2017年8月18日金曜日

【第742回】『高慢と偏見(下)』(ジェーン・オースティン、富田彬訳、岩波 書店、1994年)

 海外の小説というものに苦手意識を持っていたが、本作は面白かった。訳文独特の言い回しを読んでいると少し居心地の悪さを感じる部分もある。一人の人物を愛称で呼んだり、ファーストネームで呼んだり、属性で読んだりと、慣れない身には混乱させやすい箇所もある。それでも話の展開には惹きつけられる何かがあったと思う。

 ずっと相容れなそうに思える人物同士が惹かれ合い、問題なくくっつきそうな人物たちが悲劇的に別れても最後にはくっつく。ベタといえばベタなのだが、面白く読めてしまうのだから不思議だ。

 話の展開だけを楽しんでいると、それだけで終わってしまう。すんなりと読めることは、小説のひとつの素晴らしさだとは思うが、味気なく感じることもある。ただ、本書の場合は、同時期に並行して「100分de名著」で解説を見ながら読めたので、素人としては全く気付かない視点を学びながら読み進めることができるという僥倖があった。

 すべては、あなたのおかげなんです!あなたはわたしに、最初のうちは実につらいが、とてもためになる教訓を教えてくれました。わたしはあなたに高慢の鼻を折られたが、これは当り前のことです。わたしは、かならずうけいれてもらえるものと思って、あなたに近づきました。ところが、あなたは、わたしという男は、取りいるだけの価値のある婦人に取りいる資格のない男だということを、教えてくれました(244~245頁)


 わかるようでわからない。複雑にして難解な文章であるが、その発話の主体である人物の人となりから、なんとなく類推ができ、そこから何か感じ取れるものがあるから不思議である。西洋文学と呼ばれるものを読むのも、日本の小説とはまた異なる趣があり、いいものだと思った。


2017年8月17日木曜日

【第741回】『高慢と偏見(上)』(ジェーン・オースティン、富田彬訳、岩波書店、1994年)

 NHKの「100分de名著」で2017年7月の作品として取り上げられている本作。同番組の第一回目の冒頭で、司会の伊集院光さんが「恋愛小説は苦手でほとんど読まない」という趣旨の発言をされていて共感を覚えた。あまり関心を持たずに番組を見ていたところ、解説を聞きながら興味を持ち始めた。私が理解する限りでは、単に恋愛自体を扱っている小説ではなく、身分や家族といった外的環境から、人間関係や信頼といった人間の内面を丹念に描写されている。

 舞台となっているハーフォードシャーは、現在では高級住宅街であり、サッカーの元イングランド代表のデビッド・ベッカム等も住んでいるそうだ。しかし、18世紀頃と思われる本作の舞台としては、のどかな地域として描かれており、穏やかで慎ましい情景描写も心地よく読める。

 「高慢は、」と考察の堅固なことを得意にしているメアリが言った、「誰にもある弱点だと思うわ。これまでわたしの読んだすべての本によって考えても、それは万人共通的のものだと思うのよ。人間の性質は、とかく高慢に傾きやすいんだわ。そして実際にせよ、想像だけにせよ、何かしら自分の特質に自己満足を感じない人は、ほとんどいないと思うわ。虚栄と高慢は、よく同じ意味につかわれる言葉だけど、まるで別なんだわ。虚栄がなくても、高慢な人もあるんだから。高慢は、自分自身をよく思うことだし、虚栄は、人によく思われたいってことなんだわ」(35頁)

 本作のタイトルにもなっている高慢について、「誰にもある弱点」となっている点が面白い。これを否定することはなかなか難しいのではないか。自分自身に満足したいという性向は決して悪いものではない。自身をよく思いたい気持ちは自己肯定感につながる。しかし、それが行き過ぎると、他者からもよく思われたいという虚栄心へと繋がってしまうのだから気をつけたいものである。

 「何よりずるいのは、」ダーシーが言った、「謙遜らしく見せかけることだ。それはしばしば意見に無頓着なこと、また時には間接に自慢することにすぎないからね」(80頁)

 この箇所にはぐさりと来た。謙虚であること、謙遜することは美徳であると、特に日本社会においては受け取られがちだ。しかし、そうした行為の背景に、間接的に何かを自慢しようとしていること、つまり虚栄心が含まれていることは多いのではないか。虚栄心を糊塗するために、謙遜や謙虚を前面に押し出そうとしていないか、自覚的になりたいと思った。

