2014年10月5日日曜日

【第352回】『私本太平記(七)』(吉川英治、講談社、1990年)

 尊氏が九州から捲土重来を図り、刻一刻と義貞軍との衝突が近づく気配のする第七巻。最終・第八巻の湊川へと繋がる本作では、正成の有り様が印象的だ。

 もしこの重い業をのがれたいのであったら、そもそもは、元弘の初め、笠置からの天皇のお招きをお断りすればよかったのである。しかるにすすんで勅を畏んだ。そのときすでに平和の民、南河内の一族有縁の女子供にいたるまでの運命はこの正成が業の輪廻に巻きこんでいたものだった。長としてのその原罪を、彼はみずからの性格のためにごまかしきれない。
 しかし、拒んだら、のがれえたか。平和の民があのまま平和でいられたろうか。
 むずかしい。考えられない。
 でも正成の責任はそれで消えぬ、この正成の……と笠置の過去をかえりみたとき、彼ははっと、いまの衷心を訴えうるただひとりの御一人胸のうちに見つけていた。(42頁)

 どれほど戦いの中に生きようとも、心の底で平和を願い、平和のために戦う正成の想いが伝わってくるようだ。その想いの強さが、天皇への諫諍まで正成を突き動かす。

 もし左中将どのに、よく人心収攬のご器量があるものなれば、さきに鎌倉を陥し、また勅宣の御戦をひきいて治平の帥にあたりながら、今日まで天下の諸族を、いまだにこんな支離滅裂にはしておきますまい。ーーひるがえって尊氏をみれば、賊名をうけながらも、またいくたび窮地に立ち、いくたび破れながらも、なお彼の筑紫落ちには、あまたな武士が、付き従うなどーー尊氏が赴くところ、何せい、衆和と士気の高さがうかがわれまする(54頁)

 後醍醐への諫諍の中で、味方である義貞を否定し、尊氏を称揚する。称揚するどころか、尊氏を味方にし、義貞を討つのも辞さず、とまで断言しているのであるから、凄まじい。日頃言葉少ない人物の直言であるために、その効力も高いのであろうが、この言は入れられず、半ば蟄居に近い扱いを受ける。それも、後醍醐による判断ではなく、その取り巻きである公卿による命であるのだから、正成の苦衷も想像できよう。

 「ゆたかな、慈悲のおん相にはちがいない。けれど阿修羅もおよばぬすさまじい剣気を眸に持っておいでられる。したがその猛も貪婪な五欲には組み合わず、唇と歯には知恵をかみわけ、鼻、ひたいに女性のような柔和と小心と、迷いのふかい凡相をさえお持ちであらっしゃる。卑賤の親とは慕われようが、決して貴人の相とは申されぬ」
 「……」
 「いやいや、言い違えた。貴相ではあるが、その貴相は、福禄のそれではなく、堂上におごる人のそれともちがう。どうみても我利我欲の強さには欠けている。では私の自我心はないのか。それもちがう。おそろしい大自我、いわば大私といったような御自分の自信はなんぴとよりもお強く巌みたいにその貌心の奥に深く秘めてはおられる」(274~275頁)

 仮面作り師による正成評である。自然な強さ、自然な優しさ。そうした自然な感情と意志が、その相貌に表れているのであろう。

 「さむらいの子、そうなくてはならぬところ、健気さはうれしいぞ。したが、正行よ。死ぬだけがもののふの道ではない。いや、もののふが一番に大事とせねばならぬのは、二つとない生命だ。いかなる道を世に志そうと、いのちを持たで出来ようか。されば、さむらいの、もっとも恥は犬死ということだ。つぎには、死に下手というものか。とまれ人と生れたからには、享けた一命をその人がどう生涯につかいきるか、それでその人の値うちもきまる」(328頁)

 死を覚悟して湊川へと付いて行こうとする長子・正行を思い留めさせようと諄々と説諭している情景である。死を意識するからこそ、生を大事にする。否、生を重んじるからこそ、死をも覚悟することができる。つまり、死の覚悟を決めるということは、生きることの喜びや素晴らしさを知悉し体験している人物だと正成は言いたいのであろう。そうであるからこそ、生を充分に経験していない正行の死地への追従を頑に断るのである。

