2012年8月12日日曜日

【第97回】『ダンゴムシに心はあるのか 新しい心の科学』(森山徹、PHP研究所、2011年)


 認知科学や生物学といった分野を専門とする著者が、ダンゴムシを通じて心的事象を明らかにする研究成果を、新書レベルの簡潔明瞭さにまとめあげたのが本書である。科学的に研究を行うとはどういうことか、を学ぶ上で本書は格好の材料であろう。私自身は社会科学の分野における研究を行ってきたが、本書を読み、自然科学の分野における研究も「科学」という点では基本的に変わらないと感じた。先行論文を論理的に位置づけ、その穴を埋めるような新機軸での問いを立て、実験を積み重ね、知見を客観的に論証し、実践的なインプリケーションを提示する、というアプローチは修士以降の研究に共通するのだろう。修士課程に進むかどうかを検討している学部生や社会人の方は、本書を読んでみて科学的アプローチへの自身の志向性を試してみることは有用かもしれない。

 著者の研究における主たる問いは、題名にもあるように「ダンゴムシに心はあるのか」である。心の動きをどのように外的な事象として捉えるかは細かな問いを積み重ねている本書をお読みいただくとして、端的に「未知の状況」における「予想外の行動の発現」を「心の働きの現前」であると結論づけている。訳が分からない状況、俗にいえば「キャパを超える」ような状況の中で、突如として涙が出たり、大笑いしてしまったり、といった現象を著者は「心の働きの現前」と捉えているのである。

 ではダンゴムシにとっての「未知の状況」における「予想外の行動の発現」とはなにか。著者はさらに細かな問いを設定しながら状況を特定していき、追いつめられたダンゴムシが壁を登る行動を導き出す。ここで重要な点は、なにが既知の状況で未知の状況かを見極めるためには、日常的に対象への注意を持続することが求められる、ということであろう。たとえば、私がダンゴムシを何匹か数分観察したとしても、当たり前の行動が分からないだろう。したがって、私にはダンゴムシが壁を登るという行動の非日常性が分からない。新しい知見を得るためには、毎日同じ観察をし続けるという「待ちの苦しみ」があり、結果が出るか分からない中でのいわば絶望的な忍耐が必要なのである。

 こうした「予想外の行動の発現」が通常は顕在化しないということは、日常的な行動として適切ではない、ということである。これをダーウィニズムでは自然による不適合行動の切り捨てとして、自然淘汰と表現する。しかし、著者は実験結果からのインプリケーションとして、「予想外の行動の発現」とは「適応的でない行動の温存」であり、「潜在させておく」という「柔らかい側面」が生物にはあるのではないか、としている。心というものを考える場合には、著者のこうした「柔らかい」考え方も重要なのではないだろうか。

 こうして得られた知見を著者は本書によって「さらして」いるのであるが、その前の段階として学会で「さらして」いる。著者は様々な分野の人の前で「さらす」ことの重要性を指摘している。実際、著者が本書の研究をベルギーでの国際会議で発表したそうであるが、その出席者のバックグラウンドは多様であり、発表後に著者へ熱心に質問してきたのは哲学者であったそうだ。その哲学者とのやり取りを繰り返す中で、自身の研究を相対化し、またそれ以降の研究の方針も明らかになったという。得られた知見について分野を超えてオープンにしていくこと。字義的には簡単なことに思えるが、実践するとなると難しい。しかし、そうしたチャレンジを繰り返すことが研究者に求められるマインドなのだろう。

2012年8月11日土曜日

【第96回】『生涯発達の中のカウンセリングⅢ 個人と組織が成長するカウンセリング』(岡田昌毅・小玉正博編、サイエンス社、2012年)


 キャリアのカウンセリングというと、知識と技能を持った専門家が社会人や働く意欲を持つ方々に対して行う、ということをイメージする方も多いだろう。しかし、本書を読んで改めて思いを強くしたのは、そうした専門家はあくまでキャリアカウンセラーの一部にすぎないということである。企業の中における人事部員はもとより、部下を持つ人、メンティーを持つメンター、後輩に慕われている先輩、といった様々な主体もまたキャリアカウンセラーである。多様な人々がそれぞれの視点からフィードバックを与えられることにより、社員個人はキャリア上の気づきを得られるのである。