 恋をしたって、これほどみじめなめくらにはならなかったであろう。けれども、わたしのお馬鹿だったのは恋のためではなくて、虚栄心のためだったんだわ。一人に好かれて喜び、もう一人に無視されて腹をたて、そもそもおつきあいのはじめから、二人に関係したことでは、自分から先入見と無知を求めて理性をおいだしていたんだわ。今の今まで、わたしは自分というものを知らなかったのだ(328頁)

 ここでも虚栄心が描かれている。虚栄心とは、他者の目線を気にしすぎることであり、したがって自分自身を省みないことに繋がるのだろう。自分自身を知らずに行動することは、意識しているはずの他者に対して理不尽なことをする結果を招いたり、さらには自分自身をも傷つけることになってしまう。



2017年8月16日水曜日

【第740回】『「働く居場所」の作り方(2回目)』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)

 仕事でしんどいなぁと思うことが続き、読みたい書籍が届くまでに少しだけ時間がある微妙な時期だったために、そういえばと本書を読み直した。今回で通読するのは実に五回目であり、論語に次ぐ多さである。

 学術上の師が書いた書籍でも、さすがにもう新しい気づきはあまりないかと考えていたが、甘かった。しっかりと、気づきを得られる部分が随所にあり、また「こんなこと書いてあったのか」と驚かされる箇所も散見され、むしろ自分のこれまでの学びの不十分さを痛感させられた。

 満足が自分の安定化を促し、それを守ろうとするところから、安住、そしてぶら下がりが始まります。キャリア作りにおける保守化・安定化現象です。(中略)
 組織や職務の満足が本当に個人の成長につながるでしょうか。むしろ個人が成長するのは、厳しい現場に向き合った時です。それこそ、個人個人が、自己の成長に本気になり、当事者意識をもって真剣になるのではないでしょうか。(56頁)

 この箇所を読んだ時は、恥じ入る思いであった。「しんどいこと=悪いこと」ではないのである。このように考えれば、現状に満足していることが必ずしも良いことではないことは間違いないだろう。私たちは心地よく働きたいと思いがちだ。しかし、その心地よさが現状への満足からくるものかどうかをチェックする必要があるだろう。

 反対に、しんどいという心情がどこから来るかを考える必要もある。いわゆる「ブラック企業」のように、自分で何もできない外的な事象でかつ完全にコントロールできる要因がない中で生じるしんどさであれば、そこから避けようとすることは正しいだろう。しかし、冒頭の私のように、職務上のチャレンジの高さや、それに伴う他者からの厳しいフィードバックによってしんどいと感じるのであれば、それは避けるべきものではない。そのしんどさと向き合い、それを乗り越えようと、目的を意識して工夫を凝らしながら取り組むことで成長実感を自分で創り出すことができるかもしれない。

 不安に対しての私の提案は二つ。一つは不安や不安の原因、そのインパクトなどに関心を向け、内省を始めてしまうより、むしろ、基礎的な各年代の、一般的な基準を自分なりにクリアすることへの努力をしっかりと行い、それにエネルギーを割くこと。そしてある一定のレベルに達したと思ったら、自分としてこうしたいという対応をしてみることです。そしてその結果どのような変化が自分や自分の周囲に生まれたかを考えてみることが大切だと思います。
 もう一つは不安を受け入れるということです。不安は不安、それは抱えていかざるを得ないという考えを出発点とするのです。不安をもつのは当たり前。でもだからこそ、自分で楽しむ一歩を踏み出してみるという発想です。(183~184頁)


 何れのアプローチも、不安を取り消すべき問題として対処しようとしないという点が興味深い。不安を抱くことは心地よいことではなく、だからこそ取り消すべき問題として捉えてしまう。しかし、不安は軽々になくなるものではなく、解消しない問題を抱えてままでは気分がいつまでも優れない。だからこそ、不安は所与のものとして置いておき、他の対象に目を向けるという著者の助言に目を傾けた方が良いのではないだろうか。


2017年8月15日火曜日

【第739回】『人工知能の核心』(羽生善治・NHKスペシャル取材班、NHK出版、2017年)

 NHKスペシャルで著者が人工知能を取材していた番組は興味深かったのであるが、必ずしも内容を理解しきれなかった。当時はまだ人工知能というものを書籍でも読んだことがなかったので咀嚼できなかったのだと思う。図書館で本書を偶然に見つけて、復習も兼ねて、著者が人工知能という存在をどのように捉えて、どのように共存しようとしているかを学ぼうと考えた。

 私は、これまで将棋の本で折に触れて、無駄な情報を扱うことを減らす「引き算」の思考にこそ人間の頭脳の使い方の特徴があると書いてきました。ディープラーニングに、こういう「引き算」の要素が入っていることは、とても面白く思います。(25頁)