 正成は人知れずもう死をきめていたのである。
 いかに死すべきか
 死の価値だけが彼には大事なのであって、感情上のこと、生還のこと、すべてさらさら胸のすみにもない。で自然、義貞へも、心の小細工などは持つ要は何もなかったのだ。ーーただ、ありようありのまま、義貞とあしたの戦略をよくはなしあっておこう。そしてそれには、主将の義貞にいささかなわだかまりがあってもいけないと考え、そのもつれを解こうと努めるものにすぎないのだった。(347頁)

 死を意識することによって、他者にも寛容になり、一喜一憂しなくなる。正成の場合、死地へ赴くことによって、より自然になっているのであろう。

 なぜだろう、彼にもわからない。じいんと胸が傷んでいた。敵にまわしたくない敵、しかも七生までの敵ぞと自分へ宣言して会下山に立った敵。にもかかわらず、彼はなお、正成が憎めぬのみか、立派だ!とさえ思うのだった。(366~367頁)

 最後に、尊氏による正成への心情を引用した。正成への尊崇の気持ちに基づき、幾度となく本人および使者からも伝えながらもそれを全て否定される。それでも、正成への尊敬と崇拝の気持ちが消えない。それだけの強い気持ちを天下人に持たせる存在が、楠木正成という人物なのだろう。




2014年10月4日土曜日

【第351回】『私本太平記(六)』(吉川英治、講談社、1990年)

 建武の親政のはじまりと、そのあまりに早い瓦解を描く第六巻。俗に南北朝の戦いと呼ばれる争いを、武家と公家の双方が、天皇と天皇との戦いとはせず、足利対新田という武家の争いとして、大義名分を合作する様は、非常に興味深い。どこか<日本的>と思えるような作用である。

 足利と新田の綱引きにおいて、足利尊氏は楠木正成を自陣に引き込もうとする。これは、戦略的な見地に立ったものであるとともに、正成の人間性に対する尊崇の念もあるかのようだ。

 土豪には土豪の土臭、武者には武者の骨柄があるものだが、正成には、そんな力みがどこにもなかった。
 それも、しいてしている低姿勢とはみえず、人前に臆しがちな、はにかみともいえそうな翳が、その肩や面ざしを、自然なやわらかいものにしていて、するどい圭角らしさなどは物腰のどこにもない。いってみれば、そこらの往来でも役所の門でも、ざらに見かけられる平凡な四十男、あるいは布衣のなにがしといった程度の人としか思えない目の前の正成だった。(67~68頁)

 正成に対する尊氏の印象の描写という形式で書かれた部分である。穏やかながら芯があり、泰然自若な中における強さが描かれているように思える。

 かねがね彼は、河内の正成ひとりは、どうあっても、敵にまわしてはならぬものとしていたのである。もし味方に加えて大望の一翼とすることができたらとさえーーひそかに考えているほどだった。それはきのう今日の思いではない。赤坂、千早における楠木一族なるものに遠くから注目しだした頃からの慕念であった。士は士を知る。男が男に惚れたのだと彼は思う。(73頁)

 それでも尊氏は六波羅までのあいだに、この者たちの態度や騎馬法などを見て、なるほどくれくらいな者が千もいれば、赤坂、千早の戦いもできえたろうと思われた。兵をみればその主将の人柄はたいがいわかる。尊氏は広い世界を恐れずにいられなかった。それにつけ、正成の存在は、前より大きな障害と考えられた。大望の一路をさまたげる難山となるかもしれない。今夜の口吻とあの信念、焼き刃がねのような純粋な人柄。まるで動かぬ山だ。山はこっち向けにすることは不可能だ。彼はひそかにあきらめた。(76頁)

 二つの描写を引用した。正成に対する尊敬の想いが強い尊氏だからこそ、その人間性の純粋さに付け入る隙がないことにも気づく。天下泰平を目指す尊氏と、自身の生まれ育った土地の人々と家族との平和を目指す正成。そのあまりに大きなベクトルの相違が、二人の英傑を並び立たせなかったのではないか。

