2017年1月4日水曜日

【第663回】『仕事漂流 就職氷河期世代の「働き方」(2回目)』(稲泉連、プレジデント社、2010年)

 日常的には世代論に与さない、もしくは与したくないと思っている。しかし、キャリアについて考えたり、自分自身のありようについて考えようとするときに、就職氷河期世代の人々の考え方というものに触れてみたくなることがある。

 人によって、環境によって、そのキャリア観が異なるのは当然だ。だからこそ多様な社会、多様な組織というものが形成される。しかし、それでも、共感できる何かが存在するということが、同じ世代というものなのではないかと思うのである。

 世の中全体、日本の経済全体が膨らんでいたときは、働く個人が現状維持でも総体としては自分も一緒に膨らんでいたけれど、僕らは(就職氷河期にしろリーマン・ショック後の不況にせよ)縮小すらしかねない時代をずっと生きてきた。時代が『右肩下がり』だというのであれば、現状維持という考え方では時代と一緒に落ちていってしまう。(174頁)

 変化していかなければならないという切迫感を持つのは当然だと思ってしまう。こうした感覚を当たり前のように持つのは、就職氷河期世代の特徴だそうだ。物心がついた頃から不景気で、世の中が良くなっていくという感覚をリアルに感じたことがないのだから、後ろ向きに動いていく社会に抗う必要性があると強く思う。だからこそ、成長や成長実感を私たちは求めるのであろう。

 時間をいかに短縮するか、という感覚がいつもある。同じ会社に留まっていれば五年先に必ずできることが分かっている仕事でも、いますぐできるチャンスが別の会社にあれば、迷わずに転職を選ぶ。時間を飛び越えていく感じです。会社ありきの自分のキャリアパスなのか、自分ありきでどこかの会社で働くのか。私の感覚って逆転していると思います。自分がこういうことをやりたいから、それに合う会社を選んでいく(346頁)


 あらゆる環境が、成長実感を与えてくれるわけではない。黙って一つのところの留まっていると、損をすることがある。むしろ、損をすることの方が多いのではないか。こうした疑念をぬぐい去るために、成長できる環境を、私たちは主体的に選ぶ必要がある。


2017年1月3日火曜日

【第662回】『ドラッカーと論語(2回目)』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)

 マーケティングとはセールスを不要にするための行為であると喝破したのがドラッカーの論のハイライトの一つである。顧客を理解することはマーケティングの重要な要素に含まれることは間違いない。しかし、顧客の視点に立とうとして質的・量的な市場調査に安易に委ねることは、ドラッカーの本意と異なるのではないかと著者は警鐘を鳴らす。

 「お客様目線」といった考え方は、自らの身体の及ぶところではない他人の感覚に自分を迎合させることになる。それは、自分の感覚を他人に譲り渡し、「己」を見失うことである。すると、己を知るという過程は消滅してしまう。(kindle ver. No. 1017)

 ドラッカーも孔子も「己を知る」ということこそが、すべての始まりだと述べている。他人にどんなことをして欲しいのかとたずねているようでは、決して「己を知る」ことはできないのである。(kindle ver. No. 1026)

 お客様の視点に立つ前に、自分自身を知るということが重要だとしているのである。もっと言えば、引用箇所の前の部分で、周囲や社会における自分自身をどのように位置付けるかが大事であるとしている部分に注目するべきであろう。

 そうした企業の事例として、ユニ・チャーム社がインドネシアで日本製のオムツを如何にしてマーケットに浸透させたケースをぜひお読みいただきたい。安易な市場調査などは不要であるばかりか時に害を為すものであり、ステイクホルダーの中で相対的に自社の製品の強みを見出すことの重要性を理解できるだろう。


 これは必ずしも企業をはじめとした組織に顕著なものではなく、私たち個人にも当てはまるのではないか。自分自身の視点から強みを見つけようとするばかりではなく、他者・組織・社会といった具合に一歩か二歩ほど引いた視点に立ってみて、自分自身の強みを定義し位置付けることが重要なのである。そうした意味での社会的かつ主観的な強みに自覚的にフォーカスすることが、自分自身と共に周囲の人々をゆたかにすることにつながるのではないだろうか。


2017年1月2日月曜日

【第661回】『自分の仕事をつくる』(西村佳哲、晶文社、2003年)

 働くということ、キャリアをすすめること、生きるということ。これらと密接に関連する仕事というものを考える上で、私にとって本書における考察は一つの重要な拠り所となる。

 仕事は自分をつくり、自分を社会の中に位置づける、欠かせないメディアである。(126頁)

 日本人のみならず、外国人も含めて何人もにインタビューを行った結果として、著者が導き出した仕事観が端的に現れている。主体的に取り組むことによって仕事が自分自身を創り出すのであって、その反対ではない。そうした主体性の結果として社会における自分自身の価値が見出されることで社会性を持つことができる。そうしたものを媒介するものとして職業としての仕事が位置付けられる。

 思いっきり単純化すると、「いい仕事」とは嘘のない仕事を指すのかもしれない。(173頁)

 こうした主体性に伴う社会性を持った仕事という概念であればこそ、いい仕事というものは、自分に対しても、相手に対しても、社会に対しても嘘をつかない行為を指すのであろう。自戒を込めて傾聴したい部分である。