 情報を膨大に蓄積することで能力を高めていくコンピュターに対して、将棋の棋士として大事なことの一つとして無駄な情報を減らすという引き算が重要であると著者は述べる。こうした人間の持つ強みの部分を、ディープラーニングは機能として持っているというから驚く。著者特有の軽妙な言い回しで表現されるために、これが恐怖としてよりも、ディープラーニングを行うコンピュータに共感を覚えながら読めてしまうから面白い。

 認識エラーが発生したという結果から遡って、つまり信号が逆方向に流れて、問題のありそうなところの「重みづけ」を自動的に変更する、というようなことを繰り返せば、認識の精度は向上するはず。これが「誤差逆伝播法」と言われる手法で、ディープラーニングは、この手法に工夫を加えて出来ているアルゴリズムだ。(57頁)

 「引き算」をディープラーニングがどのように行うのかを、取材班が解説した箇所である。最初に引用した箇所とセットで読むことで、著者が述べたかったことをより理解できる。

 そのときに大事なのは、実は「こうすればうまくいく」ではなくて、「これをやったらうまくいかない」を、いかにたくさん知っているかです。取捨選択の「捨てる方」を見極める目こそが、経験で磨かれていくのです。(210頁)

 引き算をできるようになるためには、経験によって磨き、経験を活かすことである。成功体験が後で自身に復讐するという考え方がある中で、この部分は納得しやすいのではないか。失敗から謙虚に学ぶことは、失敗を繰り返さないようにすることとともに、長期的な成功へと活かすことができるのかもしれない。

 人工知能は、データなしに学習できない存在だということです。とすれば、データが存在しない、未知の領域に挑戦していくことは、人間にとっても人工知能にとっても、大きな意味を持つと考えています。(215~216頁)

 いい捨て方を学ぶことによって、未知の領域に挑戦し、すぐに失敗してもすぐに修正して立て直す対応力が磨かれる。変化に激しい時代と言われて久しい現代社会において、こうしたマインドセットが求められているのである。

 

2017年8月14日月曜日

【第738回】『人工知能はいかにして強くなるのか?』(小野田博一、講談社、2017年)

 人工知能という存在を初歩の初歩から学ぶ上で、概念の定義を丁寧に行い、様々なボードゲームにおける適用の例をふんだんに示して解説を試みている。今さら聞くに聞けないことを学べる、初心者にとってありがたい一冊である。

 機械学習とは、素データ(集めたままの状態で、何も加工していないデータ)の背後にある何らかの規則をコンピューターが拾い上げることです。(27頁)

 著者が何度も本書で述べていることは、「学習」という言葉が使われていても、人間が行う「学習」と人工知能が行う「学習」とは異なる、という点である。ここでは機械学習について述べられており、コンピュータが規則を拾い上げるという特徴が挙げられている。

 換言すれば、データ化されていないものをコンピュータは学べないのであり、どのようにデータ化するかが今後私たちが行うべきものとなるのであろう。例えば、人事の領域で言えば採用はAIが担える可能性が高いと言われている。適用するとしても、採用活動の全てを置き換えるのではなく、どのようにデータを用意し、それをどのように活用するかが鍵となる。少なくとも黎明期においては、私たちがそれを判断しサポートする必要があるのではないか。

 深層学習(deep learning、deep machine learning)は、英語の後者の呼び名でわかるように、機械学習の一部で、ニューラル・ネットワーク(neural network)を使った分析計算とほぼ同義と言っていいでしょう。ニューラル・ネットワークとは、多層パーセプトロン(multilayer perceptron)のことです。パーセプトロンとは、ミンスキー(Mrvin Minsky)の説明によれば、「一群の機械」で「多数の部分的な観測結果を加え合わせることによって判別ーー入力事象が、あるパターンに合致するかどうかの判断ーーをするもの」です。(61頁)

 アルファ碁で広く人口に膾炙した深層学習の定義である。同時並行的にある現象を観測してその結果を統合的に判断することが深層学習であり、ある事象を人間が深掘りするという行為とは異なることが理解できるだろう。言葉の持つイメージ、また翻訳された言葉によって感じる印象があることは致し方ないが、原義における定義を押さえることが、新しい現象を理解する上で必要な態度である。

