2014年1月11日土曜日

【第239回】『集合知とは何か』(西垣通、中央公論新社、2013年)

 機械が扱う知と人間が扱う知には違いがある。機械が知を生み出すのではなく、機械というツールを用いて人間が知を創り出す。したがって、人と人との集まりを機械によっていかに支援し、社会的・集合的な知を涵養することが重要である。これが本書における著者のメッセージの要約であろう。要約することによって捨象されたもののうち、とりわけ含蓄に富んだ部分について以下から述べていく。

 まず、集合知を創り出す環境において求められる一人ひとりの学びについて。

 彼らにとって授業とは、既存の権威ある知識体系を単にわかりやすく伝授してくれるものなのだろう。彼らはそういう教育ばかりうけてきたのである。ほんとうの学問とは、既存の知識体系を丸呑みにすることではなく、批判的に解釈することから始まるのだが、そういう作業は非効率な時間つぶしのように思っているのではないか。 受験勉強の弊害だといえばそれまでである。だがそれだけではない。知識社会というお題目のもとに、所与の知識命題の効率のよい処理だけが知的活動であるという幻想を植えつけた大人たちにも責任はあるのだ。(50頁)

 受験においては、公正性と効率性が過分に求められる。受験後に客観的に採点できるようにして受験者からの不平不満を未然に防ぐためにテストは公正なものとなり、ために解答が一つに絞られるものとなる。そうした逆算で正解が求められるテストに合格するために、問題と解答とが静的な関係であるために、結果から逆算して勉強を組み立てる方法を受験生に確立させる。さらには、そうした逆算すらを予備校や塾といった外部機関にアウトソースして、受験生はひたすら与えられた課題をこなすだけになる。こうして培われた学習観では、学びにたのしさを見出すことは難しいだろうし、そうした人材は知識社会での主体として貢献はできない。とりわけ受験の「勝者」と呼ばれる方々の方が難しいのかもしれないが、旧来の受験勉強における学習観を忘却学習するという、いわば学習のメタ・アンラーニングが必要だ。

 観察というと、遠くから対象をじっと眺めているような気がするかもしれない。だが、生き物の認知観察行為の原型は、むしろ自分が動きまわって対象と主体的にかかわることになる。(中略) 世間の常識では、知識とは、天下りに与えられ、勉強して丸暗記すべき所与の客観的存在とみなされている。だが、知識の出発点とは、本来、主観的な世界イメージの部分的な様相の表現だったはずである。(90頁)

 旧来の学習観が客観的に存在する正解を丸暗記するという受身的なものであったのに対して、現代の知識社会において求められる学習観とは主体的なものだという。「主体的な観察」という言葉遣いの中から、観察対象は自身で決めること、観察のしかたも自身で試行錯誤すること、観察結果の関係性を自身で結びつけること、ということが読み取れる。

 細胞は、外部から与えられる設計図なしに、自分と似た細胞を次々につくりだす。(中略)個々の細胞だけではない。脳神経系も免疫系も、自分で自分をつくりだすのである。(中略)自分で自分を創りだすとは、作動の仕方も自分で決めるということだ。だから生命体は「自律的(autonomous)」なシステムでもある。 これに対して、機械は他の存在(人間)によって制作され、また他の存在(いわゆる出力)をつくりだすので、「アロポイエティック・システム」である。(中略)また、設計されたとおりに作動するから「他律的(heteronomous)」なシステムでもある。(100~101頁)

 機械との対比を行いながら、人間にとっての知の創出プロセスについて、細胞レベルで論じられている。ここでの鍵概念は自律的という概念だ。与えられたものを粛々とこなすということではなく、自分自身で試行錯誤しながらWHATとHOWの双方を見つけ、状況に合わせて更新し続ける主体的なプロセスである。

 ここまでは、知識社会において求められる個人の主体的な知識創出プロセスについて見てきた。次に、そうした主体を前提とした上で、社会として集合知をいかに紡ぎ出していくのかについて見ていきたい。

 興味深いのは、こういった社会的組織においては、コミュニケーションがコミュニケーションをつくりだすという自己循環的な作動がおこなわれていることだ。社会的組織には特有の言語概念をもつ伝統や文化があって、一種の知識として記憶されている。その記憶をもとにコミュニケーションが発生し、またそのコミュニケーションの痕跡が組織の記憶となって蓄積されていく。社会的組織のこういうダイナミックスは、再帰的に思考をうみだす心のダイナミックスと基本的に変わらない。(105頁)

 一対一のコミュニケーションが、他者を巻き込んだ広いコミュニケーションを生み出すという自律的な循環プロセスを著者はここで述べている。ダイナミックスというとポジティヴなイメージがあるが、循環ということは負の連鎖もまた組織においては容易に連鎖し得るということに留意するべきだろう。私たちは、コンプライアンス違反をした企業が、社会の論理よりも会社の論理を重視してきた事実を他山の石として肝に銘じるべきである。

 コミュニケーションとは瞬間的に成立するミクロな出来事である。知識形成というプロセスにおいては、コミュニケーションに加えて、いっそう長大な時空間でおこなわれる「意味伝播」というマクロな出来事が不可欠である。これは「プロパゲーション」とよばれる。 プロパゲーションとは、端的には、HACSの記憶(意味構造)の長期的な変化である。AとBが対話をつづけコミュニケーションが継続発生していくと、時間とともにやがて、AとBの各自の記憶に変化が生じてくるはずだ。(中略)AとBそれぞれのHACSにおける記憶(意味構造)の漸次的な変化が、プロパゲーションなのである。 いっそう大切なのは、Cによる記述自体の変化発展である。Cのブログは、(Cの心というHACSの意味構造ではなく)AとBの上位にある社会的HACSの意味構造そのものなのだが、これも時間とともに深められ拡大されていく。(中略) コミュニケーションとプロパゲーションをつうじて、クオリアのような主観的な一人称の世界認識から、(疑似)客観的な三人称の知識が創出されていく。形づくられるのは、一種の社会的な「知識」であり、「意味」である。(109~110頁)