 次は、新田義貞による尊氏への感情について触れてみたい。

 尊氏という人間を観るうえでは、たれよりも、自分が最もよくそれを知る、としていたからである。
 新田、足利とならんで郷国も隣り合っていたし、幼少からの人となりもお互いよくわかっていたうえ、隣国同士、喧嘩のしのぎもけずりあい、鎌倉入りには味方ともなって、両軍、くつわをならべて攻め入った仲でもあるのだ。ーーが、その後においては、
 食えぬ男。
 心底の読めぬ尊氏。
 と、義貞の尊氏観は、いちだん、以前とちがっていた。(110頁)

 幼少のころの尊氏を知るために、現在との差分への理解もまたよく知悉しており、尊氏の人間性を理解しているという自負にも繋がっているのであろう。

 ゆめゆめ、もうあまく見てはならぬ。ーー戦でなら負けはしないがーー謀にかけては寸毫の油断もならぬ尊氏、義貞一生の強敵と心がくべきだ。さもなければ、鎌倉終末の大失敗を、ふたたび都でもかさねるだろう。謀だ。彼は謀にとむ大敵だ。(111頁)

 他者を軽く見るということは、軽く見たいという自分の主観的な感情が為すのかもしれない。その結果、油断大敵という言葉があるように、しっぺ返しを受けることになる。いわば、過去の自分自身の過失が、現在の自分自身に復讐するのである。換言すれば、自分の主観を排除して、他者の評価を客観的に捉え直すことが私たちには必要なのだろう。

 最後に、尊氏が、後醍醐と対立することになってまでも、天下を目指すことを決断するシーンを見てみたい。

 天下の武士あらましは、公家政治に失望して王政ならぬべつな“何か”の形態を統一のうえに欲している。ーー北条残党ののろしが、東国の野でたちまち巨大な火勢となったのも、現状に不平な枯れ草が土壌いたる所にあるからだ。
 これは、尊氏として、坐視できない。武士の不平は、彼にすれば、彼のいだく大望の理想楼閣をきずく良材なのだ。味方なのだ。その素地を、北条再建軍にうばわれては、彼の立脚する所はなくなる。
 かつは、朝廷としても、ここまできた北条討滅の意義は霧消してしまう。ーーだからたとえ朝命をまたず無断東征に赴いても、それは天下の御為ともいえるのではなかろうか。
 尊氏は、しいて自分の行為に、そう理由づける。(188~189頁)

 朝廷に対する深謀遠慮の精神を持ちながらも、自身の大望から鑑みた上で時局への対応をはかろうとする。それはすなわち、後醍醐との対立を意味することになるが、いたしかたないと自分自身を納得させている。この尊氏の朝廷を慮る気持ちは、以下の、直義への強い言葉にも表れていよう。

 「ちがう。尊氏の意はちがう。どうなろうと、天皇はやはり至上の上にあがめおきたい。この国の美だ、また要だ。もしそれをなくしたら、さなきだに俺が俺がの天下は、のべつ乱麻乱世のくりかえしだろ。それを恐れる」(214頁)

 「国家」という概念までが尊氏の頭にあったとは思えないが、泰平な世の中の実現という点は意識に強くあったのだろう。そのために、天皇という存在を重んじる必要があると考えた点は、軍人というよりも政治家としての秀逸さを感じさせる。

 「時運はたえまなく動いているのだ。そうこだわるな。眼前の事態にのみ固着した頭脳では手も足も出せはせぬ。ーーやがて勅使も帰洛のうえには、何かの変も生じて来よう。打つ手も自然出てくるものだ。尊氏もここしばらくは静観しよう」(220頁)

 冷静沈着さをなぜ尊氏が重んじるのか。それは時局を見極め、長い時間軸で現在の現象を捉え、対応しようとするからだろう。そうであるから徒に慌てることなく、ゆったりと構えることができるのであろう。激烈なリーダーも人を魅了することがあろうが、尊氏のようなリーダーこそ、人を惹き付け、組織を創り上げる存在なのではないか。



2014年10月3日金曜日

【第350回】『私本太平記(五)』(吉川英治、講談社、1990年)

 尊氏の天下を取るための深謀遠慮の計が徐々に明らかになる『私本太平記』の中盤である。

 他のどんな軍事上の提携よりも、高氏は、このクサビに他日のふくみを打ちこんでいた。ーー子を鎌倉の質子として去る親の立場から、その千寿王の生命を、義貞に保護させておくことにもなるし、また、
 (鎌倉攻めは、新田だけの催しでなく、足利の一子と一軍も、参加していた)
 となす、発言権をも、ここで将来のために、確保しておこうという考えがある。(153~154頁)

