2011年4月24日日曜日

【第22回】Luck is no accident 2nd edition(John D. Krumboltz, Impact Publishers, 2010)

In career theories, there are two types. One is static approach, and the other is dynamic one. Each of them has own merits. At every our career stages, it is important for us to judge which is better to use.

When we face serious transitions or career change, static approach fits to us. Static approach helps us to reflect our career process. After we reflect our past of career and life, we can clear our core values. And also we can find out our strong points in our work career.

But the environment of our work place is not static, and the changing speed is getting faster and faster now. Based on the changing environment, the important skills of our work are also changing.

Then, what should we do ?

When we want to see our future career, the dynamic approach is useful. This book is written about it. Using the planned happenstance approach, we have the chance to stretch our hidden value. Through doing it, we may create the inner environment.

And continuing to challenge leas us to the life long learning. When we want to challenge in our work, we have to learn a lot of things. On the other hand, learning wider knowledge leads us to deepen our work. In this book, there are many hints to use by ourselves.

Of course it is important for employees to think about their own career and life. But, it is also important for employers to care the career of their employees.

Though some kind of career workshop is important, but posting is one of the important factors of career development. The company which does care the timing of posting may consider employees as important capitals.

2011年4月17日日曜日

【第21回】『プレップ労働法【第3版】』(森戸英幸著、弘文堂、2011年)

INAXメンテナンス事件の最高裁判例が出されたときに本書を読んでいた、というのは偶然の一致である。しかし、その偶然の一致によって、労働者とはなにかということを強く意識しながら本書を読むこととなった。

労働法とは、事業主や管理者と労働者との関係性を扱う法律であり、より一般化すれば私人間の法的問題を取り扱うものである。私人間の法的問題を扱うおおもとの法律は民法であるのだから、民法と労働法との関係性について述べることで筆者は本書を書き進めている。

では民法に対する労働法の意義はなにか。端的に記せば、職場に適しづらい民法の考え方をケアするのが労働法である。筆者によれば、民法の考え方の大前提である契約当事者の平等をそのまま職場に適用してしまうと、労働者と使用者とは対等な立場にあるということになってしまう。すなわち、自由に契約を解除できるという民法の法理をそのまま適用すると、使用者は労働者を自由に解雇することができることとなってしまう。こうした民法による契約当事者の平等性を企業における労働の実態に近づけるかたちで法律化したものが労働法なのである。

労働者の使用者に対する劣位な状況を改善するための枠組みの一つとして、労使協定がある。労使協定の成立要件に過半数組合または過半数代表者の同意を要件としていることは、労働者と使用者とが一対一で自由に契約を結ぶことの潜在的な不利性を緩和しようとしていることであろう。労働者が複数集まることで使用者との対等な関係を築くことが労基法の基本的な考え方なのである。

こうした文脈で捉えるとINAXメンテナンス事件の最高裁判例に考えさせられることは多い。

本事件は、高裁判例が出された時点で後述するものをはじめとしたいわゆる「判例集」に取り挙げられるほど注目されていたものである(判例集に載るもののほとんどは最高裁判例である)。争点は、個人事業主が労組法上の労働者として認定されるか否か、ということであった。

地裁、高裁に続き、数日前の最高裁においても、労働状況を実態的に判断することで、個人事業主であっても労組法上の労働者として認定されるという判決が出された。特定の企業に雇われない存在である個人事業主に労働者性が認められることは、これまで企業内に閉じられていた労働法の守備範囲が企業外にまで広がったと言えるだろう。

この具体的なインパクトの一つとして本書を読んで類推したものが、労働協約の拡張適用に関するものである。労組法17条によれば、「一の工場事業場」に常時使用される「同種の労働者」の4分の3以上がある1つの労働協約の適用を受けることになった場合には、その工場事業場に使用される他の同種の労働者、つまり非組合員に関しても、その協約が適用される。この条文の効果の一つとして、著者は拡張適用が職場の労働条件の統一化に繋がることを指摘している。

したがって、労組法上の労働者として認定される個人事業主は、同種の労働者に近い労働条件を認められるようになるのではないか、というのが初学者である私なりの類推である。このように考えるため、今回の判例の影響の大きさを感じ取るのである。