 集合知は自律的なプロセスの循環として生み出される。ために、知識は静的なものとして存在するのではなく、動的なものとして絶えず変化を繰り返す。Aが発話した際に込められた意味合いは、Bに少し異なって受け取られ、AとBとの対話を記録するCにはさらに異なった観点から記述されるだろう。こうした自律的な社会的な知識創出プロセスに対しては、自分の発話の意図に徒に固執するのではなく、他者の異なる観点を受容し、柔軟な態度でたのしむというメンタリティーが求められるのではないか。

 第二の点として、集合知を生み出すプロセスについて眺めてきた。最後に、このような集合知が生まれる場およびツールについて見ていこう。

 フラットで透明な社会、つまり、情報が迅速に伝わりすぎる社会で、質疑応答による議論をしていると、かえって社会は安定しなくなり、適切な秩序ができにくくなる。過度に均質化され中央集権化されてしまうか、逆にアナーキーな無秩序状態になりやすいのだ。 人間集団のなかに、ある種の不透明性や閉鎖性があるからこそ、われわれは生きていけるのである。情報の意味内容がそっくり他者に伝わらないというのは、本質的なことなのだ。(207~208頁)

 コミュニケーションは、迅速で躊躇なくできるものが良いとされがちだ。たしかにそういった側面があることに異論はないが、あまりにスムーズに流れすぎるコミュニケーションにもネガティヴな側面があることに留意するべきだろう。だからこそ、うまくいかないコミュニケーションや、理不尽な場面に対してもおおらかに対応することが、私たちには重要なのだろう。

 ネット集合知にしても、その第一の使命は、ローカルな社会集団のなかで問題解決能力を高めることにある。とすれば、性急な多数決などではなく、多様な価値観を組み合わせ、必要におうじて妥協をもとめつつ合意点を見出すような方向が望ましいのではないか。(210頁)

 民主的=多数決と捉えられるのは、学校教育の為す害悪の一つであろうか。むろん、国政選挙といった特殊な状況において多数決による議員の選出プロセスが行われることに異論はないが、普遍的な原理として多数決を採択するのは誤りだ。多様な価値観の表出を許容し、そうした価値観の異なりを特定のイシューにおいていかに統合するか、というプロセスに私たちは重きを置くべきだろう。そうした一つひとつのプロセスが、一人ひとりでは生み出し得ないゆたかな集合知を生み創り出すことに貢献するのだから。


2014年1月5日日曜日

【第238回】『宗教とは何か』(T・イーグルトン、大橋洋一+小林久美子訳、青土社、2010年)

 論争は、知的であるかぎりにおいて、すなわち、論理的であり含蓄のあるものであれば、興味深く学びの多いものになる。ドーキンスとイーグルトンによる宗教あるいは無神論に関わる論争は読んでいて心地が良いものであった。

 「無からの」創造とは、もっとも基本的な物質にすら頼ることなく創造できた神がいかに悪魔的に狡猾かの証左ではなく、世界が、世界に先行する過程の不可避の頂点ではなく、いわんや、なんらかの因果関係連鎖の帰結でもないことの証左なのである。宇宙には必然性がないがゆえに、わたしたちは、宇宙をア・プリオリに統括する法則を演繹できず、そのかわりに宇宙のじっさいのはたらきを観察することを余儀なくされる。この観察は科学の務めである。したがって無からの創造の教理とリチャード・ドーキンスの専門職生活とは奇妙なつながりがある。神なくしてドーキンスは職を失うだろう。彼の雇用者の存在を疑問に付すところが、彼特有のおこがましさなのである。(22~23頁)

 最後の一文は、講演時のリップサービスといったやや嫌みな意味合いのものではあるが、科学と神学との関係性とを巧みに抉り出した箇所と言えるだろう。ドーキンスが因果の帰結として絶対的な創造主としての神の存在を批判したのに対して、そうした無からの創造を絶対的な創造として理解することは誤読であると反論する。神を「干渉主義的支配者」(23頁)と捉えるのではなく、人々の自由を保障するという文脈での創造主という位置づけを行っているのである。

 現在までのところ、資本主義はその宗教的・形而上的上部構造を、たとえ将来捨てることを余儀なくされるとしても、いまはまだ捨てていない。とりわけテロリズムの世界にあって、社会的に機能不全をおこした原理主義と宗教的信仰がますます同一化するようになれば、宗教が消えてなくなる可能性は否めないだろう。(65~66頁)

 マルクス主義的な言葉遣いに郷愁をおぼえて大事な点を読み飛ばしてはいけない。ここでは、ドーキンスをはじめとした無神論者が批判する根本である原理主義と呼ばれる現象への批判に共感を示しているのである。しかし、その一方で、宗教的信仰と原理主義とを巧みに分類することで、原理主義批判を認めながら、それを宗教的信仰への批判に結びつけないという論法を用いているのである。

 みずからの敵を精神異常者であると決めつけることの裏面にあるのは、みずからを免罪する姿勢である。わたしたちが信仰を、理性の対極にあるものとしてみているかぎり、こうしたあやまちをおかしつづけるだろう。(140頁)

 原理主義批判への理解を示しながら、自分と異なる主義・信条を持つ存在を否定することへの批判を端的に示している。他者を一方的に決めつけて攻撃することは、自分自身を省みず、自身の罪の意識を滅することになる。どのような立場に立とうとも、著者のこの指摘についてはしっかりと受け止める必要があるだろう。

 原理主義と宗教的信仰との違いを明確にした上で、著者は、宗教的信仰をどのように積極的に位置づけるのだろうか。

 宗教的信仰はそもそも<至高の神>が存在するという命題に賛成するかどうかといった次元の話ではない。この点で、無神論と不可知論の大半がつまずいてしまう。神は実体としてこの世に「存在する」わけではない。すくなくともこの点においては、無神論者と信仰者は意見の一致をみるだろう。さらに多くの場合、信仰は命題的というよりむしろ行為遂行的なものである。(144頁)

