)


 盧溝橋事件の約半年後に、当時の首相であった近衛文麿が蒋介石へ「爾後、国民政府を対手とせず」という声明を出したことは中学・高校の日本史でも有名な史実である。私も記憶にはあったが、その意味するところを正しく理解していなかった。著者によれば、これは盧溝橋事件以降の日中の戦闘状況を戦争とみなしていない、ということであったようだ。つまり、国家同士の戦争ではなく、不法行為を働く匪賊を討伐するという討匪戦として認識していたのである。

 戦争ではなく、相手を対等な関係性のものとはみない。これは2001年のテロ以降にアメリカが相手を対等な関係性を持つものとみなさず、当然のこととして武力行使に踏み切った考え方と同じである、とする著者の指摘は鋭い。こうした指摘から考えられるのは、歴史とはアナロジーであり、史実を丹念に調べて分析を行うことで、現在以降の見通しを立てるということが歴史学の本分なのであろう。

 ではどのようにすれば歴史から学べるのか。

 著者は「いかに広い範囲から、いかに真実に近い解釈で、過去の教訓を持ってこられるかが、歴史を正しい教訓として使えるかどうかの分かれ道になる」と指摘する。つまり、歴史を時間軸と空間軸の二つから幅広く理解しておくことが一つめの鍵となる。二つめとしては、それを自分自身にとって都合の良い形ではなく、できるだけ真実に近い客観的なものとして解釈するということである。むろん、歴史は語る主体によって意味合いが揺れるものであるから完全な客観性というものはないが、作為的な変更を避けるという態度は必要不可欠であろう。

 では1930年代の日本はなぜ歴史から学べずに戦争へと至ったのであろうか。

 著者の指摘によれば、その一つの理由として当時の日本がイギリスやアメリカ、ソ連(ロシア)といった先発的な帝国から見て後発的な帝国であったことが挙げられる。すなわち、先発的な帝国が自国の経済を発展させるという目的で植民地を拡大させていったのに対して、日本は安全保障上の考慮として植民地獲得に走ったという。つまり、当時の日本にとっては、中国や東南アジアはソ連やアメリカといった脅威からの防衛線として「守る」という意識であったのであろう。

 ここで述べたいのは自衛だから正当化されるということではない。むしろ、当時の日本が自衛という名目で戦争へと突き進んだ経緯から学ぶべきことがあるということである。日本の歴史では自衛を美化する傾向が強い。古くは鎌倉時代における「蒙古襲来」を神風によって自衛したという例がある。自衛による正当化を用いて野心的なことを述べる政治家や評論家の詭弁にだまされないことが、歴史から学ぶということなのではないだろうか。

2012年9月1日土曜日

【第103回】『リーダーシップ開発ハンドブック』(C.D.マッコーレイら、金井壽宏監訳、白桃書房、2011年)


 修士課程の学生だった頃、また大学の研究機関で研究員として働いていた頃、よく図書館の中の書架を無目的に渉猟していた。ITを駆使して先行文献をリサーチすることも大事であるが、その一方で実際に本の背表紙を見てピンと来る良い本に巡り合う機会は一度や二度ではなかった。本書は、私の興味関心や業務内容としても当然チェックしておくべき書籍であったが、なぜか検索の網の目をすり抜けていたようで、名古屋駅の丸善を渉猟していて偶然見つけたものである。やはり大学の図書館や大きな書店に足を運ぶことは、私にとって欠かせない活動なのだろう。

 CCL(The Center for Creative Leadership)の存在はずいぶん前から知っていた。しかし、CCLが具体的にどういった理論をもとにリーダーシップ開発に取り組んでいるのかについては恥ずかしながら無知であった。書名にもある通り、本書はCCLの考えるリーダーシップ開発のあり方やその具体的な実践の一部をコンパクト(とはいえ400頁超の分量はある)にまとめたものである。金井先生が最後に書かれている通り、研究者や人事・人材育成を担当する方はもとより、プロジェクトマネジャーやリーダーシップを発揮したい方にとって有益な示唆に満ちている。