 人間同士の対局では、とんでもないポカがあって、そこで形勢が逆転することが多々あるので、人間同士の対局だけでデータを解析すると、「一方が優勢な局面(α)でポカをして結局負けた対局」では、αを負けの局面として解析用資料としてしまうことになりますーーそのような解析をしないように工夫されていないならば、ですが。それで、結果予測の解析に正しくないデータが多々加わっていることになるので、人間同士の対局だけの解析では、結果予測がいくぶん正確さに欠けるものとなります。それで、AlphaGo同士の対局を行なって、ポカなし対局データを多量に加えることで結果予測をより正確にしたのです。(215頁)


 最初に引用した機械学習の概念からすると、機械は、良くも悪くも全てから学んでそこから規則を生み出す。したがって、失敗や誤解をそのまま受け取ってしまう。だからこそ、補正が必要であり、その補正の手段として、機械同士のミスのない対局によって学び合うというのだから、空恐ろしい感じもする。


2017年8月13日日曜日

【第737回】『仏教、本当の教え』(植木雅俊、中央公論新社、2011年)

 仏教の起源は現在のインドであるが、それが中国を経て日本へと伝来する過程で、その受容の有り様は変わってきている。第一に大きいのは言語であろう。仏教伝来時の直接の送り手は中国であり、インドではない。したがって、サンスクリット語から直接日本の言葉に置き換えて理解したのではなく、中国の言語を介して私たちは仏教を理解したのである。

 そこで仏教を理解しようとするのであればインドにおける元々のテクストから学ぶ必要があることを著者は述べている。たとえば初期の大乗仏教における代表的な書籍の一つである『中論』をもとに自己と他者との関係性を以下のように解釈している。

 「真の自己」に目覚めることは、利己的になるということではない。「真の自己」に目覚めることは、他者の「真の自己」に目覚めることでもある。それは、あらゆるものとの関係性の中で存在しているという縁起の関係としての自己に目覚めることでもあるのだ。ここに他者への慈しみという行為が成立するのである。(50~51頁)

 他者との慈しみという行為の前提として、自身と他者との縁起という関係性を気づくことが必要であり、そのためには自分自身という有り様に気づくことが必要となる。したがって、自分自身を意識することは利己的なものではなく、自身が有する多様な可能性や他者との潜在的な関係性のゆたかさに気づくことの萌芽となる。このように捉えると、自分自身と他者とを二項対立的に捉えるのではなく、全体としての関係性というより広い存在に意識を向けることが可能になるのではないだろうか。

 こうした起源における仏教が日本に輸入されると、強調するポイントが異なってくる。それは中国における受容からさらに変化をして受容されていると捉えるべきであろう。

 日本に来ると、さらに「現実即実在」が強調された。例えば道元(一二〇〇~五三)の場合は、この「諸法は実相」に加えて、「実相は諸法」と言い出した。論理学では、「人間は動物である」という命題がよく用いられる。人間はたくさんいる動物の中の一部分だという意味である。これに「動物は人間である」を付け加えると、「動物=人間」ということになる。同様に、この「実相は諸法」を追加することによって、「諸法=実相」となり、完全に「現実肯定論」に成ってしまった。それが悪くなると、例えば、だらしない人がいて、だらしないという現象自体が、すでに「実相」なのだとされたり、いい加減なことをやっていて、これが実相なんだとされたりすることも起こり得る。人間は煩悩の塊だ、それが実相なのだから、それでいいではないかということになりかねない。そういうことで「煩悩肯定論」になりやすい。あくせく努力しなくたって、修行しなくたって、ありのままでいいじゃないかということになってしまい、「修行否定論」も出てきてしまう。そういったところから戒律無視も出てくることになったりする。(193~194頁)

 親鸞の悪人正機説を学校で学ぶと、こうした身勝手な解釈が出てくる場面に出くわすことがあるのではないか。不善を為しても救われる可能性があるのであれば、善を為すことに積極的な意味を見出すことが難しくなることも理解できる。現実に重きをなして捉えてしまうとこのような誤解をしてしまうため、実相とともに諸法を捉えることが大事であると著者は以下のように述べる。

 われわれのものの見方は、諸法と実相のどちらか一方に偏りがちである。現実をよく見なさいというので現実ばっかり見ていると、現実はコロコロ変わるから、空転して落ち込んだりする。やはり普遍性を見なければいけないというので今度は普遍性ばかりを見ていると、抽象論になったり観念論になったりしてしまう。中諦というのはその両方を合わせ持ち、いずれにも偏しないという見方である。あらゆるものは実体がなく、仮のものでいつまでも存続するものではないというものの見方と、現実というものを見据えていく見方、この両方を踏まえなければいけないというのである。(210頁)