 神の実体的な存在を否定する無神論者や不可知論者の意見を大胆にも受け容れている。その上で、神の存在性に信仰の中心を置くのではなく、神を信じて行動するという行為に信仰の中心を置いているのである。では、信仰的な行動とは何を意味するのだろうか。

 知は積極的な関与を通じてすこしずつ蓄積されるもので、積極的関与自体が信仰を内包している。信念が行動を動機づけるのはたしかなのだ。と同時に行動によって自分の信念が定まっていくという側面もある。さらにわたしたちは、知を、もっぱら人間よりも事物を知ることをモデルにしてみてきたので、信仰と知がからまりあう別の側面をも見逃してしまっている。特定の人物を信頼(=信仰)してはじめて、その人物に自分のことをあらいざらいさらけ出すという危険をおかすことができるのであり、結果として、自分自身についての真の知が可能になるのだ。この点で、理解可能性は、信頼性と密接にかかわってくるし、これは道徳的概念でもある。(156頁)

 信仰的な行動の一つとして、積極的に知に関与することを著者は取り上げている。他者への信頼であっても、宗教への信仰であっても、他者や他の存在への信頼性があることによってはじめて私たちは積極的に知を習得することができる。<信>があることで積極的関与に基づく行動ができる、という点は充分に首肯できる。
 
 ハイデガーとウィトゲンシュタインにとっての知とは、この世界にわたしたちを慣習的に縛りつけるもののなかに埋め込まれている諸前提の範囲内で作用するもので、けっして正確に形式化されたり主題化できるものではないのだ。(中略)知ることのノウハウが、知に先行する。わたしたちのあらゆる理論化は、たとえどんなにかけはなれたもののようにみえても、わたしたちの慣習実践的生活様式に基盤を置いている。(167~168頁)

 知る内容をいかに得るかという「知ることのノウハウ」は、自覚的であろうと無自覚であろうと「慣習実践的生活様式」を基にしている。そうであればこそ、人が何を知ることができるかは、生活様式、言い換えれば自身が拠って立つパラダイムに規定されざるを得ない。こうしたパラダイムを構成する主要な一つの要素が信仰であり信頼なのであろう。

 多元的な時代には、確信と寛容は相容れないものと考えられている。だが、ほんとうのところ、確信なるものは、人が寛容にあつかうべきものとされているものの一部にもなっており、そのためいっぽうを排除すれば、もういっぽうも排除することになってしまうのだ。(174頁)

 多様性および多元性が重視される現代社会に対する警鐘であり示唆的なメッセージとなっている。ある特定の信仰への確信は、それ以外の信仰への寛容と両立するし、逆に、確信がなければ寛容性がなくなるとまで著者は述べているのである。卑近な例ではあるが、ある神学の教授の講義を受けたことがあるが、キリスト教への確信的な態度を持ちながら、他宗教への寛容の精神に満ちた言動に驚きをおぼえたものだ。積極的に自己肯定できる人こそが、他者への理解や受容を自然と行えるのであろう。

2014年1月4日土曜日

【第237回】『神は妄想である 宗教との決別』(R・ドーキンス、垂水雄二訳、早川書房、2007年)

 著者が一貫して無宗教を是認するのは、宗教が時に害悪を為すという考え方によるものである。つまり、特定の宗教を信じる者と信じない者との間に生じる緊張関係であり、対立である。

 ジョン・レノンとともに、宗教のない世界を想像してほしい。自爆テロリスト、九・一一[世界貿易センタービルがイスラム教徒の飛行機テロで崩壊した日]、七・七[ロンドンで同時多発テロが起きた日]、十字軍、魔女狩り、火薬陰謀事件[一六〇五年に英国でカトリック教徒が起こした政府転覆未遂事件]、インド分割[イスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立に起因する]、イスラエル/パレスチナ戦争、セルビア人/クロアチア人/イスラム教徒の大虐殺[旧ユーゴスラヴィアにおける]、キリスト殺しのユダヤ人迫害、北アイルランド紛争、「名誉殺人」[一族の名誉を汚した人間を殺すというイスラム教圏の風習]、ふっくらさせた髪型でキンキラの服を着て、騙されやすい人々から金を巻き上げるテレビ伝道師(「神はあなたがひたすら捧げることを望んでおられます」)、それらすべてが存在しない世界を想像してみてほしい。太古の仏像を爆破するタリバンのいない、冒涜者を公開斬首することのない、女性が肌をほんのわずか見せたという罪で鞭打たれることのない世界を想像してみてほしい。(10頁)

 著者は具体的な事例を畳み掛けるように示すことで、宗教の非寛容性を主張する。とりわけ、信じる対象が異なる者どうしが対立するのは、構造上いたしかたがないようにも思える。W杯やチャンピオンズリーグにおける国と国との対戦やチームどうしの対戦は必然的に人々を熱狂させるものであり、虎党とG党とが対立するのは宿命なのだろう。宗教をこうした装置として捉えた場合、「ではなぜ宗教は必要なのか」という著者が投げかける疑問には理解可能な部分があるようだ。

 著者は主に以下の三点から、宗教の意義を否定する。第一に、神の非・存在である。

 全知と全能が相互に両立しえないことは、論理学者たちに気づかれずにすみはしなかった。もし神が全知であれば、その全能を用いて歴史の進路を変えるためにどのように干渉すればいいかをすでに知っているはずである。しかし、そのことは、神がその干渉の仕方を自分で変えられないことを意味し、そうであれば全能ではないことになる。(118頁)

 よく「全知全能の神」という表現がなされる。この概念の論理矛盾に著者は噛み付いているのである。現在および将来の事象について神が何もかも知っている(全知)のであれば、何らかのアクションを取ればいいのにそれを取らないということは、全能ではないということである。他方、思ったことは何でもできる(全能)のであるとしたら、適切なアクションを取れていないのは何をするべきかについて無知であるからということになる。つまり、完璧でない社会や世界という現状からリバース・エンジニアリングすれば、論理学的には、WHAT構築(全知)の完璧性とHOW遂行(全能)の完璧性との両立はあり得ないのである。