 リーダーシップ開発というイシューを考える上で、それを単独のイシューとして捉えると機能しなくなる。すなわち、経営上のイシューの構成概念としてリーダーシップ開発の位置づけと役割を考える必要がある。企業の中長期的な成長に向けて、リーダーを継続的に能力開発する、という基本的なスタンスが企業には求められる。本書ではそうしたリーダーシップ開発のアプローチとして、成長を促すためにはアセスメント、チャレンジ、サポートという三つの要素が求められるとする。

 第一のアセスメントにおいては、360度フィードバックが主流となる。上司、部下、同僚、顧客といった自身を取り巻くステイクホルダーから多様なフィードバックを得ることで、他者から見た自分と自身が認識する自分との相違を把握することが気づきを与える。それに加えて本書が付け加えているポイントは、「究極のスキル群」という自社において求められるリーダーシップのコンピテンシーセットと、自身のコンピテンシーセットとを比較することである。これによって、求められるレベルと自身の現状のレベルとを明快に把握することができ、具体的な今後の自身の成長プランを策定することができる。アセスメント結果が継続的な育成や開発の指針となるわけである。

 ここで大事な点は、360度フィードバックを単発のイベントにしないということである。本書で述べられている研究成果によれば、三日間のフィードバックセッションという時間を掛けたFIP(Feedback Intensive Program)を半年に二回程度行うことが大きな効果をもたらすそうだ。

 もう一つ触れておくべきポイントは「究極のスキル群」の具体的なイメージである。私たちは通常、優れたリーダーの資質として、ビジョンを描く、戦略を策定する、人を巻き込む、といった厳しく仕事を行うイメージを持つが、著者によれば必ずしもそうではない。むしろ、リーダーシップ開発のゴールは円熟したリーダーを育成することであるとしている。つまり、厳しさと思いやり、自信と謙虚といった一見すると相反する要素を併せ持ち、物事に対して柔軟に行動できる存在が理想であるとしているのである。

 こうしたアセスメントの後には、具体的な業務上のチャレンジを設計することが第二の要素として必要となる。チャレンジにおいて最も大事な点は、それを集合研修やケースといった仮想の場で鍛えるのではなく、あくまで職場で行うことである。仮想の場はあくまで職場での経験を補うものにすぎない。したがって、パフォーマンス・コーチングを通じて内省を支援することがチャレンジでは必要になるだろう。

 ここで、誰がコーチするかという点に注目する必要があるだろう。つまり、人間関係を通じて成長が促進されるという側面である。著者はそうした人間関係を通じた成長のポイントとして二点を取り上げている。一つめは多くの役割を提供する人間関係が大事であり、換言すれば、指導する人と指導される人といった単一の役割ではなく、多様な役割の関係性を築き続けることが必要なのである。二つめは、その人がコーチングを必要としているまさにそのタイミングで的確な役割を提供できることである。的を得た支援の内容であっても、それがあまりに遅すぎれば気づきは大幅に減衰せざるを得ないのだ。

 第三のサポートという観点は、アセスメントとチャレンジをいかに持続させるかというものである。まずアセスメントの結果は、能力開発以外の目的に使用しないという点が重要である。これは人事情報をコーポレイトが集約する傾向が強い日本型企業においては困難な発想かもしれない。したがって、人事や経営サイドの欲望をいかに抑えるか、ということが鍵となるだろう。実際に、CCLは360度フィードバックを能力開発の目的でのみ利用しているという。というのも、アセスメントの結果が会社に公表されるということがわかっていると、評価者の反応が変わってしまうことが研究成果から明らかであるからだそうだ。

 さらに360度フィードバックでは企画主体にこまやかな心配りが求められる。たとえば、ある評価者区分では人数が著しく少なくなってしまって評価者が推察されてしまうことが起こりえる。そうした際には基本的にはその区分におけるスコアは書かないようにするのがセオリーである。しかし、上司だけは例外であると著者は述べる。すなわち、部長以上のアセスメントを行うと上司の数は限られることが通常であるが、上司からの評価は重要な気づきを促すことが多い。そこで著者は、上司に対して回答の匿名性が守られないことを事前にはっきりと伝えるべきであるとした上で、たとえ評価者が一人であってもフィードバックすべきであるとしている。

