2012年9月9日日曜日

【第107回】『リーダーシップ・チャレンジ』(J・M・クーゼス B・Z・ポズナー、海と月社、2010年)


 リーダーシップは一部の特殊な人に関係する現象であると思われることが多いが、リーダーシップと無縁でいられる人はいない、と著者は述べる。なぜなら、リーダーシップは複数の人物の間における影響を表すものであり、社会的な存在としてのヒト(つまりは人「間」)である限り、私たちは身の周りの人々に対して影響を与える。したがって、私たちは自分が意識せずに発揮しているリーダーシップの質や結果に対してもっと自覚を持つ必要があるとも言えるだろう。

 本書ではこうした著者の考え方により、リーダーシップを発揮している人物として「普通の人」が多く取り挙げられている。部門の組織風土を変えようとしている人、新しいプロジェクトを立ち上げようとしている人、顧客への提供価値を改革しようとしている人、などである。むろん、企業組織を経営する立場にあるCEOも登場しているが、各々の立ち位置は異なれども、模範的なリーダーの行動パターンは五つに収斂するそうだ。

 第一の行動パターンは「模範となる」である。肩書きではなく実態によって影響を与えるのがリーダーの要件であるからには、行動や態度を伴わなければメンバーの敬意は得られない。メンバーに進んで望ましい行動を取ってもらうためには、行動の指針となる価値観を明確にしなければならないだろう。ここで留意すべきは、リーダー個人の価値観を語ることではない、という点だ。リーダーは自分の意見をそのまま述べるのではなく、組織のために語り、組織のために行動する、ということが重要なのである。そのためには、リーダー自身が日常的に自覚的にも無自覚的にも発しているシグナルについて鋭敏でなければならないだろう。そうしたシグナルが模範的な行動と合っていなければ、メンバーからは言行不一致とみなされ模範的な行動が望ましいものであると思われなくなってしまう。

 第二のポイントは「共通のビジョンで鼓舞する」である。ビジョンとは将来という時間軸の絵姿である。しかし著者は、過去を省みることで自分の人生にあらわれるテーマを明らかにし、ビジョンを描くというパターンが本質的であるとしている。実際、南カリフォルニア大学のオマル・A・エル・サウイ教授の実験によれば、未来の自分に起きることのリストを挙げるというテーマにおいて、いきなりそれをリストアップしたグループよりも、過去に実際に起きたことのリストを挙げた後にリストアップしたグループの方が、約二倍の遠い未来の出来事を挙げたという。リーダー自身のビジョンを描くことは大前提であるが、それをもとにチームとしてのビジョンを描くためには、メンバー個々のビジョンを熟知した上で共に創り上げそれぞれに合った言葉遣いで鼓舞することが重要だ。

 第三は「現状を改革する」である。私たちが思い描くリーダーシップ行動とは、大きな変化を起こしたファクターのみに注視しがちである。しかし、改革とはこれまでの延長線上にない小さな変化を積み上げていく中で実現するものである。小さな変化を積み上げることで、チームとして大きな改革を実現させる自信を高めていくのである。そのためには、リーダーは各メンバーが起こそうとする小さな変化の価値をいち早く認め、その行動に伴うリスクや失敗を許容することが求められるだろう。

 第四は「行動できる環境をつくる」である。現在のビジネス環境においては、リーダー自身の行動だけで大きな変化を起こすことはできない。したがって、すべてのメンバーが自分の行動に自信を持って熱意を持って仕事に取り組めるような環境を整える必要がある。そのためには、リーダーとメンバーとが同じ目線と温度感で取り組めるようなマインドセットが求められる。事実、著者がインタビューしたリーダーは、「私」という言葉よりも「われわれ」という言葉を約三倍も多く使っていた、というのは興味深い。たしかに、チームとして成し遂げた成果をあたかも自分一人のものとして上司に報告するリーダーにメンバーはついていこうとしないだろう。

 第五に「心から励ます」というポイントが挙げられている。「心から励ます」のであるから、それは真剣な行為である。うわべだけの、抽象的な賞賛では、メンバーにとってむしろ逆効果となるだろう。まずメンバーの具体的な仕事に対して真剣に感謝を述べること。次にそのメンバーの仕事が組織の価値観とどう結びついているかを納得的に説明すること。最後にそうした素晴らしい行動をチームとして祝う文化を根付かせること。こうしたことを通じて「心から励ます」チームを創り上げることがリーダーには求められていると言えよう。