 自らは六波羅に向けて西上する一方で、同時に新田が鎌倉へ東上するように示し合わせ、北条幕府を滅亡させるという戦略。その見事さもさることながら、六波羅討伐への武勲のみならず、鎌倉討伐への武勲をも得ようという両面戦略、かつ新田との連携を強化する外交戦略も兼ね備えた卓越した大戦略である。

 世良田のみなみへ半里、利根川べりに行きあたる。
 そこの川岸の里は地名を徳川といい、新田家の一支族、徳川教氏の住地だった。ーーこの世良田徳川の子孫が、遠いのちに、江戸幕府の徳川将軍家となったのである。だから代々の徳川家は、祖先新田氏をおろそかにしなかった。(124頁)

 やや余談となるが、不勉強ながら、徳川家が新田家の子孫であるとは知らなかった。自分への備忘録として記載しておく。

 そのうえにも、後醍醐は、
 「わが諱(実名)の一字をとらす。……以後は、高氏をあらためて、尊氏となすがよい」
 といった。
 (中略)
 高氏は、感激した。彼には愚直な一面もある。かほどまでに自分を知ってくれるお人には何らの異心も抱けはしなかった。かつは、帝王でいながら今日までの迫害と艱苦に克ちとおしてきた後醍醐を、彼は、平等な人間としても、心から尊敬していた。勲位は、その傑出した人からみとめられたということで、いちばい、うれしかったようだった。(349~350頁)

 あまりに深謀遠慮で人間性が見えづらい尊氏ではあるが、感動しやすい性質もまた内奥にはあるのであろう。違う側面から捉えれば、自分という人間をよく理解してくれることに感動するというのは、多くの人間に共通することなのかもしれない。他者のつぼを抑えるという点から鑑みれば、後醍醐もまた、リーダーの素養ゆたかな人物であったのであろう。



2014年10月2日木曜日

【第349回】『私本太平記(四)』(吉川英治、講談社、1990年)

 本書でも、足利尊氏・楠木正成・佐々木道誉の三者を中心に物語が続く。

 これが天下の反宮方から、あれほどに狙われている首の持主なのか。大蔵には、その人が、何かふしぎな者に見えた。
 豪傑というのだろうか。いやそんな強げな大将でないし、智者ともみえない。あの加賀田の隠者のほうが、よほど学問もありそうで眼もするどい。
 では何だろう、この人は。
 こう対していても、べつに人を圧する威厳があるわけでもない、いっかな無口で、茫洋としていて、彼にはつかみどころがなかった。けれど何か一しょにいると、あたたかだった。おそろしい飢えと敵の重囲の中にある気はせず、つつみ隠しもいらない穏やかで正直な人とただ夜を共にしている感だけがあって何もなかった。ーーあらゆる種類の人間を猜疑し、また嗅ぎつけてきた大蔵なので、その直感だけには自信がもてる。(278頁)

 元は六波羅探題の忍びであった忍の大蔵による楠木正成評である。敵としての存在から、正成に魅せられて旗下に下った人物である。正成の人物の大きさ、もしくはその真っすぐさが分かる描写である。

 「言いなさんな。正成どのは、おまえさんのことなんざ、悪くもいわず、よくもいわずだ。ましてこの大蔵の去就などに目もくれてはいない。また千早には、大将から兵のはしまで、出世を考えているようなのは、ただのひとりもいねえンだよ。そんな娑婆ッ気で居たたまれる城じゃあない。そこらが、おまえさんの学じゃ割りきれねえとこなんだろう」
 「………」
 「だが、おれは見た。人間もほんとに信じあって一つにかたまると、こうも強く美しくなるもんかっていうことをね。人間を見直したよ。やくざな俺までがあの籠城には手をかしてやりたくなるんだ。千早の中へはいったのが身の因果か何かは知らぬが」(349頁)

 引き続き、大蔵による正成への想いの吐露である。正成の評価というところから派生して、正成を慕って死地で獅子奮迅する部下たちへの想いや、彼らへの共感を通じて、正成および楠木軍の強さをよく表現しているようだ。