 さらには、リーダーシップ開発のプログラムの中では真摯に自分自身に向き合ってもらうことが必要である。それに伴う否定的な感情については根気よく支援する必要があるだろう。すなわち、コンテンツ自体では率直なフィードバックやチャレンジをしてもらう必要があるが、プロセスにおいては人事や人材育成担当者が継続的なケアを心がける必要がある。企画側として、大いに考えさせられる大事な視点であろう。

2012年8月26日日曜日

【第102回】『新平等社会 「希望格差」を超えて』(山田昌弘、文藝春秋社、2006年)


 格差拡大という社会的な問題への対策として、格差をひとまとめに捉えても意味がない。日本社会においてどの格差が拡大し、どの格差は必要悪で、どの格差は縮小すべき課題なのかを切り分ける必要がある、と著者は主張する。

 ドラッカーの『ネクスト・ソサエティ』などをもとにして、著者は現代のニューエコノミーの特徴を「豊かな社会」「IT社会」「グローバル社会」と端的にまとめている。こうした特徴を持つ現代社会においては、多様な人々の多様なニーズをどう把握して具現化するかという「新しい発想とそれを実現できる企画力」と、それを効率的に行う「システム構築力」とが求められる。ここではこうしたスペックを持つ人材を非定型作業労働者としよう。

 非定型作業労働者が活躍できる前提には、企画から落とし込まれた事務作業を粛々とこなす定型作業労働者があると著者は述べる。それは現実的には、一部の非定型作業労働者と大部分の定型作業労働者というかたちで構成されることになるだろう。職務形態という観点のみで捉えるとこうした切り分けが問題であると断じたくなるものであるが、ニューエコノミーが生み出す製品・サービスの受け手の観点からは否定しづらい。ITの進展により利便性が増す生活を企画する主体としての非定型労働者を放棄するという選択肢は取りたくないだろうし、マクロ経済上の観点から考えても望ましくない。

 しかし、定型作業労働者の現状をそのまま肯定するわけにはいかないだろう。職務形態の峻別は必要悪として認めざるを得ない一方で、そうした方々への支援のあり方は改善が求められているのである。定型作業労働者にとって、自分自身が「労働者から期待される存在であるかどうか」という不安の結果として希望格差が生じることは本来は軽減できる問題であり、軽減させる必要がある。

 実際、定型作業労働者の端的な例と言えるフリーターを対象として著者が行った調査において、こうした希望格差が表れているそうだ。具体的な数値は述べられていないが、フリーターを選択した若者のうちのほとんどがいずれは違った立場になりたいと回答したという。さらに、フリーターになった当時の状況はともあれ、フリーターの状況が中長期化している人にとっては、現在の状況はいわば「強いられている」という側面が強い。

 では希望格差が生じる理由はなにか。

 著者はその理由を三つの要因から説明している。第一に努力が仕事能力の向上に結びつかず生産性が上がらないという生産性の要因。第二に生産性が上がっても収入の上昇に繋がらないという収入の要因。第三は努力しても生活水準が上がらないという生活水準の要因。このモデルは、第一の要因が説明変数であり、第二と第三の二つの要因を結果変数と捉えるべきであろう。このように考えると、モティベーション理論に造詣のある方は1960年代のブルームを嚆矢としてポーター=ローラーが1970年代に提唱した期待理論を想起するだろう。モティベーションという作用を、努力がパフォーマンスに繋がる期待と、パフォーマンス向上が報酬の向上に繋がる期待、とに因数分解した期待理論と著者の主張は近似している。すなわち、著者の社会学的なアプローチに基づく主張の妥当性は、心理学の領域からも認められていると言えよう。

 では、努力がパフォーマンスの向上と報酬の向上に結びつかなくなった原因はなにか。著者はその大きな理由は日本における戦後教育のパイプライン・システムの崩壊にあるとしている。つまり、受験勉強という努力を行うことが、偏差値が上がるというパフォーマンスに繋がり、良い会社に入るという報酬へと帰結するかつてのシステムが機能しなくなったことが原因である。