 では、キャリアカウンセラーに求められる資質とは何か。著者は端的に「「常識ある社会的に成熟した人」をめざすという、キャリア支援者自身の生き方そのもの」が問われていると指摘している。思わずハッとさせられる指摘であり、心に常に留めておくべき指摘であろう。先ほど、他者からのフィードバックが気づきを与える、と記した。気づきにはポジティヴなものとともにネガティヴなものもあることを忘れてはいけない。すなわち、フィードバックを与える側の「生き方そのもの」が問われるということは、心ない一言が社員を退出させるリスクをも内包するのである。

 このように考えると、社会人としての経験が浅くフィードバックを受容しきれない新入社員や若手社員に対して企業としてどのように支援するか、という点が重要であろう。ある組織に入って組織の一員として自他ともに認められるまでの過程を組織社会化といい、予備的社会化、現実との直面、適応という三つのステップを踏むと言われる。新入社員の場合には、入社する前の段階における就職活動、人事や先輩社員との交流、親とのやり取りから形成される入社する企業への期待が予備的社会化に当たる。この段階においては、RJP(Realistic Job Preview)などにより企業が内定者に対してありのままの自然体を示すことが必要となる。

 入社後には現実との直面が否応なく待ち受ける。予備的社会化の段階で抱いていたイメージと入社後のイメージには多かれ少なかれギャップがあるのは当然であり、その結果として抱く感情をリアリティ・ショックという。リアリティ・ショックはとかく否定的に捉えられがちであるが、入社後における自己理解や適性を自覚させる契機につながるというポジティヴな側面があることが論文で示唆されている点は興味深い。ただし、適度なリアリティ・ショックは問題ないが、それが大きすぎることが問題であることは想像に難くない。組織コミットメントと上司への信頼感がリアリティ・ショックを軽減するという先行研究は職場での実感と整合的であり、意識しすぎることはないだろう。

 三つめの段階である適応については、先行研究によれば要求される役割の認識、業務の熟達度、職場への適応、の三点で測ることができる。ここで大事な点は、この三つの指標について新入社員が自身でチェックすることができないということである。すなわち、新入社員の側に立てば、自分の目で自身が適応できているかどうかが分からず、不安を覚えがちであるということである。したがって、新入社員や若手社員に関わる人々は、こうした三つの観点を念頭に踏まえた上で彼(女)らに気づきを与える質問を心がけることが重要であろう。上司の自慢話や過去の成功体験を聞かされることが、彼(女)らにこうした三点を気づいてもらうことに寄与しないことは自明であり、十分に留意するべきである。

 このように配属後における上司との関係性が重要であることは間違いない。しかし、上司の多くがプレイングマネジャーであり、またスパン・オブ・コントロールが大きくなる一方の多くの企業においては新入社員をケアする時間が充分でない。そこで新入社員にメンターをつけることがここ十年ほどで定着してきているが、機能している企業はそれほど多くないのではないだろうか。本書を解釈すれば、その問題の本質は、メンターとメンティーを設定した後は人事が彼(女)らを放置してしまうことにあるように思える。

 ではどうするか。第一に、メンターとメンティーとはお互いに学び合う関係であるという点をとりわけメンターに事前によく理解してもらうことである。メンター自身にとって成長・発達の場であるという点を腑に落としておかないと、メンタリングを継続することへのモティベーションに悪い影響を与えかねない。「忙しくてメンターの面倒を見る時間がない」というのはそうしたモティベーション低下の為せる結果であろう。事前に人事が説明会や研修を行うことで、メンターに心構えと最低限のカウンセリングスキルを身につけてもらうことが必要不可欠であろう。

 第二に、メンティーにも事前にメンターとのコミュニケーションについて説明や研修を行っておく必要がある。この観点を企業では見落とし易い。メンティーである新入社員からすれば、上司や先輩やいつでも忙しく思え、メンターに対しても時間を取ってもらうことを躊躇してしまうものである。俗にいわれるホウレンソウをはじめとした職場コミュニケーションの心構えと、新入社員自身が日常的に業務を振り返るフレームワークを伝えておくことが大事であろう。