2012年9月8日土曜日

【第106回】『CEOを育てる』(ラム・チャラン、ダイヤモンド社、2009年)


 かつて読んだ時と印象が全く異なり、今回、必要性のある中で改めて読んだところ示唆に富んだ良書であった。自分の興味関心に応じて書物へのアプローチは変わるものであるが、見切りをつけるという態度は改めようと思う。

 本書におけるリーダーシップ開発の根幹を為す考え方は徒弟制度モデルである。これは、リーダーシップ開発をスタッフ部門が定期的に行うものではなく、ラインのマネジャーを中心にして業務活動に織り込まれた日常的に行うもの、とする考え方だ。著者がこうした考え方に至った背景には、リーダーは訓練を通じてしか育たないという見方がある。「しか」という言葉にはやや違和感もあるが、決まりきった研修やツールを粛々とこなすことでリーダーが育成されるとする従来型の企業内大学や自社内MBAへのアンチテーゼとしては納得的である。徒弟制度モデルが必要とされる背景には、ビジネス環境変化のスピードの速さ、業務に求められる知識・スキル・態度のセットの更新スピードの速さ、といった外的環境がある。現在のこうした状況を鑑みれば、徒弟制度モデルが求められていることはよく分かる。

 ではなぜラインのマネジャーが中心的な役割を担う必要があるのか。端的に言えば、育成対象者を身近で見ているマネジャーが業務の中で日常的にフィードバックを行うことでリーダー候補は育成されるからである。忙しいラインマネジャーが育成に時間をかけられないという予想される反論に対して、著者は普段の業務の中におけるやり取りの中でフィードバックを行えば良いとしている。つまり、育成と業務マネジメントとは同じ時間軸の中で並行して行えるものであり、むしろ行うべきなのである。こうしたラインマネジャーの行動は、特定のスキルを発揮するというよりは当たり前のこととして慣れるという態度によるところが大きい。月次や四半期のレビューを行う際にフィードバックを与えるようにすれば、お互いにフィードバックに慣れると考えられよう。

 マネジャーとその部下という関係性であるため、育成計画が個別具体的なものとなることは自明であろう。かつ徒弟という言葉のイメージの通り、リーダー候補にとってチャレンジを与えることになるのであるから、失敗する権利を残すことが大事であると著者は述べる。具体的には、自分なりに職務を再定義して高い目標を設定する自由、与えられたメンバーを自分のやり方で率いる自由、事業の短期的ニーズと長期的ニーズとのバランスを決める自由、の三つである。試練という名の責任を与えるのであるから、自由を保証することは必要不可欠である。

 徒弟制度モデルではラインマネジャーを「中心にして」育成すると述べた。つまり、リーダー育成をラインマネジャーのみに押し付けるということではないのである。ラインマネジャーは対象となるリーダー候補に関する育成計画を、彼(女)の業務を知る社内のステイクホルダーを集めて育成計画について適宜話し合うことが必要である。リーダー候補の評価を是か非かで決めるのではなく、ステイクホルダー同士の対話により多様なアセスメントを行い、その後の育成計画の更新へと繋げることが有用である。

 こうしたリーダーシップ開発のあり方の中では、人事部門の役割もまた変化するべきである。ともすれば研修やツールを用意するのみで結果にはコミットしない従来の役割とは異なり、ラインマネジャーが行うリーダー育成をデザインしたりサポートするという役割を担うことになる。これはなにもリーダーシップ開発における人事部門の重要性が減衰しているわけではないことには留意したい。自社にとってあるべきリーダーシップ開発について、最新の知見を集めて分析し、ラインマネジャーやCEOによる徒弟制度のより効果的な運用の改善を行うことが人事の役割である。

 ここまでは会社のしくみとしての徒弟制度モデルについて触れてきた。企業の中でこうしたしくみがあることは望ましいが、なければリーダーを育てられないというわけではない。「おわりに」で著者が述べているように、能力開発は自分自身の問題であり、個々のリーダーが徒弟制度モデルを取り入れることは自由である。さらに著者の考え方を進めれば、リーダーシップを発揮したい部下の側が、上司や斜め上の上司に対して徒弟制度モデルを用いてもらうように依頼する、ということも考えられる。リーダーシップが他者との相互作用である以上、部下側のこうしたプロアクティヴな行動こそ自身でリーダーシップを発揮する第一歩となるのではなかろうか。