 現代から考えればこのシステムには大きな瑕疵がある。かつて受験勉強において求められたインプット重視型のパフォーマンスは、現代の企業において求められるパフォーマンスと異なるものになった、という点である。現代の企業においては、冒頭で述べた通りアウトプットを前提として、どのような企画を行い、それを実装する効率的なシステムをいかに構築するか、が非定型作業労働者に求められる。したがって、大学に入るまでのインプット型の努力は、非定型作業労働者に求められるパフォーマンスに結びつかなくなったのである。そうであるのに、世間が認める良い大学に入ること自体が今でもゴールであると思われていることが問題の根源であろう。

 こうした誤解はさらに根深い問題を生み出す。同じ学校の同級生の中において、望ましいキャリアを積める人とそうでない人とが生み出されるという現実である。社会において評価されるポイントよ大学入学において評価されるポイントとが全く異なるのであるから卒業後のキャリアに違いが生み出されることは本来当たり前だ。しかし、同じ大学に入るという同じような努力の質と量をしてきたと認識している人にとっては、自分にできなくてなぜ他者にできるのかが信じられず大きな不満となる。学校機関におけるキャリア教育が盛んになりつつあるが、受験指導に汲々としたり、資格取得をいたずらに鼓舞するものが大半であると言われる。これでは大学に入る前に求められるインプット型の学習を助長するだけである。そうではなく、企業や顧客から求められるエンプロイヤビリティーとはなにか、それを身につけるべくどう学生時代の努力をアンラーンして学生以降の生涯学習に繋げるか、といったことを考えさせるコンテンツを提供すべきであろう。

 社会に出る前の学生への取り組みとともに、その後の社会人への取り組みもまた喫緊時である。希望格差は外部不経済を生み出すからである。2008年の6月に秋葉原で起きた痛ましい通り魔事件を持ち出すまでもなく、派遣切りという定型作業労働者は雇用を失うリスクが低くなく、生きる希望を失う方による外部不経済の影響は計り知れない。そうした方々を政府としてNPOとして支援することももちろん重要であるが、日常的には定型作業労働者の方々への感謝の気持ちを持つこともまた重要であろう。人間にとっての希望とは、なにも金銭に集約されるものではなく、他者との日常的なあたたかい関わりの中で生まれるものなのだから。

2012年8月25日土曜日

【第101回】『罪と罰(上・下)』(ドストエフスキー、工藤精一郎訳、新潮社、1987年)


 小学生の頃、我が家では朝食をとるまえに本を読むことが課せられていた。両親の知人からいただいた日本や世界の「名作シリーズ」が自宅にあったため、自ずとそうした本を読んだものである。日本書紀や古事記をはじめ、信長・秀吉・家康といった歴史上の人物の伝記を読んだのであるが、世界の名作シリーズについてはほとんど記憶にない。『罪と罰』も読んだと思うが、記憶があやふやであり、改めて読むことに少し抵抗はあった。しかし、そうした私の事前の不安を良い意味で裏切ってくれるストーリーで一気に読み終えた。社会風刺、恋愛小説、推理小説といった様々な要素をよくもうまく織り交ぜたものであると感心した。

 その中でも私が最も感銘を受けたのは生と死に対する描写である。最近、宗教学を学ぶ機会があった。そこで大学の先生が「宗教とは極限状態を経験した者にとって救いとなるものである」ということを仰っていたことが心の琴線に触れたようで強く記憶に残っている。本書のタイトルにもなっている通り、人がいかに罪を犯し、罰をどのように受け容れるか、ということは、私の日常的な生活では経験することがない。そうした人間にとって、極限状態をありありと仮想体験できるという作用が小説にはあるのだろう。そうした意味で、究極の状態において生と死をいかに考えるか、という点に惹き付けられたのであろう。