 第三に、導入後のフォローアップとして、メンターとメンティーそれぞれに対して事例共有会を実施することである。メンタリングがいざ始まれば、良い事例も悪い事例も出てくる。これらを使わない手はない。事例を個人で抱えるのではなく、他者と共有することで良いものは盗み合い、悪いものは原因分析を行うことができる。さらに、失敗したり悩んですることは自分だけではないという気づきを得ることは、メンターおよびメンティーとしての自分に健全な自信を持つことに繋がるだろう。スキルの強化とマインドの涵養が、メンター制度の持続には欠かせない。

 キャリアカウンセリングというと、カウンセリングを行う側に意識がいくが、カウンセリングを受ける側のレディネスをいかに高めるかが必要条件である。先行研究をもとに本書ではキャリア自律を「自己認識と自己の価値観、自らのキャリアを主体的に形成する意識をもとに、環境変化に適応しながら、主体的に行動し、継続的にキャリア開発に取り組んでいること」と定義している。企業におけるあらゆる社員がキャリア自律するために支援をすることが、今後ますます企業には求められるだろう。

 カウンセリングとは関係性の中でお互いに学び合うことである。論語にも「学べば則ち固ならず」(学而第一・八)とある。多様な学びを得つづけることで、自身に固執せず、多様な他者への共感性を育むことができる。むろん、ここでの「他者」とは内なる他者をも含むものであり、それはすなわち、学びつづけることが自身を拓き、内なる可能性を開発しつづけることである。

2012年8月5日日曜日

【第95回】『「日本で最も人材を育成する会社」のテキスト』(酒井穣、光文社、2010年)


 キャリアをチェンジさせるタイミングにおいては回顧と展望が大事である。これはキャリア論の様々な研究者が、それぞれの立場の相違を超えて異口同音に認めている点であると言えるだろう。キャリアをチェンジした今このタイミングで、人材育成および組織開発を担当する者としての私のキャリアを回顧し展望する上で、これほど適した書籍は他にない。

 本書は既に何度も通読している。今回、私のような職責にいる立場の人間にとっては必読書であることを改めて認識した。Amazonの書評には「現場のリアリティ感がない」「他の本のいいとこ取り」「具体的アプローチが足りない」といったネガティヴな評価も散見されるが、他社にとって役立つ事例としての書籍を目指せば、先行研究を行った上で抽象度を高めることはむしろ当前であり誠実な姿勢である。こうしたことを書くレビュアーは、自身の職業人としてのプロフェッショナリティや研究リテラシーの欠如を白状しているだけにすぎないだろう。換言すれば、本書はハウツー本を期待する方々には向かず、自社における人材育成を真剣に考えて日々悩みながら実践を積み重ねる方々に適したテキストと言えよう。

 著者は、人材育成が求められる社会的な背景から、誰を、いつ、どのように、誰が、育成するかという四点について先行研究を交えながらコンパクトにまとめている。

 まず育成の対象者について。CCLの元研究員の主張をもとに、企業における人材は学習能力の観点から三つに分けて考えるべきであると著者は指摘している。すなわち、自らすすんで職務を通じて学ぼうとする積極的学習者、他者から何らかの刺激を受け納得すれば学ぶ消極的学習者、新しいチャレンジをしようとせずに言われたことをこなす学習拒否者、という三つのタイプである。企業の中で多数派を占める消極的学習者に育成の力点を置くことがキーになるという点は間違いないだろうが、積極的学習者を放置しても良いというのはやや言い過ぎであろう。むしろ、積極的学習者どうしが部署を超えて繋がることを支援したり、サクセッション・プランを通して中長期的な育成をはかることが求められるのではないだろうか。