 第二に、道徳に関わる実験に対する、信仰を持つ方と持たない方との対応をもとにした考察を取り上げたい。

 ハウザーは、信仰心の篤い人々と無神論者とでは道徳的直観がちがうのかどうかという疑問も発している。確かに、もし私たちが道徳性を宗教から得ているのであれば、ちがっていなければならない。しかし、どうもそうではないように思われる。ハウザーは倫理学者のピーター・シンガーと共同で、三つの仮想的なジレンマに焦点を絞り、無神論者の判断と信仰心の篤い人間の判断を比較した。(中略) ハウザーとシンガーの研究から得られた主要な結論は、こうした判断において、無神論者と宗教を信じている人々のあいだで統計的に有意な差は存在しないというものであった。(329~330頁)

 道徳的にジレンマを覚える思考実験とは、サンデルの白熱教室でも取り上げられた、自分の判断で誰かを助ける代わりに他の誰かが死ぬという究極の意思決定が求められる場面を仮想的に用いた実験である。著者の仮説はこうだ。宗教がそれを信じる人々に対して道徳的な価値観を付与するという影響を持つのであれば、上記の思考実験の結果において宗教を信じる人々と無神論者との間で有意な差があるはずだ、というのである。しかし、そこに統計的に有意な差異が存在しなかったという実験結果から、信仰は価値観を付与しない、と結論づけているのである。

 第三は、やや趣味が悪いとも言われそうな実験だ。

 一六八人の別のイスラエルの子供の集団に「ヨシュア記」からとった同じテキストが与えられたが、ヨシュアという名前が「リン将軍」に、「イスラエル」が「三〇〇〇年前の中国の王国」に置きかえられていたのだ。すると、結果は正反対になった。つまり、わずか七%だけがリン将軍の振る舞いを是認し、七五%が不同意だった。言い換えれば、ここで得られた数字からユダヤ教への彼らの忠誠心を取り除けば、このイスラエルの子供たちが示した道徳上の判断は、大部分の現代人が共有する道徳上の判断と一致するのである。ヨシュアがしたことは、野蛮な大量虐殺という所業である。しかし、宗教的な視点からはまったくちがったものに見える。そして、この区別は人生の早い時期に植えつけられる。大量虐殺を非難する子供と容認する子供のあいだのちがいをつくるのは、宗教だったのだ。(375~376頁)

 ある行為が自身の信じる宗教や所属する社会における文脈では認められるのに対して、全く同じ行為が異なる文脈では許しがたい行為として認識される。そうした認識の装置は、判断能力が低い幼い頃に植えつけられるとして著者は警鐘を鳴らしている。あまり趣味が良いとは思えないが、ここでの実験結果が示唆する点にまで目を瞑ることは適切ではないだろう。

 宗教という文化や文明との固着性の高い社会的・自然的な装置に対して、結論を急ぐ必要はない。まずは次回、ドーキンスの本書への反論を述べたと言われるイーグルトンの『宗教とは何か』を扱うこととする。


2014年1月3日金曜日

【第236回】『花鳥風月の科学』(松岡正剛、中央公論新社、2004年)

 日本文化について、テーマと時代とを縦横無尽に行き来しながら読み解くという、碩学の著者ならではの書籍である。それぞれに読ませる部分が多い章立ての中で、「時」に関する著述に焦点を当てて以下にまとめてみたい。

 日本人がもつ時間意識をうまく説明することはなかなか難しいことです。なぜなら日本の時間はヨーロッパともちがい、またインドともちがい、その根底には「ウツロヒ」という観念を置いているからです。 ウツロヒは移行のことです。春夏秋冬の季節の移行であり、光から闇へ、闇から光への移行であり、また一日のウツロヒであって、人生のウツロヒです。(317~318頁)

 ヨーロッパでは、時間を一本の矢印のベクトルのようにイメージし、成長に向けた動的なエネルギーのようなものと捉える。一方で、インドにおいては、時間とは静的で外的なものであり、人はその中で淡々と役割を演じるものと捉えられている。それらに対して、日本人にとっての時間とは移行するものである、と著者は述べる。では、ウツロヒもしくは移行とはどのようなことを意味するのであろうか。

 「移る」「写る」「映る」が同じ言葉であるということは、何かが移っていくと、そこに心に写されるものがあり、また、その心に写ったものが心の外の何かに映し出されているのだということです。これらがひとつながりに連動する。ここに、本書の主題である花鳥風月の心が、実は連続的に映し写されていくイメージの切れ目のない移行性だったのだということがあかされるのです。 では、このような移行の連動性が、なぜにウツという空虚やからっぽのイメージをあらわす言葉(語根)から派生してきたかということですが、そのことを理解するには、まず「ウツなるもの」というものが、古代中世の日本にとって大きな意味をもっていたことを知る必要があります。(318~319頁)

 ここで著者は、ウツロヒとは連続的な移行性と端的に捉えている。移行する主体とは、外的存在であり、私たち自身にある内的存在であり、外と内との関係性でもある、という複数が射程に入っていることに着目するべきであろう。では、ウツロヒの中にある「ウツ」という空なる存在の意味は何か。

 ウツという空虚はイメージを生成する原基だということなのです。そして、ここにウツなるものが実は「時間を生む容器」でもあったということが卒然として判明してきます。ウツロヒとは、もともと「ウツなるところ」から生まれてきた「ウツなるもの」が移動していくことだったのです。(320頁)

 自明なことであるが、容器の「器」を訓読みすれば「うつわ」となる。連続的に移行するものは空の器であると著者は説明を加えている。こうした器の中に時間が入っているというように捉える思考様式を持つことは、私たちの独特な時間への感覚をもたらすことになる。