 とりわけ印象に残ったのは、罪を犯した後に生活することがどんなに苦しい状況であっても、死ぬよりも生きることを選ぶことを表す著者の以下の描写である。

 「ある死刑囚が、死の一時間まえに、どこか高い絶壁の上で、しかも二本の足をおくのがやっとのようなせまい場所で、生きなければならないとしたらどうだろう、と語ったか考えたかしたという話しだ、ーーまわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、そして永遠の嵐ーーそしてその猫の額ほどの土地に立ったまま、生涯を送る、いや千年も万年も、永遠に立ちつづけていなければならないとしたら、ーーそれでもいま死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ!」

 生き続けることが苦以外のなにものでもなくても、死を選択せずに生きる、ということは、生きること自体になにものにも替え難い美質が含まれているということなのだろうか。言葉にするのは難しいが、なぜか印象に残った表現であり、主人公がこの言葉を何度も述べていることを鑑みると、著者も重要なメッセージとみなしていたのであろう。

 こうした生への固執は、罪を犯した主人公が、その後ある男性の死に際して現れる。死を通じて生を思い出す。生きる活力を得て、その後の困難を乗り越えようとする。この場面では、そうした活力が自身の罪を受け止めずに、それを逃れようとするネガティヴな意図のものにはなってはいるものの、活力の再生には惹き付けられるなにかがある。

 生きる活力を得つつも、自身の犯した罪に苛まれる中で主人公は自死を考える。しかし、自死を選ぶことは自身の罪による恥辱から逃げる行為であると主人公は最終的に結論づける。続けて、恥辱を恐れて自死に走ることを避けることを、誇りと肯定的に言い切っている。これは開き直りというレベルの話ではないだろう。主人公の苦悩の様子を追体験することで、誇りとはなにか、人間の尊厳とはなにか、といったことを内省させられる素晴らしいテクストであった。

2012年8月19日日曜日

【第100回】『世界がわかる宗教社会学入門』(橋爪大三郎、筑摩書房、2006年)


 日本人の多くにとって唯一神教を理解することは難しい。日本は多神教の社会であるとされているからである。しかし、グローバルな視点から見れば、唯一神教の文化圏の国家が多数であることは事実である。旧約聖書からユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった唯一神教が生まれ、そうした宗教を信じる方々と接することは増える一方である。私たちにとって、唯一神教を誤解せずに、その成り立ちや考え方を理解することは必要な態度であろうと思う。

 では、唯一神教とはなにか。本書で最初に扱っているのは上述した唯一神教の中で最も起源が古いユダヤ教である。ユダヤ教においては、神こそが世界の本当の支配者である。その結果として、神の声を聞くことができる預言者の持つ影響力ははかりしれない。そうすると、ある時代の権力者であっても預言者の存在を無視することはできず、ときに預言者が王の悪政を批判することも通常であったという。これは、預言者が体現する宗教的知識と、王が体現する世俗的権力とが分離して緊張関係を築くというダイナミズムが現れている。こうしたダイナミズムが、宗教と政治を分離するという近代合理主義精神を内包していると言えるだろう。

 こうした唯一神教の精神はキリスト教でも同様である。キリスト教という共通のバックボーンがあるからこそ、近代以降において民族ごとの国民国家が成立することになった。すなわち、神は絶対であるが、地上における国民国家は相対的な権力であり、国民による国民国家へのコントロール機能が働き、場合によっては市民が権力を奪い取ることになる。それが市民革命をはじめとした近代合理主義精神のダイナミズムである。

 さらにキリスト教においては、その創始者であるイエスが教義を完成させる前に磔刑にあった。そのため、キリスト教を信じる人々がイエスの死後数世紀にわたってその教義を練り上げたという。そうしたフォーラムの場が公会議である。創始者が教義を完成させなかった以上、公会議の解釈が正当な権威を持つことになり、こうした議論や対話を重ねて真実を創り上げるというプロセスが文化として根付いたと言えるのではないだろうか。