 ではこのような仕事観に基づいて私たちははじめの一歩をどのように踏み出せるのか。難しく頭で考えるのではなく、動きながら、様々な感覚を持ってそこから得られるフィードバックを基にデザインしていくことを著者は重要視している。それを端的に表すのが、以下のインタビュイーの言葉である。


 大切なのは、本当の問題を発見していく能力です。表面的に目につく問題点は、より根本的な問題が引き起こしている現象のひとつにすぎないことが多い。では、問題に深くアプローチしていく方法とはなんでしょうか。それは、机の上で頭を捻って問題を予測することではない。早い段階から、可能な限り具体的にテストし、トライ&エラーを重ねていくこと。これに尽きます。(80頁)


2017年1月1日日曜日

【第660回】『日本文化私観』(坂口安吾、青空文庫、1943年)

 著者の文章は、ウィットとアイロニーに富んでいる。以前はその独特なアイロニーがしつこいように感じ敬遠しがちであったが、最近では、ところどころの絶妙なウィットが楽しくて無性に読みたくなることがある。

 美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。(kindle ver No.451)

 日本における文化とは何か。意図的に美しさを狙ったものは、美しくはないと著者はする。その上で、必要なものを、必要に迫られて作ったり書いたりすることによって、美的な何かが生み出される。


 私たち日本人が労働において美を感じたり、すぐに文化という文脈で組織風土を捉えようとすることは、こうした美に対する感覚が現れているのではないか。シンプルな文章をもとに、こうした飛躍的解釈を試みることもまた、面白い。


2016年12月31日土曜日

【第659回】『ハゲタカⅡ(下)』(真山仁、講談社、2007年)

 小説も映画も基本的にはハッピーエンドが好きである。ハラハラとしながらも、最後に鷲津が勝ちを収める展開は、私にとって心地よいものであった。

 「サムライというのは、死に場所を探すために生きることだと多くの人たちは勘違いしている。本当のサムライは、いつどこで死んでも悔いのないよう、どう生きるかを常に考えているのだ。それを政彦は言葉ではなく生き様として見せてくれるんだ。日光で二人で散歩していた時にそう語ってくれたアランの言葉が忘れられない。だが、今の君は何だね。まるで死に場所を探し求めてさまよう亡霊のようじゃないか。サムライ魂はどこかに置き忘れてきたのかね」(388~389頁)

 日本人論として武士を用いることはあまり好きではない。社会学でよく言われるように、江戸時代における武士階級の人口は、全人口の数%に過ぎず、そうした階層が<日本人>を代表するという論には無理があるからだ。


 しかし、そうした文脈とは離れた中において、ここでの発言には心に訴えかける何かがある。何のために生きるのか。死んでしまった近しい存在に対する償いとは何か。企業買収やマネーゲームといった泥々とした世界の中で、時代の寵児として持て囃されるが決して聖人君子ではない鷲津の生き様に魅せられた。

2016年12月25日日曜日

【第658回】『ハゲタカⅡ(上)』(真山仁、講談社、2007年)

 学生時代に読んだ「アカギ」の影響で、鷲津という名前から無条件で悪役の印象を持ってしまう。だからこそ、本シリーズの主人公・鷲津にもそうしたネガティヴなイメージがあった。

 しかし、前作の下巻あたりからその印象が私の中で崩れ始め、本作ではさらにそのイメージが変わってきている。正義と悪といった安易な二項対立を日常的には戒めているのに、物語の中にはそうしたものを求めてしまうのだが、それが覆されるというのも面白いものだ。

 鷲津にはこの国は「絶望の大陸」にしか見えない。長い歴史の中で熟成された御上に盲従する社会、事なかれ主義を尊ぶ為政者、そして何が起きているのかを見ようともせず、日々の暮らしに享楽する人々……。(61頁)

 痛烈な日本の描写でありながら、首肯せざるを得ない一面もあるのではないかと思わせられる。しかし、その後で、著者は、鷲津の思いとしてそれをすぐに覆させる描写を持ってきている。

 この街の風景も一年前と全く変わっていない。だが変わっていないのは、どうやら見かけだけのようだ。俺の知らないところで、この国はどんどん変化している。目に見えない変化ほど怖いものはない。(148頁)


 ずっと中にいると変化には気づかない。しかし、外に出て時系列を一旦置いてみることで変化に気づくことが可能となる。一見して変化が見えないにも関わらず、その内実が変わっているということほど、怖いものはないだろう。


2016年12月24日土曜日

【第657回】『ハゲタカ(下)』(真山仁、講談社、2006年)

 金融業界の買収劇。金銭だけが問われるドライな世界であるかのように思えるが、本作で描かれるドラマは、良くも悪くも人の匂いに溢れている。

 続巻がありながらも、一旦クライマックスを迎える本書の最後のシーンは、美しい。

 渡り廊下の向こうに見える海に、静かに夕陽が沈んでいった。
 そして再び闇が広がろうとしていた。
 夕陽は、明日の希望ではなく、絶望という闇の始まりに過ぎない。
 ここは、絶望の大陸。そんな、歌があったな。
 絶望、結構じゃないか。

 それが、俺達の餌になるんだから……。(417~418頁)