 私は、どうも日本の時間は「持ち運びできるような感覚」のなかにあったのではないかとおもいます。そして、その持ち運びできるような時間は、時間そのものとして実在していたのではなく、何か別のものの付随性として生々流転をしているように見えるのです。 そのことを暗示するのは日本における「器」の力です。(中略) ホカイというものがあります。 おおむねは「外居」とか「行器」と綴ります。(中略) ホカイは何かを容れるための容器ではなく、何かが入ってくるための容器なのです。何が入ってくるかというと、告げられるべきものや心を向けるべきものが入ってくる。すなわち、何か威力のある情報が入ってくるものなのです。(322~323頁)

 普通のお皿や食器とは異なる特別な器の中に入るものは時間である。したがって、「持ち運びできるような感覚」を時間というものに対して見出していると著者はしている。さらに、ホカイの「ホカ」の部分に焦点を当てて、著者は思考を深める。

 ホカイやホカヒは、実は「ほかう」(祝う)という行為が容器化したり儀礼化したりしていたのであって、それは、もともとは「ほか」を意識する為の行為を原型としていたのだということに気がつかされるのです。 いったい「ほか」とは何でしょうか。「ほか」とはよそであり、別のところ、ちがう場所ということです。(324~325頁)

 祝うという行為は、キリスト教の考え方を援用すれば何かを聖別するということであり、他と自を区別するということである。したがって、器は私たちの外にあるものであるために、器の中にある時間というものも私たちの外にある存在として捉えられることになる。

 われわれは、「外部」としかいいようのないどこかに何かのディレクション(方向)を感じています。その「外部」は自分のいる場所以外であり、家の外であり、川のむこうであり、風のやってくる山のかなたであり、鳥が去っていく空のはてです。また、今日の感覚でいえば、その「外部」は宇宙であるかもしれません。いずれにしても、その「外部」はわれわれの知らないところです。 その知らないところが「ほか」というものです。われわれはこの「ほか」をもつことによって、何かホッとする。なぜホッとするかというと、そこはわれわれの日々の責任が届かない非実在の空間であり、別の時間が流れていると想像できるところであるからです。(327頁)

 時間とは持ち運びできるものであり、その持ち運びできるものは自分たちが創り出したり、欲しい時に得られるものではないという感覚を持っている。他の存在に時間を委ねるということであろうし、さらにそうした手放す感覚を心地よいと感じる傾向があるとまで著者はしている。

 私は、日本の時間の源流が「ほか」に属していたのではないかと見ているのです。「時」は最初から「ここ」のある時点にあったのではないことを知らされるのです。それは「むこう」(ほか)から流れ来たって、また「むこう」(ほか)へ流れ出していく。それはおうおうにして四季のウツロヒと重なっていく。それが日本の時間です。 けれども、何も用意しなければ時間はただ過ぎ去っていくばかり、そこで、その「ここ」と「むこう」(ほか)のあいだに、ウツなるものでできた何かの容器を、時間の獲得のためのインターフェースとして、また情報の獲得のインターフェースとして、さまざまに用意したのです。(329頁)

 時間というものをアンコントローラブルなものとして捉える一方で、訪れる「時間」をしっかりと受け止められるようにインターフェイスを用意する。外的な存在への受容とともに、その中でチャンスを受け止めようとするしたたかで柔軟な感性を私たち日本人は歴史的に持ってきたのかもしれない。


2013年12月29日日曜日

【第235回】『ガウディ伝 「時代の意志」を読む』(田澤耕、中央公論新社、2011年)

 伝記から何を学び取るか。そこには読み手の態度とともに、書き手の態度も大きく関係するようだ。

 関係の濃淡の差こそあれ、同じ街で同じ時代に起きたことでお互いにまったく無関係なことなどない。関係がなさそうに見えても実はどこかで繋がっている事例を書いていくことによって、一度環境のなかに埋め戻したガウディの像が自ずから浮かび上がってくることもあるのではないか。スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットは「私は私と私の環境である」と言った。まさに、「ガウディはガウディとガウディの環境」なのである。(ⅱ頁)

 ある人物を描くということは、ある人物が生きた時代や背景とその人物との環境を描くことである、という視点に立って本書は書かれている。ある人物の意志というものは、ある時代における意志の一部であり、反対の側から見れば、歴史的な人物たちの意志がある時代の意志をも構成する、とも捉えられる。ガウディを描くということは、ガウディが生きた時代および当時の社会の意志を描くということなのだろう。

 こうした環境要因がガウディを生み出したと捉えられる特徴的なポイントについて、以下の四点を取り上げてみよう。

 いくつかの建築事務所でアルバイトをし、ひたすら図面を引き続けた。学業に身が入らなくても無理はない。 ただ、このアルバイト生活には、プラスの面も少なからずあった。 教室で課題として行う製図から学べることと、実際に金を出す施主がいて、その要求に従って現実の建築物に結実させるためにする製図から学べることの間には、天と地ほどの差があるのはいうまでもない。(37頁)

 実務と学術の往還関係。実務だけを行っていると抽象化の思考訓練が弱くなるが、学術だけに携わっていると顧客意識や実践的インプリケーションの抽出が弱くなる。したがって、これらを同時に、もしくは交互に行い続けることが大事なのだろう。学校で学ぶことと、アルバイト実務で学ぶこととを統合させた結果、ガウディという偉大な建築家が生み出されることになったという点は興味深い。

 ガウディのパトロンたち、「インディアノ」はこのような人種であった。バルセロナの、そしてカタルーニャの反映を支えていた彼らインディアノたちの資金は、カリブ海からやって来た。そしてその大きな部分は「もっとももうかる商品」ーー人間の売買によって生み出された。(中略) 善悪の問題ではなく、ガウディの建築を見たり論じたりするときに、その作品を可能とした資金の出所がどこであったのかということは念頭に置いておいたほうがいい。(105~106頁)