 こうした唯一神教に対して多神教の国として多くの日本人に認識されているのが日本である。唯一神教と多神教とのどちらが優れているということを議論するつもりは毛頭ないが、多神教の持つリスクについては指摘をする必要があるだろう。著者が述べているように、明治政府は宗教の自由を認めつつ、「神道は宗教にあらず」という公式見解を打ち出し、神道、すなわち天皇を中心とする中央政府に国民を従わせようとした。そうした戦前の日本の国家神道が太平洋戦争へと至った。これは青山学院大学教授の西谷幸介教授が『宗教間対話と原理主義の克服』の中で指摘しているように、多神教が単一神教へと変わる傾向とそのデメリットを端的に表している史実と言えるだろう。すなわち、多神教というと聞こえはいいが、多神教という状況においては、多くの神の間の序列を権力主体が操作することで、他の国や宗教に対して寛容でない単一神教に堕してしまいがちなのである。唯一神教圏でない私たちにとって、こうしたリスクについては自分たちの歴史から学んでおく必要があるだろう。

 こうした多神教の内包するリスクに対する認識とともに、著者があとがきで記しているように宗教を私たち日本人は誤解しがちである、という指摘も忘れてはならない。単一神教の暴走を自分たちの国の歴史として経験しているがために、宗教全般に対して否定的な感情を持ちがちである。自分たちへの戒めとして認識することは大事であるが、他方で宗教に帰依する方々を否定することは誤りである。とりわけ、極めて稀な原理主義者の危険性ばかりに目を向けて、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信じるごく普通の人々をも偏見の目で見ることは避けるべきであろう。そのためにも、日本人こそ宗教を学ぶべきなのかもしれない。

2012年8月18日土曜日

【第99回】『知識労働者のキャリア発達 キャリア志向・自律的学習・組織間移動』(三輪卓己、中央経済社、2011年)


 研究において、概念をいかに定義するかはその研究の質を規定する。先行研究は丹念に客観的な網羅性を担保するために丹念に行う必要があるが、それをどのように関連づけるかは自身の研究における関心に依存することになる。したがって、自身の関心に合わせて概念は定義づけられることになる。

 本書は、そのタイトルにもある通りキャリアに関する書籍であり、キャリアの研究を書物にしたものである。シャインや太田肇さんの先行研究を主に参照しながら、キャリア志向を「自己概念に基づいて認識されたキャリアの方向性、長期的に取り組みたい事柄と仕事の領域、働くうえでの主要な目的意識」と定義している。ここに著者の問題意識は集約されていると言っても過言ではないだろう。つまり、キャリアは金井壽宏さんや平野光俊さんの主要論文にあるように回顧と展望という二つの事象に分けて捉えられることが多いが、本書では後者の展望にあたる将来志向性を重視している点に特徴があると言えよう。

 著者の研究課題の一つは、キャリア志向が学習にどのような影響を与えているのか、である。まずは、インタビュー調査による探索的アプローチによって、複合的なキャリア志向を持つようになった対象群が、単一の専門職志向を持つ対象群と比べて、複雑で多様な学習を行っている、ということが明らかにされている。本書は新興専門職とされるソフトウェア開発者とコンサルタントが調査対象である。すなわち、そうした職種において、専門職志向だけではなく、それ以外のたとえば管理職志向といった他の志向をも併せ持つ対象群が現実に適応すべく多様な学習を行っている、という発見は興味深い。

 こうして探索的アプローチで明らかとなったファインディングを精査するために、仮説検証型アプローチとしてアンケート調査を試みている。その結果、上述した仮説が妥当であることが明らかになるとともに、こうした異なるタイプの学習が職務上における高い成果や満足度に繋がっていることを明らかにしている。学習を説明変数に、成果と満足度を従属変数に置いて考えれば、本研究はクランボルツやジェラットといった教育学系のキャリア理論を定量的なアプローチで進展させるものであることが分かるだろう。

 さらに、こうした多様な学習がどのようになされるかについての研究結果もまた興味深い。著者によれば、組織をまたぐキャリアを志向する者であっても、組織を軽視して個人が独力で学習するということは効果的でないと主張する。すなわち、キャリア自律、バウンダリーレスキャリア、プロティアンキャリア、が声高に叫ばれる時代であっても、組織を学習の場として活用することが知識労働者の成長にとって有益なのである。加えて、組織や集団といったグループを重視し、その中で他者と協働する態度や能力が重要であるという著者の示唆は注目すべきであろう。