【第105回】『リーダーシップ入門』(金井壽宏、日本経済新聞出版社、2005年)


 リーダーシップとは、実務家による実践と、理論家による研究の両者がないまぜとなって言語化される現象である。本書では、実践から生まれ、実践を導いている理論のことを持論と呼び、研究者が調査研究や実験・観察から生み出すものを理論と定義されている。こうした定義じたいが大事であるのではなく、理論と持論とを同時に扱うことがリーダーシップ開発においては重要なのである。

 持論が自覚されていない状況であれば、希有な経験をしたところで経験の結果としての現実と自分の考えとの擦り合わせが充分に為されない。その結果、せっかくの経験がリーダーシップをより深めることに繋がらなくなってしまう。したがって、持論を持った上でアクションをすること、またアクションをしながら持論に基づいて内省することがリーダーシップ開発には必要なのである。

 こうした自分自身の持論はなにも一つの固定的なものではない。様々な場面において、それまでの自分の持論を試してチャレンジする中で、その持論が通用しない場面や、複数の持論が矛盾してしまうこともあるだろう。そうした一見して矛盾が生じる場面をいくつも経験し、持論が試されることによって、選択が自分にとってしっくりくる持論へと深化していくのである。これはいわば、どのような場面においてどの持論が適切であるかというように、持論がメタレベルへと至る。

 このように持論を持ち、リーダーシップを開発していくためには、自分自身の内省とともに、他者からのフィードバックが重要な要素となる。本書では、ペプシコでの事例を紐解きながら、CEO自らによる一対一でのフィードバックの重要性が指摘されている。ここで誤解してはいけないことは、CEOが自分自身のクローンを養成するためにフィードバックをすることではない、という点である。あくまで多様な個人と多様なリーダーシップのあり方を前提とした上で、ペプシコならではのペプシコに求められるリーダーシップという観点でフィードバックが為される。

 フィードバックは、フィードバックをされる側にとってのリーダーシップ開発にとって有用なことは言うまでもない。しかし同時に、フィードバックをする側にとっても、貴重な学習機会となる点も見逃せないだろう。自分が話すことではじめて、自分が何を大事にしているのかということが導き出させるのである。この結果、フィードバックは両者にとっての学習機会となり、さらには、企業であれば方向性を共有することでサクセッションプランを進めるというメリットもあるだろう。

 他方で、自社におけるリーダーシップのあり方についてトップに任せるだけでは不十分であろう。むしろ、人事や人材育成を担うスタッフが、自社において理念を体現するハイパフォーマーたちへとインタビューをすることで、ボトムアップでリーダーシップのあり方を言語化する努力もまた必要である。そうしたボトムアップのアプローチと、トップによるトップダウンのアプローチとをすりあわせることで、自社にとって求められるリーダーシップの姿を明らかにするのである。これは、人事や人材育成のスタッフが、信念を持ってやり遂げるべきものであろう。

 ではリーダーシップ開発を継続した後になにがあるのか。それを上昇志向のように感じることは誤解であると著者は指摘する。そうではなく、人間力を深化させる方向へと自分自身を発達させることであるという。これはCCLが主張している「円熟したリーダーシップ」と親和性が近いと言えるだろう。多様なフォロワーの相矛盾する利害を人間力で止揚して見えないものをともに見ようとしつづける姿勢が、リーダーシップを持続的に開発するということなのかもしれない。

2012年9月2日日曜日

【第104回】『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子、朝日出版社、2009年)


 盧溝橋事件の約半年後に、当時の首相であった近衛文麿が蒋介石へ「爾後、国民政府を対手とせず」という声明を出したことは中学・高校の日本史でも有名な史実である。私も記憶にはあったが、その意味するところを正しく理解していなかった。著者によれば、これは盧溝橋事件以降の日中の戦闘状況を戦争とみなしていない、ということであったようだ。つまり、国家同士の戦争ではなく、不法行為を働く匪賊を討伐するという討匪戦として認識していたのである。