 とはいえ、消極的学習者への支援が人材育成のメインの業務になることに異存はない。ではどのように育成するのか。著者はウルリッチの指摘をもとに四つの象限に基づいた役割ごとのコンピテンシーセットをもとにして育成することを指摘している。コンピテンシーの利用について賛否両論があることは理解しているが、こと育成のためにコンピテンシーを用いることには私は賛成だ。ただ、本書で挙げられているものよりは粒度を細かくして用意する必要があるだろう。なぜなら、コンピテンシーを用いて日々の育成を行うのはあくまで上司であり、自分自身なのである。彼らが日常的に使えるレベルになっていなければ、宝の持ち腐れになってしまう。したがって、制度企画系の人事と人材育成とが協働して、慶應義塾大学の花田教授が主張する「成長のロードマップ」としてのコンピテンシーを提示することが必要なのではないだろうか。

 次に、特に教育に注力すべきタイミングとして著者が教育的瞬間を挙げている点にも賛同する。以前のキャリアにおいては、「内定から入社三年目程度までの新入社員期間」の育成のしくみ構築と実施にフルコミットさせてもらった。また、他国の重要なメンバーと自社との協働を促すための「新しいメンバーで新規プロジェクトが立ち上がるとき」の研修や、自社の中枢を担う「中途入社の入社前から入社後3ヶ月程度の期間」の研修の一部を担えた。こうした教育的瞬間において教育に携われたことは貴重な経験であり、感謝している。現職では、こういった教育的瞬間をとらまえた育成への関与とともに、日常の中でとりわけ消極的学習者がストレッチできるしかけを設けることが企業を成長させると考え、私自身の課題でもあると考えている。

 最後に、誰が教育を担うかという教育の主体についてである。ここでも著者の主張に違和感はなく、とりわけ企業単位を超えたレベルで学び合える環境を設けることは必要であろう。私自身は約60カ国で展開するグローバル企業での組織開発・人材開発を担うため、他国のL&DやOD担当者との健全な競争にフォーカスを当てている。野茂がメジャー、中田がセリエで活躍している姿を見て多感な時期に感動した私にとって、海外と「勝負」できることは本望である。ダルビッシュではないが、日本企業における人材育成への海外からの低評価に対して忸怩たる思いもある。むろん他国のL&DやOD担当者との切磋琢磨がHQやグループ全体にとってポジティヴなものになると確信しているし、将来的には国内外の他社にとっても貢献できる一つのプラクティスになると信じている。

2012年8月4日土曜日

【第94回】『医薬品メーカー勝ち残りの競争戦略』(伊藤邦雄、日本経済新聞出版社、2010年)


 ここ数年の医薬品メーカーのビジネスについて学ぶ上でこれほど適した書籍は他にないかもしれない。とりわけ、私の興味関心に合った部分を中心にまとめてみたい。

 まず医薬品の価格の決定プロセスについて。よく知られているように、医薬品メーカーは日本市場において自由に価格を設定することはできない。薬価はだいたい二年ごとに改定されることになり、「改定」とはすなわち安価になるということを意味する。本書によれば、薬価の下落率に最も大きな影響を与えるものは、医薬品の市場実勢価格であり、換言すれば卸が小売へ販売する納入価格が影響を与える。したがって、納入価格をいかに下げずに薬価との乖離率を小さくするか、がメーカーにとってのポイントとなる。

 しかし、ここで大事な点としては、メーカーは直接的に小売と価格交渉を行うことができない点である。納入価格は、卸と小売とが交渉することで決定されるのである。こうなると、メーカーとしては間接的に納入価格に影響を与えることしかできない。どうするか。卸への販売価格である仕切価格を高く設定するために、納入価格を高くするインセンティヴを卸に与えることが重要となる。つまり、リベートによって仕切価格と納入価格とのいわば売買「差損」をメーカーが補填するということになるのである。

 その結果として、メーカーは卸との関係性を良好に保つことが重要となる。その一つの方法として、メーカーが卸に資本を注入するという手段が出てくる。実際、大手卸の大株主には新薬メーカーの名前がずらりと並んでいる。こうなると、資本関係のないGEメーカーとしては卸を効果的に利用することが難しくなる。そのため、GEメーカーは以前、卸を利用せずに独自の販売網を築くことを行ってきたのである。