 ふるびてはいるが、まだ生きていたかのような灰白色の一旒が、旗竿のさきにたかくひるがえった。ーー高氏はひとみをあげてその流動に見とれた。十年の思いがいま虚空に呼吸をえている姿にみえる。また、日ごろ崇拝していた頼朝の加勢をいま証に見たかともおもった。(429~430頁)

 次は足利尊氏である。鎌倉へ反旗を翻す決意を持っているにも関わらず、その意志に気づかない執権・北条高時からもらった源氏の御旗を前にしての想いである。頼朝への崇拝と共に、十年前に先祖に誓った意志を思い返す印象深いシーンである。

 「む。新田が起つ。上野国の新田小太郎義貞も、その遠くは、足利と同祖の家。ーーこれまでの反目も水にながして、同時に起つ密約もすんでおる。ーーあとは、同じ源氏の名門では、御当家だけだが、賢明なそこもとが、ここを踏み過るはずはないと、新田も見てれば、またかくいう高氏も、十年らい、この目でみてきた佐々木道誉だ、かたくその者を信じてこれへ来たわけだ。わかろうがの、こうまで申せば」(492頁)

 幕府側と宮方へも色気を見せる佐々木道誉。その道誉を宮方へと決めさせるために、尊氏は単身で道誉を訪れるという奇策を敢行し、このような大戦略も含めて意志を伝える。リーダーシップの本質を感じさせる言動ではないか。



2014年10月1日水曜日

【第348回】『私本太平記(三)』(吉川英治、講談社、1990年)

 足利尊氏、楠木正成、佐々木道誉。後醍醐天皇の近習ではない三者が、遠くを周回する衛星のように、遠心力と求心力とが調和されているかのように、三者が後醍醐を取り巻きながら、それぞれに影響を与え合う。

 ことばには馴れる。覚悟の必死のと言いあってみても、すぐ観念化されやすい。
 正成が“砦入り”のその日に、祖先いらいの館を、まず真ッさきに焼き払って出たのは、ことばだけでない覚悟のほどを、みなの眼に見せたものだった。(62頁)

 まずは楠木正成から。言葉は少ないが、行動で将兵たちに意志を示し、戦略を遂行させるその様は、軍神という名にふさわしい。ふわふわとした言葉を重んじるのではなく、行動によって意図を示す。

 「そうだろう!」
 高氏は膝を打った。じぶんの観測は中っていた。将は将を知る。独り愉快を禁じえぬらしい。
 「かねて正成の人となりは、そちからつぶさに聞いていた。その正成が、小城一つ失ったとて、やわか、むなしく焼け死ぬものか。藁人形ではあるまいし」(187~188頁)

 鎌倉幕府側の尊氏をして、後醍醐天皇側の正成を称揚する。二人は、その後も敵味方に分かれる運命にあるわけであるが、尊氏による正成への敬意は、人間の美しい感情を表しているように感じる。

 こんな時代だ、おれはおれの生き方で行く。時代をおれの時代のように振舞ってゆくぞ、と、いつの時にか腹をすえたような太々しいものがあった。ーーもう一歩その底意に立ち入れば、彼もまた、近江半国の守護という好位置を利して、ひそかに天下への野心を抱くものかも知れず、または婆娑羅大名の奢りだけにほぼ満足しているものか、その辺の区別は、彼もまた一種の怪物であり、大物だけに、余人にはつかみようもないのである。ーーいや彼が稀世の怪物なら、時雲のうごきも一寸さきが逆睹できない怪雲であるから、彼自身にさえ、ほんとの腹は固まってないのかもしれなかった。しいて本音を吐かせれば「……いやその両方だ。生きるからには婆娑羅に世をたのしみ、あわよくばまた、天下も取りたい」と、空嘯く者なのかもしれない。(129~130頁)

 次は、佐々木道誉を取り上げたい。北条高時の寵愛を受けながらも、後醍醐天皇側との関係を作ることにも余念がなく、尊氏との関係性も常に揺り動く。その動きの分からなさは、自分自身すらその意志や野心が分からないからではないか、という著者の洞察は納得的だ。