 戦争ではなく、相手を対等な関係性のものとはみない。これは2001年のテロ以降にアメリカが相手を対等な関係性を持つものとみなさず、当然のこととして武力行使に踏み切った考え方と同じである、とする著者の指摘は鋭い。こうした指摘から考えられるのは、歴史とはアナロジーであり、史実を丹念に調べて分析を行うことで、現在以降の見通しを立てるということが歴史学の本分なのであろう。

 ではどのようにすれば歴史から学べるのか。

 著者は「いかに広い範囲から、いかに真実に近い解釈で、過去の教訓を持ってこられるかが、歴史を正しい教訓として使えるかどうかの分かれ道になる」と指摘する。つまり、歴史を時間軸と空間軸の二つから幅広く理解しておくことが一つめの鍵となる。二つめとしては、それを自分自身にとって都合の良い形ではなく、できるだけ真実に近い客観的なものとして解釈するということである。むろん、歴史は語る主体によって意味合いが揺れるものであるから完全な客観性というものはないが、作為的な変更を避けるという態度は必要不可欠であろう。

 では1930年代の日本はなぜ歴史から学べずに戦争へと至ったのであろうか。

 著者の指摘によれば、その一つの理由として当時の日本がイギリスやアメリカ、ソ連(ロシア)といった先発的な帝国から見て後発的な帝国であったことが挙げられる。すなわち、先発的な帝国が自国の経済を発展させるという目的で植民地を拡大させていったのに対して、日本は安全保障上の考慮として植民地獲得に走ったという。つまり、当時の日本にとっては、中国や東南アジアはソ連やアメリカといった脅威からの防衛線として「守る」という意識であったのであろう。

 ここで述べたいのは自衛だから正当化されるということではない。むしろ、当時の日本が自衛という名目で戦争へと突き進んだ経緯から学ぶべきことがあるということである。日本の歴史では自衛を美化する傾向が強い。古くは鎌倉時代における「蒙古襲来」を神風によって自衛したという例がある。自衛による正当化を用いて野心的なことを述べる政治家や評論家の詭弁にだまされないことが、歴史から学ぶということなのではないだろうか。

2012年9月1日土曜日

【第103回】『リーダーシップ開発ハンドブック』(C.D.マッコーレイら、金井壽宏監訳、白桃書房、2011年)


 修士課程の学生だった頃、また大学の研究機関で研究員として働いていた頃、よく図書館の中の書架を無目的に渉猟していた。ITを駆使して先行文献をリサーチすることも大事であるが、その一方で実際に本の背表紙を見てピンと来る良い本に巡り合う機会は一度や二度ではなかった。本書は、私の興味関心や業務内容としても当然チェックしておくべき書籍であったが、なぜか検索の網の目をすり抜けていたようで、名古屋駅の丸善を渉猟していて偶然見つけたものである。やはり大学の図書館や大きな書店に足を運ぶことは、私にとって欠かせない活動なのだろう。

 CCL(The Center for Creative Leadership)の存在はずいぶん前から知っていた。しかし、CCLが具体的にどういった理論をもとにリーダーシップ開発に取り組んでいるのかについては恥ずかしながら無知であった。書名にもある通り、本書はCCLの考えるリーダーシップ開発のあり方やその具体的な実践の一部をコンパクト(とはいえ400頁超の分量はある)にまとめたものである。金井先生が最後に書かれている通り、研究者や人事・人材育成を担当する方はもとより、プロジェクトマネジャーやリーダーシップを発揮したい方にとって有益な示唆に満ちている。

 リーダーシップ開発というイシューを考える上で、それを単独のイシューとして捉えると機能しなくなる。すなわち、経営上のイシューの構成概念としてリーダーシップ開発の位置づけと役割を考える必要がある。企業の中長期的な成長に向けて、リーダーを継続的に能力開発する、という基本的なスタンスが企業には求められる。本書ではそうしたリーダーシップ開発のアプローチとして、成長を促すためにはアセスメント、チャレンジ、サポートという三つの要素が求められるとする。

 第一のアセスメントにおいては、360度フィードバックが主流となる。上司、部下、同僚、顧客といった自身を取り巻くステイクホルダーから多様なフィードバックを得ることで、他者から見た自分と自身が認識する自分との相違を把握することが気づきを与える。それに加えて本書が付け加えているポイントは、「究極のスキル群」という自社において求められるリーダーシップのコンピテンシーセットと、自身のコンピテンシーセットとを比較することである。これによって、求められるレベルと自身の現状のレベルとを明快に把握することができ、具体的な今後の自身の成長プランを策定することができる。アセスメント結果が継続的な育成や開発の指針となるわけである。