 美術作品や建築物の背後にはパトロンの存在がある。そうしたパトロンたちのどのような資金が芸術作品に投じられていたのかがここでは解説されている。著者も指摘しているように、奴隷売買というビジネスの結果として得られた資金であるから悪いということではない。あくまで、時代の意志ということを考える上では、こうした背景に意識を向けることが大事なのであろう。

 いずれにせよ自己摸倣によってムダルニズマの代表的建築家となったプッチ・イ・カダファルクが、新しい流行の前に、自分のスタイルを変更せざるを得なかったのはそのためである。 しかし、ほんの一握りの真の天才たちには、この定義はあてはまらない。彼らは、常に自己破壊と再生を繰り返すので、スタイルに縛られないからである。ガウディは生きつづけていたら、自分の流儀をひたすら継続したであろう。そして、それまで同様にそれは一時的な流行やスタイルを超越したものとなっていったであろう。 この点は、ピカソが自分のスタイルを次々に打ち破っていったこととよく似ている。きわめて稀にしか出現しないそのような超弩級の天才が二人も、同じ時期に同じ都市に暮らしていたということは奇跡としか言いようがない。その意味でも当時のバルセロナは「奇跡の都市」であった。(263頁)

 天才は自分自身のスタイルに固執せず、自らの可能性を次々に拓きながら、試行錯誤を続ける。このような意味での天才として、ガウディとともにピカソが、同じ時代の同じ場所に居た、ということは知的好奇心をかき立てる。ここでは「天才」という言葉が使われているが、私たちの日常生活やビジネスにおけるプロフェッショナルと呼ばれる存在も同様であろう。それは特別なことではなく、日常の一つひとつの工夫が私たちの殻を破るための一歩の踏み出しになるのではないか。

 建築には施主が必要であり、また、建築は人が住んだり使ったりしてはじめて完結する芸術だ、と本文中で書いた。もう一つ、建築が絵画や彫刻などほかの造形芸術と違う点は、「そこから動かせない」ということである。ガウディ展を東京で開催するとしても、サグラダ・ファミリア教会を持ってくるわけにはいかない。実物が見たければそこへ行くしかない。(中略) 現在においてそうであるように、過去においてもガウディやムダルニズマの建築物は土地の生活の一部であった。建設中や建設当初に人々の耳目を集めることはあっても、やがてそこに人が住むようになると、風景に溶け込んでしまったのである。(276頁)

 ここに、環境と建築物との相互依存関係が端的に表れていると言えるだろう。どちらかがなくなってしまったら、都市も建築物も異なったものになってしまう。モバイルミュージアムといったダイナミックな鑑賞物に意義がある一方で、こうしたスタティックな建築物にもまた、私たちの生活に欠かせない意義がある。

2013年12月28日土曜日

【第234回】『モバイルミュージアム 行動する博物館』(西野嘉章、平凡社、2012年)

 博物館という言葉から想起されるのはハコモノだ。そのハコモノにモビリティを持たせるということはどういうことなのか。本書を読む前に読者の多くが抱くであろう疑問に対して、著者は、その試みの特徴とメリットについて丹念に説明を加えている。

 「モバイル・ゲル」はいまだ実現せざるプロジェクトである。しかし、こうした思考実験は、ミュージアムとはなにかという問いに対する答えを、設備や機能といった側面から考える上で意義深い。すなわち、このプロジェクトは、展示コンテンツのコンパクト化、さらに言うならミュージアムのミニマリズムを究極まで推し進めるという、実験そのものにほかならないからである。ことばを換えると、それを欠いたならもはやミュージアムとは言えない最小限の構成要素として、なにが残るかを問うことに通じる。(30頁)

 モビリティを持たせるためには、要素を極限まで削る必要がある。要素を削り落とした上で、それをどのように配置するかというリデザインの発想が求められる。物事の本質を突き詰めて考えるという思考作業は、要素をシンプルにした上で、その組み合わせを検討する、ということを意味するのではないか。

 まずは著者のいうところのモバイルミュージアムの定義から見てみよう。

 「モバイルミュージアム」とは、固有の施設、建物、スタッフ、コレクションを常備した、ハードウェアとしてのミュージアムを指すものでなく、ミュージアム事業のあり方すなわち、小規模で、効率的な事業を積み重ねることで活動総量の増大を図るための、ソフトウェアとしての戦略的な事業運営システムのことを云わんとするものである。(44頁)

 簡潔に定義づけがなされている。さらにイメージを持つために著者の喩えを見ておくと良いだろう。

 「モバイルミュージアム」は、コンパクト化された展示ユニットを、ネットワークで結ばれた場所ないし施設のあいだで循環させるシステム工学的な設計図に、それを維持し実現するための社会経済学的な運営法を複合させる試みである。従来からある巡回展とは、企図の主旨、実践の方法が異なるということ。レゴに喩えると、こうである。百ピースの各色のレゴを用意しておいて、必要に応じて彩りを考えながら十ピース、二十ピース、三十ピースと配ってゆく。これが「モバイルミュージアム」である。それに対し、従来の巡回展は、同じ百ピースのレゴからなるものであっても、すでに組み上がっていて、もはやかたちの変えられない集塊物を配る作業と言える。ここに違いがある。(41頁)

 モバイルミュージアムと通常の巡回展との相違を端的に記している。まず、組み上がったものには組み上がったものの良さというものがあるとして巡回展そのものを否定していないことに留意が必要だ。その上で、巡回展とは異なるモバイルミュージアムの利点として、時代や社会に合った組み替え、すなわちリデザインの可能性を見出している。著者が用いているレゴのアナロジーをもとに考えればその利点はイメージしやすいだろう。