 ところがここ十年弱の間に、GEメーカーは卸との関係性は良い方向に変わりつつある。端的に言えば、卸の側にGEメーカーから薬品を購入する誘因ができたからである。それは、多くの病院で経営が悪化しているために、病院から卸への価格プレッシャーが強く、卸が利益を確保するためには少しでも安い薬価で変えるGEメーカーに頼らざるを得なくなっているからと著者はしている。驚くことに、約70%もの病院が赤字に陥っているというから、事態は逼迫している。

 現実的には2003年に政府が導入したDPC(診断群分類別包括評価)という医療費の支払に関する制度がGE普及を後押ししていると言える。これは、診療行為ごとに実際に掛かった費用に応じて診療報酬額を計算していた従来の方式から、診療行為に応じて分類点数をもとに固定額を支払う方式への変更を生じるものであった。したがって、同じような効用の薬品を用いる場合には、薬価の安いGEを用いる方が、病院にとってはメリットがあるという方式であることは自明であろう。実際にDPC対象病院においてはGEの導入が進んでいることが厚労省の2009年のデータからも見て取れる。

 こうした追い風要因がある中で、GEメーカーにとっての死角はないのか。それが病院とともに重要な小売のアクターである薬局である。つまり、多くの薬剤師がGEを積極的に扱いたがらない現実がまだ存在するのである。少し考えれば想像がつくが、患者の健康や疾病に大きな影響を与える薬品を扱う薬剤師にとっては、自身が詳しくないものを扱うことはためらうのである。患者への説明に労するコストや、限られた在庫スペースに新たな品目を置くことに躊躇する薬剤師の心理的な不安は想像にかたくない。

 しかし、そうした不安への解消はMRの営業努力によって軽減することが可能であろう。薬剤師の不安を取り除くまで薬効を説明すること、どのようにストックすれば効率的に在庫を管理できるかの提案、といったことは提案営業であれば当たり前のことである。GE普及に向けての一つの重要なキーはMRの営業力向上、と言えるのではないだろうか。

2012年7月28日土曜日

【第93回】『医薬品クライシス』(佐藤健太郎、新潮社、2010年)


 本書のタイトルをはじめて目にした時は、医療技術の信頼性や副作用の問題といったスキャンダラスなものが扱われているのではないかと思ったが、それは誤解であった。医薬品メーカーの開発部門における勤務経験のある著者の視点から、医薬品の開発プロセスの難しさや業界の持つ特性について述べられた書籍である。医薬品業界に詳しくない私のような読者にとっては、医薬品業界を学ぶ格好の入門書と言えるだろう。

 まず、医薬という言葉について、著者は「病気に関わっているタンパク質に結合し、その働きを調節することで症状を和らげる物資」と定義している。薬を飲んで早く病気を「治す」という言い回しを幼い頃から聞きまた使ってきた薬学に疎い身からすると、医薬が「症状を和らげる」という表現は興味深い。さらに、病気を「退治する」かのように錯覚していた私にとっては、医薬が「病気に関わっているタンパク質に結合」するという部分も新鮮であった。医薬というとどこか私たちの身体に相容れない物質のように思いがちであったが、存外なじみやすいものなのかもしれないと思いを改めた次第である。

 こうした医薬を扱うメーカーの特徴は、プロダクトの値段である薬価が公定価格であるという点にある。換言すれば、自分たちで創った製品の価格を自社で決められないという、およそ他の業界では考えられない特異な状況なのである。さらに、薬価の改定は二年ごとに行われ、そのたびに価格が平均5~7%強制的に下げられる、というのだから製品ごとに営業戦略を立てることは難しいのだろう。