 ここで大事な点は、360度フィードバックを単発のイベントにしないということである。本書で述べられている研究成果によれば、三日間のフィードバックセッションという時間を掛けたFIP(Feedback Intensive Program)を半年に二回程度行うことが大きな効果をもたらすそうだ。

 もう一つ触れておくべきポイントは「究極のスキル群」の具体的なイメージである。私たちは通常、優れたリーダーの資質として、ビジョンを描く、戦略を策定する、人を巻き込む、といった厳しく仕事を行うイメージを持つが、著者によれば必ずしもそうではない。むしろ、リーダーシップ開発のゴールは円熟したリーダーを育成することであるとしている。つまり、厳しさと思いやり、自信と謙虚といった一見すると相反する要素を併せ持ち、物事に対して柔軟に行動できる存在が理想であるとしているのである。

 こうしたアセスメントの後には、具体的な業務上のチャレンジを設計することが第二の要素として必要となる。チャレンジにおいて最も大事な点は、それを集合研修やケースといった仮想の場で鍛えるのではなく、あくまで職場で行うことである。仮想の場はあくまで職場での経験を補うものにすぎない。したがって、パフォーマンス・コーチングを通じて内省を支援することがチャレンジでは必要になるだろう。

 ここで、誰がコーチするかという点に注目する必要があるだろう。つまり、人間関係を通じて成長が促進されるという側面である。著者はそうした人間関係を通じた成長のポイントとして二点を取り上げている。一つめは多くの役割を提供する人間関係が大事であり、換言すれば、指導する人と指導される人といった単一の役割ではなく、多様な役割の関係性を築き続けることが必要なのである。二つめは、その人がコーチングを必要としているまさにそのタイミングで的確な役割を提供できることである。的を得た支援の内容であっても、それがあまりに遅すぎれば気づきは大幅に減衰せざるを得ないのだ。

 第三のサポートという観点は、アセスメントとチャレンジをいかに持続させるかというものである。まずアセスメントの結果は、能力開発以外の目的に使用しないという点が重要である。これは人事情報をコーポレイトが集約する傾向が強い日本型企業においては困難な発想かもしれない。したがって、人事や経営サイドの欲望をいかに抑えるか、ということが鍵となるだろう。実際に、CCLは360度フィードバックを能力開発の目的でのみ利用しているという。というのも、アセスメントの結果が会社に公表されるということがわかっていると、評価者の反応が変わってしまうことが研究成果から明らかであるからだそうだ。

 さらに360度フィードバックでは企画主体にこまやかな心配りが求められる。たとえば、ある評価者区分では人数が著しく少なくなってしまって評価者が推察されてしまうことが起こりえる。そうした際には基本的にはその区分におけるスコアは書かないようにするのがセオリーである。しかし、上司だけは例外であると著者は述べる。すなわち、部長以上のアセスメントを行うと上司の数は限られることが通常であるが、上司からの評価は重要な気づきを促すことが多い。そこで著者は、上司に対して回答の匿名性が守られないことを事前にはっきりと伝えるべきであるとした上で、たとえ評価者が一人であってもフィードバックすべきであるとしている。

 さらには、リーダーシップ開発のプログラムの中では真摯に自分自身に向き合ってもらうことが必要である。それに伴う否定的な感情については根気よく支援する必要があるだろう。すなわち、コンテンツ自体では率直なフィードバックやチャレンジをしてもらう必要があるが、プロセスにおいては人事や人材育成担当者が継続的なケアを心がける必要がある。企画側として、大いに考えさせられる大事な視点であろう。

2012年8月26日日曜日

【第102回】『新平等社会 「希望格差」を超えて』(山田昌弘、文藝春秋社、2006年)


 格差拡大という社会的な問題への対策として、格差をひとまとめに捉えても意味がない。日本社会においてどの格差が拡大し、どの格差は必要悪で、どの格差は縮小すべき課題なのかを切り分ける必要がある、と著者は主張する。