 さらに利点を深掘りしてみよう。

 機動性や自在性や汎用性を活かすことで、自然史標本や文化史資料など日頃馴染みのないコンテンツを身近なものにできる。所定の場所に標本や資料を常在させることによって、ミュージアムの本来的な使命である社会教育の機会を増大し、枠組みを拡大してみせる。それが、ミュージアムに対する外部からの有形無形の支援の増大につながるなら、さらによい。感覚的美意識や学術的好奇心に働きかけることで、日常空間を文化的な香りのする場に変容させる。あるいは、そこまで言わずとも、学術の世界とはいかなるものか、文化財とはどのようなものか、そうした関心や意識の啓発に寄与する。諸々の狙いのものに実現される「モバイルミュージアム」は、既存のミュージアム・コレクションの利用価値を顕現させ、その存在に適った展示デザインを考案し、広く一般に公開してみせることから得られる公益性を、幅広い社会層の享受できるものとするための展示事業システムなのである。(43頁)

 ここでは明確に、モバイルミュージアムの有する既存の博物館への相補性というメリットが提示されている。既存の博物館が持っている可能性を、モビリティを用いることによって、様々な主体の持つ潜在的なニーズを満たすことが増大化させるのがモバイルミュージアムなのである。したがって、それは、単なる作品の陳列ではなく、展示という場のデザインなのである。モバイルミュージアムによってニーズの裾野を広げ、啓発・教育活動を行うことによって、既存の展示物の可能性がさらに高まる。こうした循環を生み出すシステムとして捉えることがモバイルミュージアムの可能性の本質を表していると言えるのではないだろうか。

 海外での「モバイルミュージアム」事業を進めるなかでわれわれが学習したことのひとつは、展覧会は一回限りで終わらせるものでなく、回帰的に反復させてもよいのではないか。否、そうあるべきなのではないかということである。それによって展示コンテンツを、よりよいものに進化洗練させることができるなら、それに越したことはない。展覧会が場所を移動するあいだに、「成長」し、「進化」する。二〇一三年春には、進化を遂げたコンテンツが東京で再公開される。海外遍歴を重ねた展覧会が、どのような成長を遂げたのか、あらためて検証する機会を設けたいと考えている。展覧会を会場を変えながら繰り返すことの意味はここにある。(123頁)

 モビリティの持つ意義の一つは、こうした異なる地域・国・文化におけるオペレーションから得られる学習効果であろう。多様な学習を通じて、個々の要素の持つ価値を再認識し、新しい組み合わせの妙が生み出される。学びの連鎖は、価値をスパイラルアップさせるというよりも、新たな引き出しを増やすという豊かな価値の再発見に繋がるのだろう。

 既存のモノのありようを多様な現代社会のニーズ、現代人の趣味嗜好に適うようデザインし直すことで、あらたな利用価値を生み出したいと考える。古い建物を改修し、新しいミュージアムに転成させること、これは「リデザイン」である。ひとたび役立てられた展示コンテンツを、別な場所に転移させ、そこで新しい展示に組み立て直して見せることもそうである。古い学術標本を霊感源として新しいファッションやモードを生み出すこと、古くなった研究用什器を修理し、必要とされる加工を施して新しい展示ケースに衣替えさせることもまた「リデザイン」である。「リデザイン」のコンセプトは、資源やエネルギーの消費の抑制・削減という緊急課題に向かい合う現代社会が、より明快なかたちで意識化すべき方法論なのである。(174頁)

 モバイルミュージアムの要諦の一つであるリデザイン。このコンセプトは、今の時代・社会においてマッチするものである。さらに私の仕事に惹き付けて飛躍させて言えば、キャリアのモビリティをも思い起こさせる話でもある。じっくりと噛み締めながら、深く考え続けたい。


2013年12月23日月曜日

【第233回】『日本のデザイン 美意識がつくる未来』(原研哉、岩波書店、2011年)

 産業デザインに携わる方の「デザイン」という言葉の捉え方は、キャリア「デザイン」を考える上で示唆に富んだ含蓄のあるものが多い。まず、著者が「デザイン」について触れている部分について三点ほど紹介してみよう。

 かつて僕は、デザインとは「欲望のエデュケーション」である、と書いた。製品や環境は、人々の欲望という「土壌」からの「収穫物」である。よい製品や環境を生み出すにはよく肥えた土壌、すなわち高い欲望の水準を実現しなくてはならない。デザインとは、そのような欲望の根底に影響をあたえるものである。そういう考えが「欲望のエデュケーション」という言葉の背景にはあった。よく考えられたデザインに触れることによって覚醒がおこり、欲望に変化が生まれ、結果として消費のかたちや資源利用のかたち、さらには暮らしのかたちが変わっていく。そして豊饒で生きのいい欲望の土壌には、良質な「実」すなわち製品や環境が結実していくのである。(ⅱ頁)

 ここで触れられているデザインとは、世界に存在しないものを生み出して価値を提示するというものではない。潜在的に存在する美しいかたちを「地」から括り出し、「図」として浮かび上がらせて提示し、人々の欲望を刺激する。こうした一連の教育活動や啓蒙活動とでも形容できるプロセスを著者はデザインとして定義する。受けを基本としながら積極的にしかける技能という風に捉えれば、キャリアのデザインにも応用可能な考え方であろう。つまり、日常的に上司から指示されたり顧客から依頼されるタスクを受け容れながら、それに一手間の工夫を施したり、工夫できるように他者や書籍からの学びを肥やしにしておく。これが日常単位におけるジョブデザインであり、中長期で考えればキャリアデザインとなる、と考えることは飛躍ではないだろう。

 デザインとはスタイリングではない。ものの形を計画的・意識的に作る行為は確かにデザインだが、それだけではない。デザインとは生み出すだけの思想ではなく、ものを介して暮らしや環境の本質を考える生活の思想でもある。したがって、作ると同時に、気付くということのなかにもデザインの本質がある。(43~44頁)

 むろん、デザインとは人の生活とも関係する。デザインされたものを通じて、人々の生活自体や環境の本質を考えるためのきっかけになるという点に注目するべきだろう。すなわち、普段の生活において自然に溶け込んだものがデザインであると同時に、それを通じて深い思索や気づきへと至る機能もまたデザインは有するのである。