 個別のメーカーから日本の医薬市場へと目を転じれば、高齢者の増加に比例して増大する医療費をいかに削減するかが国家レベルでの最重要課題となっている。先発薬を使うよりもジェネリック医薬品を使う方が医療費の負担が少ないことは自明であるため、日本政府としてジェネリックの普及に力を入れているようである。具体的には2012年度までに普及率を30%にするという目標が立てられているが、日本ジェネリック製薬協会によれば2011年度の普及率は23.3%であり、目標との乖離は小さくない。では、この目標じたいが妥当ではないのか、というとそうでもない。同じく日本ジェネリック製薬協会によれば、諸外国の2009年度における国内のジェネリック医薬品の普及率は、アメリカの72%を筆頭に、カナダ66%、イギリス65%、ドイツ63%、フランス44%、スペイン37%、イタリア36%、と医薬品市場の大きい先進各国と比べて著しく日本の普及率が低い現状であり、普及率30%という目標数値は決して高くない。

 ではなぜ日本ではジェネリック医薬品の普及が遅れているのか。それは直接的な利用者である最終消費者と、薬局で薬を扱う薬剤師、および薬剤を選定する医師に対してその価値を適切に伝えられていないからではないか。風邪や頭痛といった日常的な病気に関しては、先進的で高価な先発薬を使わずとも、安価な後発薬を使いたい患者さんは潜在的に多いだろう。常用している薬品であれば、消費者である患者さんの価格感応度が高いことは想像に難くない。したがって、患者さんが後発薬を安心して選べるように、一つは広報活動に注力することが有用であろうし、MRが医師や薬剤師に自社製品の特長を正確かつ的確に伝えることが今後の課題であろう。つまりは、ジェネリック医薬品メーカーの有する、健全な意味での営業力を高めることが肝要であると考える。

 また、ジェネリック医薬品が普及しないこととは別に、いわゆる2010年問題が医薬業界での大きな問題がある。すなわち、新たな先発薬が生まれづらい状況が世界規模で起こっているというのである。著者によればこの問題の原因の一つとして、近年進展する医薬品業界どうしの大型合従連衡があるようだ。つまり、企業規模を大きくすることで開発費を削減できる一方、利幅の大きいメガヒット製品を開発することに焦点を当てすぎて、各国の最終審査に通らない状況が続いているのである。誤解を恐れずに言えば、ホームラン狙いになりすぎて打率が著しく低下してしまっている、というところであろう。

 これは、イノベーションのジレンマの応用問題と言えるのではないだろうか。むろん、イノベーションのジレンマの要諦は、度重なる改善によって技術スペックが市場ニーズを追い越してしまい、破壊的イノベーションを起こした下位市場に駆逐される点にある。しかし、医薬業界における2010年問題は、イノベーションのジレンマが起こる組織上の問題、すなわち組織の拡大が短期間における利益規模の増大を引き起こし、小さなヒットの積み重ねを組織として許容できなくなる問題と同じように思えるのであるが、どうだろうか。

2012年7月22日日曜日

【第92回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)


 今回は、印象に残った箇所を引用し、それに対する覚え書きを記していくこととする。

「学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。」(學而第一・一)
【メモ】一度学ぶだけでは理解が浅い。意識的に復習することを心がけたい。


「習わざるを伝うるか。」(學而第一・四)
【メモ】自分で考えずに他者の言の受け売りをしてはいけない。論文の孫引きも厳禁。


「学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。」(學而第一・八)
【メモ】広い教養が大事。人間的に向上心がない者と付き合わない。すぐ修正する。


「事に敏にして言に慎しみ、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ。」(學而第一・一四)
【メモ】よく働き、言葉に気をつけること。他者がどう受け取るかに細心の注意を。


「これを道びくに政を以てし、これを斉うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。これを道びくに得を以てし、これを斉うるに礼を以てすれば、恥ありて且つ格し。」(為政第二・三)
【メモ】国を治める上でも内発的動機付けを用いることが重要。


「故きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし。」(為政第二・一一)
【メモ】歴史に学ぶことで、現在から未来を見通す。