 ドラッカーの『ネクスト・ソサエティ』などをもとにして、著者は現代のニューエコノミーの特徴を「豊かな社会」「IT社会」「グローバル社会」と端的にまとめている。こうした特徴を持つ現代社会においては、多様な人々の多様なニーズをどう把握して具現化するかという「新しい発想とそれを実現できる企画力」と、それを効率的に行う「システム構築力」とが求められる。ここではこうしたスペックを持つ人材を非定型作業労働者としよう。

 非定型作業労働者が活躍できる前提には、企画から落とし込まれた事務作業を粛々とこなす定型作業労働者があると著者は述べる。それは現実的には、一部の非定型作業労働者と大部分の定型作業労働者というかたちで構成されることになるだろう。職務形態という観点のみで捉えるとこうした切り分けが問題であると断じたくなるものであるが、ニューエコノミーが生み出す製品・サービスの受け手の観点からは否定しづらい。ITの進展により利便性が増す生活を企画する主体としての非定型労働者を放棄するという選択肢は取りたくないだろうし、マクロ経済上の観点から考えても望ましくない。

 しかし、定型作業労働者の現状をそのまま肯定するわけにはいかないだろう。職務形態の峻別は必要悪として認めざるを得ない一方で、そうした方々への支援のあり方は改善が求められているのである。定型作業労働者にとって、自分自身が「労働者から期待される存在であるかどうか」という不安の結果として希望格差が生じることは本来は軽減できる問題であり、軽減させる必要がある。

 実際、定型作業労働者の端的な例と言えるフリーターを対象として著者が行った調査において、こうした希望格差が表れているそうだ。具体的な数値は述べられていないが、フリーターを選択した若者のうちのほとんどがいずれは違った立場になりたいと回答したという。さらに、フリーターになった当時の状況はともあれ、フリーターの状況が中長期化している人にとっては、現在の状況はいわば「強いられている」という側面が強い。

 では希望格差が生じる理由はなにか。

 著者はその理由を三つの要因から説明している。第一に努力が仕事能力の向上に結びつかず生産性が上がらないという生産性の要因。第二に生産性が上がっても収入の上昇に繋がらないという収入の要因。第三は努力しても生活水準が上がらないという生活水準の要因。このモデルは、第一の要因が説明変数であり、第二と第三の二つの要因を結果変数と捉えるべきであろう。このように考えると、モティベーション理論に造詣のある方は1960年代のブルームを嚆矢としてポーター=ローラーが1970年代に提唱した期待理論を想起するだろう。モティベーションという作用を、努力がパフォーマンスに繋がる期待と、パフォーマンス向上が報酬の向上に繋がる期待、とに因数分解した期待理論と著者の主張は近似している。すなわち、著者の社会学的なアプローチに基づく主張の妥当性は、心理学の領域からも認められていると言えよう。

 では、努力がパフォーマンスの向上と報酬の向上に結びつかなくなった原因はなにか。著者はその大きな理由は日本における戦後教育のパイプライン・システムの崩壊にあるとしている。つまり、受験勉強という努力を行うことが、偏差値が上がるというパフォーマンスに繋がり、良い会社に入るという報酬へと帰結するかつてのシステムが機能しなくなったことが原因である。

 現代から考えればこのシステムには大きな瑕疵がある。かつて受験勉強において求められたインプット重視型のパフォーマンスは、現代の企業において求められるパフォーマンスと異なるものになった、という点である。現代の企業においては、冒頭で述べた通りアウトプットを前提として、どのような企画を行い、それを実装する効率的なシステムをいかに構築するか、が非定型作業労働者に求められる。したがって、大学に入るまでのインプット型の努力は、非定型作業労働者に求められるパフォーマンスに結びつかなくなったのである。そうであるのに、世間が認める良い大学に入ること自体が今でもゴールであると思われていることが問題の根源であろう。

 こうした誤解はさらに根深い問題を生み出す。同じ学校の同級生の中において、望ましいキャリアを積める人とそうでない人とが生み出されるという現実である。社会において評価されるポイントよ大学入学において評価されるポイントとが全く異なるのであるから卒業後のキャリアに違いが生み出されることは本来当たり前だ。しかし、同じ大学に入るという同じような努力の質と量をしてきたと認識している人にとっては、自分にできなくてなぜ他者にできるのかが信じられず大きな不満となる。学校機関におけるキャリア教育が盛んになりつつあるが、受験指導に汲々としたり、資格取得をいたずらに鼓舞するものが大半であると言われる。これでは大学に入る前に求められるインプット型の学習を助長するだけである。そうではなく、企業や顧客から求められるエンプロイヤビリティーとはなにか、それを身につけるべくどう学生時代の努力をアンラーンして学生以降の生涯学習に繋げるか、といったことを考えさせるコンテンツを提供すべきであろう。