 デザインは、商品の魅力をあおり立てる競いの文脈で語られることが多いが、本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。抑制、尊厳、そして誇りといったような価値観こそデザインの本質に近い。(151頁)

 ここではデザインの持つ社会性に焦点が当てられている。個人単位の意思や欲望といったレベルではなく、社会全体で共有される倫理にも影響を与えるとしている。ただし、デザインと倫理との関係は、どちらが説明変数でもう一方が結果変数であるということではなく、相互依存関係にあると言えるのではないだろうか。何れにしても、そうした見えないかたちを見える化するところにデザイナーの希有な価値はあるのだろう。

 デザインの意味合いについて一通り見てきたところで、本書のテーマである成熟社会・日本におけるデザインの展望について、著者は何を述べているのかを見ていこう。

 空間にぽつりと余白と緊張を生み出す「生け花」も、自然と人為の境界に人の感情を呼び入れる「庭」も同様である。これらに共通する感覚の緊張は、「空白」がイメージを誘いだし、人の意識をそこに引き入れようとする力学に由来する。茶室でのロケーションは、その力が強く作用する場を訪ねて歩く経験であり、これによって、現代の僕らの感覚の基層にも通じる美の水脈、感性の根を確かめることができた。西洋のモダニズムやシンプルを理解しつつも、何かが違うと感じていた謎がここで解けたのである。(70頁)

 現代に通じる日本におけるデザインの源流は東山文化に端を発すると著者はしている。その上で、その本質を空白という無存在に置く。茶室の佇まい、そこで求められる所作、飾られている生け花、外の庭の有り様。空間を埋めるのではなく、空間の中に空白を大胆に設けること。これが日本のデザインの基底を為すと著者はしている。

 掃除をする人も、工事をする人も、料理をする人も、灯りを管理する人も、すべて丁寧に篤実に仕事をしている。あえて言葉にするなら「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」。そんな価値観が根底にある。日本とはそういう国である。(中略) 普通の環境を丁寧にしつらえる意識は作業をしている当人たちの問題のみならず、その環境を共有する一般の人々の意識のレベルにも繋がっているような気がする。特別な職人の領域だけに高邁な意識を持ち込むのではなく、ありふれた日常空間の始末をきちんとすることや、それをひとつの常識として社会全体で暗黙裡に共有すること。美意識とはそのような文化のありようではないか。(中略) 「技術」とは、云い換えれば繊細、丁寧、緻密、簡潔にものづくりを遂行することであり、それは感覚資源が適切に作用した結果、獲得できた技の洗練ではないか。つまり、今日において空港の床が清潔に磨きあげられていたり、都市の夜景をなす灯りのひとつひとつが確実に光を放つことの背景にある同じ感受性が、規格大量生産においても働いていたのではないかと考えられる。高度な生産技術やハイテクノロジーを走らせる技術の、まさに先端を作る資源が美意識であるという根拠はここにある。(3~5頁)

 日本のデザインの源流が、現在においてどのように流れているのかがここに表れている。クリンリネスについては個人ごとの差異はむろんあるだろう。しかし、社会全体において、クリンリネスや静けさに価値を置き、そうした状態を心地よく感じる心象というものを<日本人>は共有している。一人ひとりがそうした価値観を持つ中で、社会としてのクリンリネスを実現しているのであり、それはなにもデザイナーや建築家といった特別なプロフェッショナルだけの手によるものではない。

 今日、僕たちは、自らの文化が世界に貢献できる点を、感覚資源からあらためて見つめ直してみてはどうだろうか。そうすることで、これから世界が必要とするはずの、つつましさや合理性をバランスよく表現できる国としての自意識をたずさえて、未来に向かうことができる。(中略) GDPは人口の多い国に譲り渡し、日本は現代生活において、さらにそのずっと先を見つめたい。アジアの東の端というクールな位置から、異文化との濃密な接触や軋轢を経た後にのみ到達できる極まった洗練をめざさなくてはならない。(6~8頁)

 日本におけるデザインの有り様を踏まえた上で、著者はここで世界におけるその可能性について言及している。まず、美意識という豊かな感覚を資源として捉えた上で、そこにおける文化の世界への発信可能性を指摘している。とかく意見の強い者同士が対立し合う国際環境において、空白に重きを置き、クールに受容しながら価値中立的な有り様で貢献する、というスタンスは面白いかもしれない。こうした態度を成熟と呼ぶのであれば、成熟社会・日本という立ち位置に可能性があるようにも思えてくる。

 最後に、やや本筋とは離れるが、以下の興味深い点について触れておきたい。

 「ともだち」とは美しい言葉であって、これが抑圧の源であるとは誰も思わない。しかしこういう流れで考えてくると、価値共有の進んだコミュニティは目には見えない排他性を持ちうる。つまり「ともだち」化は「非ともだち」へのプレッシャーにもなりうるのだ。いじめとは攻撃されるターゲットとして対象化されることではなく「非ともだち」の結果、すなわち「ともだち」化のしわ寄せなのかもしれない。自由の行き着く先には常にそういう不安定さが潜んでいるように思う。(223~224頁)

 ここにおける「ともだち」とは、3・11後のアメリカからの援助活動である「オペレーション・トモダチ」を指している。著者はアメリカのこの活動を否定しているわけではないことを予め強調しておく。単に「ともだち」という言葉に対する違和感を著者は指摘しているにすぎないのである。たしかに、ここでの「ともだち」をFacebookにおける「ともだち」と照らし合わせれば、著者の警鐘は傾聴に値するだろう。「ともだち」になれないことへのプレッシャーとはすなわち、「ともだち」コミュニティから排除されることへのプレッシャーを意味する。幼い頃から他者を気にしすぎることは、健全な個別性を育むことに悪い影響を与える可能性もあるだろう。SNSを否定するわけではないが、コミュニティとしてどのようにあるべきかという上段を意識した上で、SNSというツールを私たちは捉え直すことが必要なのかもしれない。