「君子は周して比せず、小人は比して周せず。」(為政第二・一四)
【メモ】人間関係が仲良しクラブになっていたら、依存の危険性あり。


「学んで思わざれば則ち罔し。思うて学ばざれば則ち殆うし。」(為政第二・一五)
【メモ】学ぶだけで考えないと考察が浅い。考えるだけで学ばないと独断に陥る危険性。


「富と貴きとは、是れ人の欲する所なり。其の道を以てこれを得ざれば、処らざるなり。」(里仁第四・五)
【メモ】ノーブレス・オブリージュ。私から我々への意識変容。


「過ちを観て斯に仁を知る。」(里仁第四・七)
【メモ】失敗のレベルでその人のレベルが分かる。チャレンジすべし。


「己を知ること莫きを患えず、知られるべきことを為すを求む。」(里仁第四・一四)
【メモ】現在から過去を見るのではなく、未来を創るための現在。


「約を以てこれを失する者は、鮮なし。」(里仁第四・二三)
【メモ】謙虚であることの重要性。


「君子は言に訥にして、行に敏ならんと欲す。」(里仁第四・二四)
【メモ】不言実行。


「再びせば斯れ可なり。」(公冶長第五・二〇)
【メモ】考えすぎずにまずは行動する。


「仁者は難きを先きにして獲るを後にす、仁と謂うべし。」(雍也第六・二二)
【メモ】得る事を考えるのではなくまずは挑戦することが仁である。


「徳の脩めざる、学の講ぜざる、義を聞きて徒る能わざる、不善の改むる能わざる、是れ吾が憂いなり。」(述而第七・三)
【メモ】自戒として。特に良くない事を改めない点には注意。


「多く聞きて其の善き者を択びてこれに従い、多く見てこれを識すは、知るの次ぎなり。」(述而第七・二七)
【メモ】物知りのように振る舞わず、学ぶ努力をし続けること。


「抑〻これを為して厭わず、人を誨えて倦まずとは、則ち謂うべきのみ。」(述而第七・三三)
【メモ】実行し続けること。


「学は及ばざるが如くするも、猶おこれを失わんことを恐る。」(泰伯第八・一七)
【メモ】謙虚に学ぶ続けること。慢心しないこと。


「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。」(先進第十一・一六)
【メモ】中庸が大事。


「事を先きにして得ることを後にするは、徳を崇くするに非ずや。其の悪を攻めて人の悪を攻むること無きは、慝を脩むるに非ずや。」(顔淵第十二・二一)
【メモ】自分の悪い点を責めて、他人の悪い点を責めないこと。


「速かならんと欲すること毋かれ。小利を見ること毋かれ。速かならんと欲すれば則ち達せず。小利を見れば則ち大事成らず。」(子路第十三・一七)
【メモ】目先の実利に気を取られず、焦らずに一歩ずつ進む。


「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。」(子路第十三・二三)
【メモ】雷同せずに調和を心がけること。


「古えの学者は己れの為めにし、今の学者は人の為めにす。」(憲問第十四・二五)
【メモ】他者に知られたいという虚栄心で学んではならない。


「子貢、人を方ぶ。子の曰わく、賜や、賢なるかな。夫れ我れは則ち暇あらず。」(憲問第十四・三一)
【メモ】他者を批評するのは時間の無駄。


「工、其の事を善くせんと欲すれば、必らず先ず其の器を利くす。是の邦に居りては、其の大夫の賢者に事え、其の士の仁者を友とす。」(衛霊公第一五・一〇)
【メモ】自分を磨くことができる友人を選ぶこと。


「其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ。」(衛霊公第一五・二四)
【メモ】思いやりとは自分が望まないことを他者にしないことである。


「過ちて改めざる、是れを過ちと謂う。」(衛霊公第一五・三〇)
【メモ】失敗しても改めないことが本当の失敗。


「恭なれば則ち侮られず、寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち人任じ、敏なれば則ち功あり、恵なれば則ち以て人を使うに足る。」(陽貨第十七・六)
【メモ】特に「寛」と「敏」の二つが自分の課題である。意識すること。

2012年7月14日土曜日

【第91回】Number807「EURO2012 FINAL」


 2012年12月15日、FIFAクラブW杯の決勝戦。バルサの高いレベルの試合をリアルタイムで観戦する高揚感は、たった一つのプレイで意気消沈させられることになった。ダビド・ビジャの怪我である。EUROに間に合わなくなる事態によもやなりはしないかという私の不安は、果たして半年後に現実のものとなった。