 社会に出る前の学生への取り組みとともに、その後の社会人への取り組みもまた喫緊時である。希望格差は外部不経済を生み出すからである。2008年の6月に秋葉原で起きた痛ましい通り魔事件を持ち出すまでもなく、派遣切りという定型作業労働者は雇用を失うリスクが低くなく、生きる希望を失う方による外部不経済の影響は計り知れない。そうした方々を政府としてNPOとして支援することももちろん重要であるが、日常的には定型作業労働者の方々への感謝の気持ちを持つこともまた重要であろう。人間にとっての希望とは、なにも金銭に集約されるものではなく、他者との日常的なあたたかい関わりの中で生まれるものなのだから。

2012年8月25日土曜日

【第101回】『罪と罰(上・下)』(ドストエフスキー、工藤精一郎訳、新潮社、1987年)


 小学生の頃、我が家では朝食をとるまえに本を読むことが課せられていた。両親の知人からいただいた日本や世界の「名作シリーズ」が自宅にあったため、自ずとそうした本を読んだものである。日本書紀や古事記をはじめ、信長・秀吉・家康といった歴史上の人物の伝記を読んだのであるが、世界の名作シリーズについてはほとんど記憶にない。『罪と罰』も読んだと思うが、記憶があやふやであり、改めて読むことに少し抵抗はあった。しかし、そうした私の事前の不安を良い意味で裏切ってくれるストーリーで一気に読み終えた。社会風刺、恋愛小説、推理小説といった様々な要素をよくもうまく織り交ぜたものであると感心した。

 その中でも私が最も感銘を受けたのは生と死に対する描写である。最近、宗教学を学ぶ機会があった。そこで大学の先生が「宗教とは極限状態を経験した者にとって救いとなるものである」ということを仰っていたことが心の琴線に触れたようで強く記憶に残っている。本書のタイトルにもなっている通り、人がいかに罪を犯し、罰をどのように受け容れるか、ということは、私の日常的な生活では経験することがない。そうした人間にとって、極限状態をありありと仮想体験できるという作用が小説にはあるのだろう。そうした意味で、究極の状態において生と死をいかに考えるか、という点に惹き付けられたのであろう。

 とりわけ印象に残ったのは、罪を犯した後に生活することがどんなに苦しい状況であっても、死ぬよりも生きることを選ぶことを表す著者の以下の描写である。

 「ある死刑囚が、死の一時間まえに、どこか高い絶壁の上で、しかも二本の足をおくのがやっとのようなせまい場所で、生きなければならないとしたらどうだろう、と語ったか考えたかしたという話しだ、ーーまわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、そして永遠の嵐ーーそしてその猫の額ほどの土地に立ったまま、生涯を送る、いや千年も万年も、永遠に立ちつづけていなければならないとしたら、ーーそれでもいま死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ!」

 生き続けることが苦以外のなにものでもなくても、死を選択せずに生きる、ということは、生きること自体になにものにも替え難い美質が含まれているということなのだろうか。言葉にするのは難しいが、なぜか印象に残った表現であり、主人公がこの言葉を何度も述べていることを鑑みると、著者も重要なメッセージとみなしていたのであろう。

 こうした生への固執は、罪を犯した主人公が、その後ある男性の死に際して現れる。死を通じて生を思い出す。生きる活力を得て、その後の困難を乗り越えようとする。この場面では、そうした活力が自身の罪を受け止めずに、それを逃れようとするネガティヴな意図のものにはなってはいるものの、活力の再生には惹き付けられるなにかがある。

 生きる活力を得つつも、自身の犯した罪に苛まれる中で主人公は自死を考える。しかし、自死を選ぶことは自身の罪による恥辱から逃げる行為であると主人公は最終的に結論づける。続けて、恥辱を恐れて自死に走ることを避けることを、誇りと肯定的に言い切っている。これは開き直りというレベルの話ではないだろう。主人公の苦悩の様子を追体験することで、誇りとはなにか、人間の尊厳とはなにか、といったことを内省させられる素晴らしいテクストであった。