他方で、INAXメンテナンス事件の判例を手放しで称揚するわけにもいかないようだ。明治大の野川教授は『労働判例インデックス【第2版】』において、同事件の高裁の判旨における個人事業主を労働者として認定する判断枠組みの硬直性を指摘している。つまり、実態判断の判断枠組みを今後の判例で積み上げていく、ということが裁判所や学者に求められることになるのであろう。

そうした労働法の解釈と現場のビジネスへの適用に対して、一人の人事実務者として意識を強く持つことは言うまでもない。個人事業主のような自由で柔軟性の高い新しい働き方をいたずらに制約するような判例や法解釈に対しては、実務者として声を上げていく必要があるだろう。実態判断の解釈の難しさにより、個人事業主の労働者性をめぐる裁判が多くなることが予想されるため、引き続き注視していきたい。

<参考文献>
野川忍『労働判例インデックス【第2版】』商事法務、2010年



2011年4月10日日曜日

【第20回】『歴史とは何か』(E.H.カー著、岩波書店、1962年)

歴史の書物を読む際には、書物に書かれている「事実」ではなく、それを書いた歴史家に関心を持つべきである。

著者の簡潔にして明瞭なこの指摘はもっともである。歴史の書物を含めて、文章を書くという行為は、多様で膨大な事実のほとんど全ての部分を捨象し、換言すれば、ほんの一部の事実を抽象化して述べることに過ぎない。

続けて著者は、膨大な事実の入力と、それに続く抽象と捨象、その結果として文章を出力する、という一連の流れにより、書き手自身が見出したものの意味や重要性を俯瞰することができると言う。つまり、読むことと書くことの相互作用であり、アウトプットを意識した上でのインプットの重要性がここで示唆されているとも読めよう。これは、組織行動論の大家であるカール・E・ワイクが用いる「わたしがなにを言いたいかは、言ってみないとわからない」という話にも通ずる指摘であると言える。インプットがアウトプットを規定するとともに、アウトプットがインプットを規定するのである。

こうした歴史家と事実との相互作用の不断の過程として歴史は成り立つ。さらに著者は、歴史哲学という学問は科学が為すような一般化を射程範囲に捉えると主張している。つまり歴史は、多様な解答を単純化することで、混沌とする事実の諸連関に秩序と統一とを導き入れるのである。

ここで私たちは一般化の持つ可能性と危険性について想起する必要があるだろう。過去の混沌とした事実に対して意味性を見出して現代社会への適用可能性を導出するというのが歴史の持つ可能性である。他方、恣意的に過度な一般化を行なうことで自身の主張を扇動するポピュリスト的な歴史家の言説には注意を喚起する必要がある。

国家という主体が提唱する歴史も同様である。ベネディクト・アンダーソンが指摘するように、国家が「正しい」とする「歴史」を「国民」が読むことで「想像された共同体」が生まれる様は、歴史の危険性の一部と捉えて構わないだろう。ナショナリズムは、内部の同一性を高めるとともに、外部への排他性をも高める作用をもたらすからである。

このように、一般化の危険性を勘案した上で可能性に焦点を当てることで歴史の持つ意義を享受できる。では、歴史家と歴史の相互作用はどこに向かうのであろうか。その捉え方は、西洋文化圏に属する著者と、非・西洋文化圏にいる人々とで異なるように思える。

まず著者は、私たちを取り巻く環境に対する理解力と支配力を増すことに歴史の意義を見出している。環境適応を行ない続けるために、間断なく歴史を描き続け、超長期的に目指すべき一つのあるべき歴史像を実現する、という発想である。これは、著者も指摘しているように、キリスト教における絶対者の代替物として歴史および歴史哲学というものを位置づけているのである。歴史をいわばイデアのように捉えるこの感覚が、非西洋文化圏に属する私には、分かるようで分からない。

この「分かるようで分からない」感覚は、以前のエントリーで扱った野内さんの『偶然を生きる思想』がよく解説してくれている。端的に二項対立的に改めて述べれば、「日本人は歴史を川の流れのように循環するものと捉える」のに対して、「西洋では、歴史を構築物的な持続性のあるものと捉える」(http://bit.ly/hObxPA)。歴史に対するこの感覚の相違が著者の上記の主張への違和感となっているのであろう。