 だが高氏は何のこだわりもない風だった。先ごろ、ついこの辺で道誉の家来たちを懲らしたことも、以後、小右京の身を山荘にひきとっていることなども、忘れていた。ーーそしてただこの一怪物を、将来の用のため、自家の薬籠中のものにしなければと、ひそかに誓っていただけだった。(195頁)

 尊氏は折に触れて道誉に振り回されるし、煮え湯を飲まされるようなこともさせられる。しかし、嫌いたくなるときほど,その存在の重要性に思い知らされるのであるから、皮肉であるとともに、人間関係の不思議さを感じさせる。

 こんどの旅で広く見わたしても、高氏ほどな男は、まず見あたらん。未来の運を賭けるなら高氏しかない。(322頁)

 張り合う好敵手と見做しながらも、相手の実力を認める姿勢は、道誉もまた高氏に対して抱いている。しかし、一筋縄にお互いが手に手を取り合って、という関係性にならないところもまた、好敵手というものなのだろう。

2014年9月30日火曜日

【第347回】『私本太平記(二)』(吉川英治、講談社、1990年)

 天皇という存在ほど、日本史において興味深いものはないのかもしれない。

 だが、天皇御むほん?
 どうもおかしいではないか。こんな語は、ことばの意味をなしていないと、いう者もあるにはあった。
 武家もなく、幕府もなく、また院政だの、公卿の専横もなかった以前の世は、政治は天子が統べ給うものときまっていた。天子御一人のほかは、何者といえ、天子の親政を補佐るものにすぎないと、連綿、さだめられて来た国家である。
 その天皇。ーー今とて一天万乗の君と仰がれて九重に宮居し給うお方が、御謀反とは、たれへたいしての御謀反なのか。ーーしいて解せば、御自身が御自身へむかってする御謀反か?それ以外に謀反の相手は世にないはずの大君ではあるまいか。(53~54頁)

 <日本>という国の、非常に面白い点を指摘した部分である。本来、謀反とは、権力の中枢である主体に対して敵対的行為を取るものを意味している言葉であろう。では、当時の国家行政の主体であるはずの天皇が、謀反を起こすとはどのようなことなのだろうか。私たちは、日本史を学ぶ上で、鎌倉幕府に対して後醍醐天皇が謀反を企てて、倒幕した後に建武の親政を執り行った、と習う。しかし、天皇が謀反を起こすということは字義的におかしくないだろうか。この一見して矛盾に見える状態に、日本史における権力構造の不思議さが見出される。つまり、天皇とは三種の神器を中心にした権力の象徴であり、その周囲で影響力を発揮している者が実質的に権力者と見做されるのではなかろうか。したがって、後醍醐天皇は、象徴であるとともに実体としての権力を握ろうとした日本史上で希有な存在だったのである。

 象徴であるとともに実体でもある後醍醐天皇の有するエネルギーが莫大であるために、その周囲への人物への影響は計り知れないものがある。まずは、公家でありながら事変への中心的メンバーとなった日野俊基について。

 「ーーとはいえ、時は五月だ。若いみどりは萌え止まぬわ。俊基一人亡しとて、天下の夏が後ろ向きするものか。残る方々よ。いよよ強く世に生き給えや!」(301頁)

 宮中であるにもかかわらず、六波羅探題から派遣された幕吏に捕縛される際に、最後に宮中に隠れている人々に発した言葉である。あまりに激烈であり、武士ではなく公家の身としてこうした言葉が出てきたことに驚く。それと同時に、後醍醐天皇の近習への影響力の強さが、日野俊基の言葉に凝縮されているようにも思える。

 次に取りあげたいのは楠木正成である。明治期以降には、大楠公として称揚されたあの正成である。

 「あったら事だな。理も非もない日だ。ーー自体、理も非もない日に役立つ究理などは、学問とはいえぬものぞ。……そうならぬ和をお互いに支え合い、世の福祉を計り、とまれ妻子のなかで、無事一生をとげるのを以て、わしは学問としておるが」(206頁)

 軍学を学問と見做して軍学に励む弟・正季に対して述べた言である。後醍醐天皇が挙兵に至る前の発言であり、なにをもって学問とみなし、なにをもって善政とみなしていたかが分かるような言葉である。こうした政治観を持っている楠木正成をも、後醍醐天皇の持つエネルギーが戦乱の渦へと巻き込むことになるのだから、その強靭さが想起できるだろう。