 ビジャがいなくてもフェルナンド・トーレスがいるではないか。しかし、トーレスはチェルシーでの低調なパフォーマンスに終始していて不安を拭えない状況であった。ブンデスでの活躍によりにわかに期待したラウールのサプライズ招集もなし。この状況でデルボスケは誰を「9番」にするのか、全く想像がつかなかった。

 そして、彼が初戦のイタリア戦で示した回答は、ゼロトップであった。ゼロトップ、すなわち「9番」としてのストライカーを配置しない布陣を、実質的にぶっつけ本番で採用したのである。

 ゼロトップが一つの布陣として機能することは、ローマが結果を出して数年前に流行らせたことから疑いがない。トッティをダミーの「9番」にした布陣は躍動感にあふれ、普段はセリエを見ない私も興味深く見ていたものだった。

 しかし、代表クラスで数試合をこなすことなくゼロトップがいきなり機能するものなのか。もし、スペイン代表の主力の大半を占めるバルサやレアルがゼロトップを日頃から用いているのであれば不安は軽減されただろう。そうであれば、ゼロトップの動きに慣れており、そのPros&Consを把握していることが想像に難くないからである。しかし、そうした事実は残念ながらなく、不安を解消する要素は皆無に等しかった。

 ダミーの「9番」を担うことになったのはセスク・ファブレガスであった。イタリア戦のスタメンが発表された時に、ゼロトップを採用したことに驚き不安に思ったと同時に、今のスペイン代表ならば、またセスクが「9番」であれば面白いサッカーをするのではないか、と期待を抱いたこともまた事実であった。

 実際、イタリアに引き分けた結果自体は満足ではなかったが、その試合内容自体は見応えがあった。大会ナンバーワンと称しても過言ではないのではないだろうか。「カテナチオ」のイタリアが攻撃的なスタイルを貫いてきたというサプライズの為せる相互作用もあったとはいえ、スペインのゼロトップは従来のパスサッカーにアジャストしていたように私の目には見えた。

 その後の試合では、トーレスを1トップに起用する試合もあったが、決勝でのイタリアとの再戦でデルボスケがゼロトップを選択したことから勘案すると、ゼロトップが今大会のスペイン代表での第一の選択肢であったということであろう。本誌の記事によれば、慣れない「9番」を担うセスクを支えたのはアンドレス・イニエスタであった。たしかに、今大会のMVPにも輝いたイニエスタの動きは秀逸だった。私のような素人目にもあまりに分かり易いうまさが何よりあり、周囲とのコンビネーションによるパス交換もまた魅力的であった。

 イニエスタによる「9番」セスクへのサポートの集大成は、決勝戦での一点目に如実に表れていた。シャビ・エルナンデスからイニエスタがボールを受ける瞬間に裏のスペースへ走り出したセスクへ、イニエスタからのパスが入り、ラインぎりぎりで上げたピンポイントのクロスにダビド・シルバが頭で合わせたゴール。あのゴールはこれからも語り継がれるであろう美しいゴールであったし、スペイン代表のゼロトップの有効性を証明した瞬間でもあった。

 今回のゼロトップはフットボールファンに対して好評ではなかったように思う。これを以てスペイン代表の力の衰えを指摘する論調が多く出ていることもいたしかたない。しかし、スペインは途中で敗退したのではなく、優勝したのである。しかも、EURO史上初の連覇であり、EUROとW杯を通じて三連覇をしたのも初の快挙である。

 さらにいえば、ゼロトップという選択肢を国際大会の本番の場で「試す」ことができたことも、戦略のオプションを増やすという点では貴重なことだったのではないか。思うにビジャかトーレスが「9番」を担う方がスペイン代表は機能すると思うが、アクセントを加える意味合いとしてゼロトップが次善策として機能することを証明できたのである。

 戦略のオプションを増やし、ビジャとプジョールという攻守の二枚看板を欠いても優勝したという事実は大きい。主力の高齢化が心配ではあるが、二年後のブラジルでもまた、無敵艦隊を止められる国は現れないかもしれない。