違和感について否定的に捉えるむきもあるかもしれないが、私はむしろそこに積極的な意味合いを見出しており、違和を感じることに大きな可能性を感じている。違和感とは、自分たちのものの見え方を相対的に理解する契機になるからだ。

歴史に対する考え方、またその西洋とそれ以外の文化圏の違和感について触れられる本書を読む経験は、著者と読者との建設的な相互作用をもたらす良い機会となるのではないだろうか。

<参考文献>
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』書籍工房早山、2007年
野内良三『「偶然」から読み解く日本文化 日本の論理・西洋の論理』大修館書店、2010年





2011年4月3日日曜日

【第19回】『ザッポス伝説』(トニー・シェイ著、ダイヤモンド社、2010年)

偉大なリーダーが世の中にはいるものだ。

ザッポスCEOのトニー・シェイが自ら著した本書には、バリューや経営戦略の真髄が至るところに現れている。実務家の生の声がこれほど経営学のフォーマル・セオリーに結びついている書籍はあまりない。コア・バリューと経営戦略との整合性がザッポスの強みであるが、そのバリューを成り立たせているのはザッポスに至るまでの著者の半生にあるのではないか。

著者は幼少の頃から儲けることが好きで事業を立ち上げていたと述懐している。ハーバードを卒業した後に創業した企業の売却によって巨万の富を得ることで、生まれてから追い続けてきた「儲ける」という目標を十二分に達成したわけである。

しかし、目標達成の直後に違和感をおぼえ、立ち止まり、深く内省する。著者は「幸せを感じた時のリスト」を作成し、そうして列挙されたリストにお金が伴っていないことに気づく。そして、優れた組織を創り上げることに焦点を当て始める。

優れた組織を創り上げる背景には、組織論と戦略論とが関連する。「組織は戦略に従う」と喝破したのはチャンドラーであり、反対に、「戦略は組織に従う」としたのはアンゾフである。つまりは組織論と戦略論とは相補関係にある。著者がザッポスにおいて成功した理由も、その二つにあることが本書では示唆されている。

まず組織論について。著者は良い企業文化を築き上げることが組織として利益を上げるための源泉であると述べている。そして、企業文化を創造するために、コア・バリューを全社員とのコミュニケーションを通じて設定したというのだから驚きである。対話を通じた理念浸透という文脈においてはリクルート社のデンソーにおける取り組みを髣髴とさせる。

そして、全社員が自分のものとして共有するコア・バリューをもとにして求められる人材像を定義している。著者自身も参考にしたと述べているが、『ビジョナリー・カンパニー②飛躍の法則』で言うところの「だれをバスに乗せるか」という話である。つまり、適切な人材に入社してもらう、ということである。採用および入社後の教育へのカスケーディングも見事であり、自社にとってなにが大事なのか、という視点が徹底して追求されている。

次に戦略論の視点で述べれば、各戦略アイテムの間における整合性が取れており、美しさすら感じる。一橋大学の楠木建さんの言葉を借りれば、ザッポスの経営戦略は一つの美しいストーリーとして織り成されているとも言えるだろう。

具体例を挙げよう。ザッポスではコール・センターを自社で持つだけでなく、それを自社のビジネスの根幹を為すものとして位置づけている。それだけではない。多くの企業ではコール・センターで働くオペレーターの通話の効率性を重んじ、いかに短時間で、いかにアップ・セルを掛けられるかを業績指標に設定しているのに対して、著者はそうした方法を明確に否定している。問い合わせの電話を顧客の真のニーズを探る最適な機会と捉えているため、マニュアル原稿は設けず、対応時間を意図的に気にしないしくみを整えているのである。つまり、ザッポスにおいてコール・センターはアフター・セールスとしての機能だけではなく、マーケティングや物流としての機能をも担っているのである。

もちろん、ザッポスでうまく機能しているからといっても、どの会社でも同じようにコール・センターを運営すれば良いわけではない。楠木さんが書いているように、自社のビジネス領域と戦略との適合性を考えずに他社の戦略をベンチマークと称して猿真似することは「自殺」行為なのである。あくまで起点となるのは自社の理念、戦略、そしてあるべき組織像である。

このように環境変化に合わせて戦略と組織との整合性を取り続けていることがザッポスの強みであると考える。その強みは著者だけに拠るものでないことはもちろんである。しかし、成功のための大きな一石を投じたのは著者にあり、そこに彼のリーダーシップを見出せる。