 最後に、戦陣の火ぶたが切って落とされた際の著者の描写が印象的であるため、引用して終わりにしたい。

 大自然は、そ知らぬ顔だ。
 秋深む移りのほかは、雲の行きかい、山の姿、きのうも教も、変りはない。
 だが人間はついに、われからその棲み家を業の窯として、自分も他人も、煮え立つ釜中の豆としてしまった。(415頁)

 如何なる戦争であろうとも、それは人間の業が為すものにすぎない。

2014年9月29日月曜日

【第346回】『私本太平記(一)』(吉川英治、講談社、1990年)

 山本七平さんの本を読んでから、太平記を改めて読もうと思っていた。小学生の頃に読んで以来であると記憶しており、内容があやふやだったからである。しかし、読み始めた頃から既視感をおぼえていたのであるが、百頁ほど過ぎたあたりから、違和感が確信に変った。この本は読んだことがある、と。記憶とは不思議なもので、読んだことがないと記憶していたにも関わらず、読んでいくと細かなエピソードに馴染みがあることに気づく。それらが繋がって行くと、読んだ感覚を思い出せるのだから不思議である。読んだとしたら、大学院に通っていた頃であろう。数年前に読んだ本を、偶然とはいえ、読み直すというのは興味深い。意図せざる再読というものもまた一興だ。

 小説を読む時は、人物描写に着目して読むようにしている。簡潔にして、明瞭にイメージできるように人物を描くのは、小説家の腕の見せ所であろう。まずは、主人公の一人である後醍醐天皇について。

 わけて、常人の印象となるであろう点は、笛の孔に無心な指の律動を筬のように弾ませていらっしゃるそのお手のなんとも大きなことだった。貴人にして力士のようなお手である。把握欲と闘志の象徴とでもいえるものか。なみならぬ天賦の御気質のほどがそれには窺われる。(31~32頁)

 顔ではなく、手に焦点を当てているところがさすがである。手の様子を描写されることで、後醍醐天皇の人となりにイメージを持てるのだから、面白い。次に、もう一人の主人公である足利尊氏の描写について。

 その眼もとには、人をひき込まずにいない何かがあった。魔魅の眸にもみえるし、慈悲心の深い人ならではの物にもみえる。どっちとも、ふと判別のつきかねる理由は、ほかの部分の、いかつい容貌のせいかもしれない。(9頁)

 太平洋戦争の時期においては、天皇を賞讃せんがために逆賊として蔑まれるように扱われた足利尊氏。本作では、そうした歴史観に基づくものではなく、著者が中立的な立ち位置で、その不思議な魅力を表現するように努めている様が見えてくるようだ。

 では一体、何をそんな重荷に感じているのかといえば、いうまでもなく、かの“祖父家時の置文”にほかならなかった。
 その置文は、あの朝、密かに焼きすてて、内容だけを、自分一人の胸に秘封してしまったのだ。その日から、高氏という人間はどこか違ってきている。又太郎高氏の再生が始まっていたと過言ではない。(201頁)

 尊氏に天下を意識させたと言われる祖父の置文。それを読んだから大志を抱いたのか、そうした大志を本質的に持っていたためにそれによって顕在化したのか。私には、前者ではなく後者であったように思えるが、いかがであろうか。

 人なき折、解いてみると、書物の間には、国元の直義から右馬介あてに来た書簡二通と、また、彼自身の詫び状が挿んであった。
 「……おお、弟直義も、いつかわしの胸を知っていたのか。右馬介といい、直義といい、そこまで、わしに同意だったか」
 読みつつ、彼はまた涙を新たにした。そして、涙にぬれた左の手頚をふと見入った。
 彼の手頚には、この五月以前にはなかった痣ができていた。それは鎌倉中の人々に嗤われた日の記念だった。執権高時の愛犬“犬神”に咬まれた黒い歯型の痣なのである。(274~275頁)

 自分以外には置文の内容を秘していた尊氏であるが、最も近しい存在たちがその胸中を知悉しながらそれをおくびにも出さないことを知って感動を覚える様子が印象的である。さらに、そうした感動の心持ちの中で、現在の権力者への恨みを思い出させる傷をもってリマインドさせる好対照さが読んでいて心地よい。