 こうした新しい知識労働者の成長を促すために、企業には複数のキャリア志向に配慮した人的資源管理が求められることは著者の言を俟つまでもない。しかし、著者が例として挙げているプロジェクト・マネジャーに対してインセンティヴを与えたり、マネジメントの責任範囲の大きさに応じて職務給や役割給の設定が必要、というのは外発的動機付けに傾き過ぎではなかろうか。むしろ、複数のキャリア志向を持つことの有用性を社員の腹に落とし、日常の業務の中でどのようにストレッチするのか、という内的な意識付けへの支援を人事は行うべきであると私は考える。

 本書のように研究者の論理構成は抑制が利いていて心地よい。自身が得た知見が過度に文脈依存的でないかについて丹念に調べ、一般化する方法を検討し、その上で自身の理論の射程距離を明確に制限している。文脈依存性の高いビジネス書ではなく、本書のような研究書が当然のごとく読まれるようになれば、日本企業の知識労働者の生産性の低下が嘆かれる時代は終わるのかもしれない。


2012年8月12日日曜日

【第98回】『タオ 老子』(加島祥造、筑摩書房、2006年)


 一ヶ月ほど前に『論語』の感想を記した時の方法を今回も踏襲し、印象に残った箇所を引用し、それに対する覚え書きを記していくこととしたい。

「道(タオ)の働きは、なによりもまず、空っぽから始まる。それはいくら掬んでも掬みつくせない不可思議な深い淵とも言えて、すべてのものの出てくる源のない源だ。」(第四章)
【メモ】隙間を埋めようとするのではなく、空を積極的に創ること。

「我を張ったりしない生き方だから、自分というものが充分に活きるんだ。」(第七章)
【メモ】我を張り争ってしまうのは弱く限定された自分を守るためのものにすぎない。

「私たちは物が役立つと思うけれどじつは物の内側の、何もない虚のスペースこそ、本当に役に立っているのだ。」(第一一章)
【メモ】空を常に用意しておいて偶機に任せることが創造性を産み出す。

「社会の駒のひとつである自分はいつもあちこち突き飛ばされて前のめりに走ってるけれど、そんな自分とは違う自分がいるーそれを知ってほしいのだよ。」(第一三章)
【メモ】「あきらめる」とは「明らかに極める」と同じ。メタ認知の重要性でもある。

「こういう人だから無理をしないんだ、タオを身につけた人というのは消耗しない。消耗しないから古いものをいつしか新しいものにしてゆく。いつも「自分」でいられて新しい変化に応じられるのだよ。」(第一五章)
【メモ】多少の無理をしても精神を消耗させるまではしない。刷新していくイメージ。

「自分を曲げて譲る人は、かえって終わりまでやりとげる。こづかれてあちこちするかに見える人は自分なりの道を歩いてる。」(第二二章)
【メモ】敵を作らないこと。多少の譲歩が結果的に信念を貫くことに繋がる。

「タオに欠けた相手だったら、君はその欠けたところで付きあったらいいんだ。相手の欠けたところを楽しめばいいんだ。」(第二三章)
【メモ】能力や人徳に劣る人物に対していらつかず、その部分をたのしむゆとりを持つ。

「自分をひとによく見せようとばかりする者は自分がさっぱり分からんのさ。」(第二四章)
【メモ】SNSの危険性。「盛る」ことで自分を見失うリスクに気をつけること。

「他人に勝つには、力ずくですむけれど自分に勝つには柔らかな強さが要る。」(第三三章)
【メモ】柔らかな強さとは自分を拓くことであり、バリューのストレッチングである。

「これが正しいからやる、なんてことばかり主張する人は浅いパワーを振り回してるのさ。」(第三八章)
【メモ】SNSでたまに見る。自戒の意味も含めて気をつける。

「物や生き方を控え目に抑えた時にかえって得をする。」(第四二章)
【メモ】ヴェーバーの考えるプロテスタントの倹約主義と近いか。

「無為とは知識を体内で消化した人が何に対しても応じられるベストな状態のこと、あとは存在の内なるリズムに任せて黙って見ていることを言う。」(第四八章)
【メモ】変化への対応。受容。自ずから然り。