リーダーシップ教育を行なうNPOの代表を務める野田智義さんは、神戸大学の金井壽宏さんとの対談の中で「リーダーを目指してリーダーになった人はいない」と言う。ザッポスに至るまでの著者にも人を束ねるという記述は見られず、いかに自身が儲けるかという自分視点の述懐ばかりである。

しかし、そうした過去の内省を踏まえてザッポスにおいてはバリューを大事にし、顧客や社会への貢献に取り組んだ。そうすることで社員もまた熱狂的に働くようになった。これは同じ想いを組織全体で共有している状態であり、いわばリーダーとフォロワーとの相互依存関係であると言えるだろう。野田さんの言葉で言えば「リーダーシップの共振現象」が起きていると指摘できる。

本書は読み物として面白いばかりでなく、組織論、戦略論、そしてリーダーシップを考える優れた教材であると言えるだろう。

<参考文献>
リクルート HCソリューショングループ『感じるマネジメント』英治出版、2007年
ジェームズ・C・コリンズ『ビジョナリーカンパニー②飛躍の法則』日経BP社、2001年
楠木建『ストーリーとしての競争戦略』東洋経済新報社、2010年
野田智義・金井壽宏『リーダーシップの旅』光文社、2007年









2011年3月27日日曜日

【第18回】『反哲学入門』(木田元著、新潮社、2010年)

哲学とは西洋に独特な思考方法であり、なにも普遍的な思考の枠組みではない。したがって、日本人をはじめとした非・西洋文化圏の人たちが哲学的な思考様式に馴染めないことは当たり前である。

著者が第一章で指摘する上記のような主張に触れて、目から鱗が何枚も落ちるような思いであった。哲学というものに大学受験の頃から好んでかじってきたが、本書を読んで、自身が曲解していた部分やそもそも理解できていない部分が多いことに改めて気づかされた。著者は日本に西洋流の哲学がなかったことを積極的に捉えた上で、ニーチェを祖とする反哲学というアプローチの可能性を述べている。

では反哲学とはなにか。「反」というからには、哲学とはなにかについても合わせて述べねばならないだろう。

著者は、哲学とは超自然的思考でありソクラテス/プラトンからヘーゲルまでの潮流であるとしている。それに対して、反哲学とは自然的思考でありソクラテス/プラトンより前の時代とニーチェ以降の潮流である、とする。

前者は自然と人間とを対立的に捉え、自然を超克すべき対象としているのに対して、後者は人間を自然の一部として包摂されたものとして捉えている。そうした捉え方は日本人のアプローチと近いと言えるだろう。実際に著者は、松尾芭蕉が自然を「造化」と呼び、人間は「造化にしたがひ、造化にかへる」としている部分を引用し、その近似性について指摘している。しっくりとくる例証であると言えるだろう。

では、ソクラテス/プラトン以降の西洋哲学が思想的に全く同じかというと、そういうわけではない。要約すればその流れは三つに大別され、それぞれの思想とキリスト教との関連性を捉えると違いが明瞭になる。

一つめはプラトンおよびその思想を引き継いだアウグスティヌスである。プラトンのイデア論を背景に厳格な政教分離を目指したのがアウグスティヌスであり、彼は「神の国」と「地の国」とを峻別することを説いている。その峻別は、政治と宗教だけではなく、信仰と知識、精神と肉体とを分けるアプローチにも繋がっていると言えるだろう。

それに対して、政教を結びつけることを正当化したのがプラトンの弟子であるアリストテレスと、その思想を継承したトマス・アクィナスである。アリストテレスがプラトンのイデア論を批判したように、教会をイデアとして捉えるのではなく、世俗の諸権力とを連続的に捉えようとしたのである。したがって、彼らの思想を背景として教会による国家への介入は正当化されることとなった。

その結果として、15世紀以降に世俗権力との過度な結びつきにより堕落したキリスト教を改革する、と主張したのがルターやカルヴァンである。彼らの思想の背景にはプラトンやアウグスティヌスの哲学が流れていることは自明であろう。つまり、プロテスタンティズムにはプラトンやアウグスティヌスの思想が背骨になっていると考えることは邪推ではないだろう。