 抽象化と具象化の往還関係は、研究と実践との相互適用させようとする営為という文脈で理解してきた。しかし、これはどのような場面でも求められるものなのであろう。私たちは、どちらか得意な方に傾きがちであり、特に日本においては実相に重きが置かれがちである。たとえが古いが、「事件は現場で起きている」という言葉に溜飲を下げる私たちの感情には、実相に重きを置く価値観がかいま見えるのではないだろうか。そうであるとしたら、諸法に目を向けようとする努力が私たちにより必要なのかもしれない。

 諸法と実相とが融合した良い例の一つとして、日本文化における俳句の世界が指摘され、松尾芭蕉が例として挙げられている。納得的に理解できるものであったので、やや長いが最後に引用したい。

 古池や蛙飛び込む水のをと
 という句がある。俳句に関しては、ど素人である筆者の勝手な思い込みかもしれないが、自分なりに解釈してみると、ここには「古池」、「蛙」、「水の音」という「現象」が羅列されている。「私」が「ここ」にいて、「古池」が向こうにあって、「蛙」がいる。その「蛙」がボチャンと「水の音」を立てて池に飛び込んだ。すると、その水面に波紋が生じて同心円を描いて広がっていく。さらには、そのポチャンという音が向こうからこっちへ伝わってきて、それが「私」を通りすぎて宇宙大に広がっていくーーというようなイメージを筆者は抱く。単に「古池」と「蛙」と「水の音」を羅列したことによって、「私」が「今」、「ここ」にいて、宇宙の中に存在しているというような宇宙の広がりを筆者は感じる。これは「諸法」を通して「実相」というものを表現しようとした結果ではないかと筆者には思えるのだが、いかがであろうか。(213~214頁)



2017年8月12日土曜日

【第736回】『日本仏教入門』(末木文美士、KADOKAWA、2014年)

 本書で興味深かったのは、仏教が日本に伝わった後にどのように位置付けられたのか、に関する考察である。元々の伝来がどのようなもので、どのように定着することになったのか。既存の宗教との受け容れられ方の相違はどうだったのか。

 仏教が伝来する以前に日本に何らかの宗教的な活動があったことは確実であるが、それがどのようなものであったかを確実に知ることのできる資料はない。仏教以前の宗教は体系的に表現されることはなかった。もっとも古い文献である『古事記』や『日本書紀』は既に仏教や中国思想の影響下にある。日本の神祇崇拝は、仏教の影響下に、仏教を意識しながら自覚され、体系化されたのである。(133頁)

 歴史教科書の影響からか、私たちは土着の宗教として神道があったと考えてしまうが、著者に言わせればそうした捉え方は必ずしも正しくないようだ。神道という形式で現代において捉えられる宗教形態はまだできておらず、そうした状態の中で仏教といういわば進んだ文化が伝えられたと考えられるのである。

 仏教以前から何らかの土着の日本宗教の伝統があり、それが仏教と結びついて神仏習合を生じたというのは、必ずしも適切でない。むしろ、やや極端な言い方をすれば、仏教と関係を持つことではじめて日本の神が自覚的に捉えられるようになったのである。この点が、インドや中国と大きく異なる点であり、仏教が伝来してから、次第に日本の神祇崇拝が自覚的に行われるようになり、また体系化されるようになった。(133~134頁)

 仏教という存在が輸入されたことで、翻って神道という存在が宗教として確立されることになった。そもそも宗教という概念自体が曖昧であるのだから、相互依存的に成り立たしめるという関係性にならざるをえないのかもしれない。日本においては、それが神道と仏教という二つによって成立したことが、日本における宗教の始まりなのであろう。

 日本の仏教と神道は対立することもあるが、今日に至るまで両者は並存している。中国の道教と仏教も同じように並存しているが、日本の場合、中国と違うのは、神道と仏教が役割を分担しているところである。すなわち、誕生したばかりの子供を連れて神社に参ったり、子供の健全な発育を願う七五三の行事、さらには結婚式など、生に関する行事は神道が担当し、葬儀や死後の法要のように、死に関する行事は仏教が担当している。このように、相互の分業による補完関係が認められる。これを私は「神仏補完」と呼んでいる。日本の宗教を解明するためには、この神仏補完関係をよく知ることが重要である。(139頁)


 異文化としての仏教が日本に伝来し、それによって神道が確立されることになり、二つの宗教が並立することになった経緯から、両者が私たちの日常の生活に浸透することになった。来日した外国の方々、つまりは特定の確立した宗教を礎に行動する方々からすると異常に見える私たちの正常は、こうして出来上がったのである。