このように、キリスト教史を紐解くと、プラトンとアウグスティヌス、アリストテレスとトマス、という二つの潮流による覇権争いが行なわれていると解釈できる。

こうした二つの潮流はいずれも神による視点であり、もっと人間の視点を重視することが大事ではないか、としたのがデカルトである。なにが存在しなにが存在しないかを決定する役割を「人間理性」が果たすとしたのである。これを端的に示したのが彼の有名な「私は考える、ゆえに私は存在する」である。デカルトをもって西洋近代精神の誕生とみなすことが多いのは、自然超克の思想が強固になったことを意味するのではないだろうか。

と、ここで考えねばならないのが、先週のブログで取り上げたサンデルである。サンデルはコミュニタリアニズムの萌芽をアリストテレスに求めており、これは超自然的思考と形容される系譜にあるのは間違いない。他方で、サンデルの主張は非西洋圏での親和性が高いことを考えると、自然を超克するという発想が強いようには思えない。私たちがサンデルを読む際には、彼が自然をどのように捉えているのかについて仔細に見る必要があるだろうが、私の解釈では、彼の政治哲学は反哲学の系譜に位置づけられるのではないだろうか。

先々週から今回まで、三週に渡って哲学に関する書籍を取り上げてきた。来週は気分を新たにしてビジネス書を取り上げる予定である。おそらくは、『ザッポス伝説』を扱うことになるだろう。

2011年3月21日月曜日

【第17回】『サンデルの政治哲学』(小林正弥著、平凡社、2010年)

昨年テレビで放映されて一大ムーブメントとも言える人気を博した「ハーバード 白熱教室」。毎週ビデオに録画をし、たのしみに観ていた。かじったことのある哲学者の名前や考え方が取り上げられているのは刺激的であり、サンデルの問いかけやファシリテーションは実務上の参考となった。

それにもかかわらず、正直に白状すると、ビデオを観ているといつの間にか転寝してしまうことがよくあった。テーマに興味があるのに、集中が持続しない。生来の「ながら族」が故に、他の行動を取りながら番組を観るという姿勢が宜しくなかった、という側面もあるだろう。しかし、集中が続かなかった理由はそれだけではなかった、ということが本書を読んでよく分かった。

集中が持続しなかったもう一つの理由。それはケースメソッドの前提にあった。ケースメソッド形式の授業の場合、ケースとともに参考文献が指定されることが通例である。したがって、あの番組で議論しているハーバードの学生たちは、サンデルの哲学や授業で扱われる哲学者の考え方を予習した上で議論している。つまり、私の集中が続かなかったもう一つの理由は前提知識の欠落にあったと思える。結論的に言えば、あの番組の議論の深みを味わうためには、視聴者も前提知識を持った上で、かつ議論に参加するような真剣さで鑑賞することが求められていたのではないか。

本書は書名の通り、サンデルの政治哲学を解説した本である。大胆に要約してしまえば、リバタリアニズムとリベラリズムを批判的に捉えた上で、コミュニタリアニズムの思想的な可能性を示唆する、という内容である。それぞれの流派を対比的に論じているために、論旨が明快であり分かり易い。そして、こうしたサンデルの哲学の背景を踏まえた上で、前掲番組の書籍版とも言える『これからの「正義」の話をしよう』(以下『正義』と略記)を読んでみた。すると一つひとつの話題の深みを理解でき、一気に読み終えてしまった。前提知識がない状態で悪戦苦闘しながら番組を見ていたときとは好対照である。そこで、『正義』を未読の方には本書をセットで読むことを強くお勧めしたい。

むろん、こうした前提条件を満たしただけで本書および『正義』を一気に読み終えたわけではないだろう。それは必要条件であって、十分条件ではない。その大きな理由は、私がかつてはまった哲学者であるベンサムとロールズを批判的に論じられているからである。ベンサムの功利主義はリバタリアニズムへと継承される考え方であり、ロールズはリベラリズムの代表的論者である。好きな人物を批判されて興味深いというのもおかしいのかもしれないが、これらの人物は哲学者である。哲学者は批判されてこそ価値があると思うし、そうされることで読者は俯瞰的に哲学の体系を理解することができる。だからこそ、好きな哲学者や著者ほど批判されてほしいと考えるのである。

コミュニタリアニズムについて本格的に触れるのは今回がはじめてであるが、偶然にもリバタリアニズムやリベラリズムの思想的限界を真剣に考えたことがある。今から12年前、母校の受験会場で小論文の試験に取り組んだときである。設問は、大きい政府と小さい政府に関する文章を読んだ上で、どちらかの立場に立って他方を批判的に論じよ、というものであった。本書に関連して記せば、大きい政府の思想的な背景にはリベラリズムがあり、小さい政府の背景にはリバタリアニズムがある、と言えるだろう。

18歳の私は、リベラリズム的な考え方の利点を主張し、リバタリアニズムの問題点を指摘した上で小さい政府を批判した。そこですんなりと終えればよかったのであるが、二項対立的な書き方で果たして良いのか、と疑問に思ったのである。なぜなら、リベラリズムにも限界があり、他方でリバタリアニズムにそれを補完する可能性があるのではないか、と考えたからである。さんざん迷った私は、二割弱の分量を割いて、「そもそも問いを二項対立的にしているのが誤りであり、小さい政府にもこれこれのメリットがあるので全面的に批判するのは問題」という趣旨のことを書いた。

この時点でコミュニタリアニズムという具体的な方向性は見えていなかったのだが、その萌芽を感受した原体験であったのではないか、と今になって思えるのである。つまり、リベラリズムとリバタリアニズムでは解決できないなにかがあり、それをどう解消しようかと悩んだのである。このように考えると、今回の読書体験はあのときの「宿題」に取り組む良い機会であったと意味づけられて感慨深い。

私が本書を面白く読んだ理由は上記の通りであるが、なぜ今サンデルが流行っているのか。それは極端な考え方が蔓延しがちな状況の中で、判断力を高めることの必要性を多くの人が感じ取っているからではなかろうか。というのも、サンデルは『正義』の中で自身の哲学の正しさを主張するのではなく、対話の大事さを主張している。異なる立場の人同士が持論を主張しあうだけでは『バカの壁』の状態に陥るだけである。そうした状況を止揚するために、サンデル的な対話および正義を考える思考的枠組みが求められているのではないだろうか。

その前提には自己の中での多様性も大事である。つまり、必ずしもサンデルだけが正しいのではない。あるときはサンデル的な考え方をし、違うときにはベンサムやロールズの考え方を使えるといった具合に、自身の頭の中に引き出しを用意し、それを適切なときに開けるための準備をしておくことが大事なのではないだろうか。

<参考文献>
マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』早川書房、2010年
養老孟司『バカの壁』新潮社、2003年





2011年3月13日日曜日

【第16回】『国家とはなにか』(萱野稔人著、以文社、2005年)

まず、この場を借りて、今回の地震に被災し、今も苦しんでいらっしゃるみなさまに心からお見舞い申し上げます。

こうした事態に対して私にできることはなにか、と思案した結果、お金を寄付することがベストなのではないかと考えている。寄付という行為に関する最も古い記憶は阪神淡路大震災のときである。当時、中学三年生であったのであるが、クラスメート全員で寄付金を集め送らせてもらったことが原風景としてある。こうした昔の記憶や現在の行為を鑑みると、外国で起きた天災事変に対してよりも、<日本国>内で起きたものに対してより積極的に寄付を行なってしまう心情は否定しがたい。このように考えると、<日本国>という国家、また<日本人>としての私という存在を改めて意識するのである。

本書は暴力の集中化が国家を形成するという考え方を取っている。やや長くなるが、まずは暴力という誤解を招き易い言葉について解説する。暴力という言葉を見ると「暴力装置」発言で大臣を辞めた方を多くの方が想起されるのであろうが、私自身はあの事件に関する報道を憂慮する者である。たしかに、「暴力装置」という誤解を招き易い言葉を、大臣という立場にある人物が使ったことは誤りであったと思う。数週間前に論じた鯖田さんの著書にもあるように、<日本人>は戦争を想起するものに対して心理的に抵抗感を抱きやすいからである。

しかし、ウェーバーを持ち出すまでもなく、「暴力装置」という言葉自体は価値中立的な言葉であり、いわば「右」とも「左」とも関連しないものである。ウェーバーの著書を理解しているはずであるマスメディアの記者たちが、その背景を捨象して「暴力装置」発言のみを取り上げることは、大臣を攻撃するためのものにすぎない。そうした姿勢のみがマスメディアを席巻してしまうという事態は、言論の多様性を著しく否定するマスメディアの自壊的行為とも言えるのではないだろうか。このような文脈で私はあの事件の一連の報道を憂慮しているのである。

暴力とは、実際に行使するのではなく潜在的に行使できる可能性の領域に留まっている限り、相手の行為領域を規定できる、と本書は主張する。暴力の行使そのものは、相手に痛みや怪我といった身体的状態を引き起こすだけであり、相手に意図して行動を取ってもらうことにはつながらないからである。こうした潜在的な暴力の行使可能性を権力と呼ぶ。国家は、否定的な行動への罰としての暴力発動によって権力を実践し、また権力を示威することで暴力の蓄積を行なう、という権力と暴力の相乗的な関係性を用いて成立している、と言えるだろう。

こうした暴力の集中化による国家の形成は、近代国家のはじまりの時期と符合する。言い換えれば、それ以前の国家は、国王どうし、商人どうし、農業従事者どうし、といった国家を超えた職能団体のつながりが強いネットワーク的な多元的国家であり、○○人であるという同胞意識は強くなかったのである。そうした状況で国家を統一させていたものは宗教的な権威であり、近代国家の形成は、宗教的な権威から政治的な権威が自律した結果であると言えるだろう。

では国家を形成する思想的なバックボーンが宗教でなくなった後に、なにがそれに代替したのか。その代替物が「われわれの歴史」という歴史意識である。つまり、その国家の領土内に存在した各時代の政府が担ってきた政治や経済、そこで暮らす人々の生活や伝統を意図的に編纂したものを、国民の歴史として見做すのである。こうして、国家に属する人々の意識の統一化を試みたわけである。

また、国家に存する権力関係の脱人格化という現象も見逃せない。つまり、近代国家では特定の人物に権力が集中するのではなく、特定の機能に権力が集中する形式になっている。こうした匿名の権力化が暴力の組織化を抽象化する。抽象化された権力は、機能を介在してそれを担う人物に関与するため、その人物の意識を希釈化する。つまり、自分の意思決定が最終的な暴力行使に至るまでに無機質なプロセスを経るために、その判断は強化され易いのである。こうした現象もまた、意識の統一化を強化することに繋がるといえるだろう。

上述したことは国家側からの意識の統一化あるが、他方で国民の側から意識の統一化を行なうものがナショナリズムの作用である。なぜ暴力の蓄積形態である国家に対して国民がナショナリズムを希求するのか。それは、国家の暴力はその領土内に住む国民のために行使される、という意識を国民が保有しているからである。

こうしたナショナリズムは類似性に基づく同胞意識の形成にも繋がる。ここにおける類似とは作為的なものである。本書によれば、<われわれ>と<外国人>との間には客観的な差異が予め存在するわけではなく、<われわれ>の同一性が構成される方法こそが、誰が<外国人>でありどのような差異が<われわれ>と<外国人>とを隔てているのかを決定するとしている。つまり、<われわれ>の歴史意識とナショナリズムとは相互に強化し合う密接な関係性を有していると言えるだろう。

では、こうした想像された歴史意識というようなアンダーソンが述べるような国家=フィクション論によって国家と想像されたものとを切り分ければよいのか。本書はそうした考え方を取らない。国家を純然たるイデオロギー装置と捉えることは、暴力の蓄積と権力の正当化という実態的なものを見失うことに繋がるからである。しかし、はたしてその通りなのか。このあたりの議論は、『想像の共同体』やアンダーソンの近著を参考にしながら、近日中に考えてみたい。

本書では国家のメカニズムについて哲学的に論じられていたわけであるが、何が正しいのかといういわば正義に関するものについては触れられていない。そこで次回は、国家単位に囚われず政治哲学の領域から正義について考えたい。取り上げるのは去年流行したマイケル=サンデルさんの著書である。

<参考文献>

鯖田豊之『世界の歴史(9)ヨーロッパ中世』河出書房新社、1989年
鯖田豊之『日本人の戦争観はなぜ「特異」なのか』主婦の友社、2005年
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』書籍工房早山、2007年
梅森直之編『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』光文社、2007年










『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫・萱野稔人著、集英社、2010年)