2014年4月27日日曜日

【第277回】『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎、講談社、2012年)

 本書は学術書でも専門書でもなく、一人の作家としての著者が自身の考え方や意見を開陳する新書というスタンスで書かれたものである。学術的な分野で言えば、ジンメルをはじめとした社会学の考え方を下敷きにしているように思える。そうした知見を踏まえながら、現代の日本を生きる私たちが共感できるように、噛み砕いて、かつ適用範囲を拡げようと努めながら書かれているようだ。そこには、以下のようなただ一つの「本当の自分」なる考え方を持つことに対する警鐘が根本の想いとして存在する。

 「分人」という造語について、別に、従来のキャラとか仮面といった言葉で十分なんじゃないかという指摘を何度か受けた。しかし、キャラを演じる、仮面をかぶる、という発想は、どうしても、「本当の自分」が、表面的に仮の人格を纏ったり、操作したりしているというイメージになる。問題は、その二重性であり、価値の序列である。(25~26頁)

 自分の性格や人格というものを突き詰めて考えれば一つしか存在せず、それ以外の性格や人格は作られた嘘のものである、という考え方をする人も多いのではないか。しかし、このような「本当の自分」という考え方は、それ以外の多様な「自分」を「かりそめの自分」として、一段下のものとして捉えてしまう。そうすると、ありもしない唯一の「本当の自分」を生涯かけて追い続け、今の自分を否定し続ける、という不毛な青い鳥症候群になりかねない。

 では、唯一の「本当の自分」が存在しないのであれば、私とはいったい何なのであろうか。

 たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。(7頁)

 「本当の自分」はただ一つのものとして規定されるものではなく、複数の「本当の自分」が存在するということ。さらに、こうした「本当の自分」とは独立的に存在するものではなく、他者との関係性の中で構成されるものである。では、こうした複数の「本当の自分」はどのようにして一人の人間の人格として統合されるのか。

 私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。 分人の構成比率が変われば、当然、個性も変わる。個性とは、決して唯一不変のものではない。そして、他者の存在なしには、決して生じないものである。(8頁)

 一人の人間としての私とは、分人ごとの構成比率から自ずと生じてくるものである。そうであるならば、多様な他者との関係性は常に変化し続けるものであるのだから、私の人格や個性もそれに応じて変化するものとなる。唯一の「本当の自分」という考え方がイデアのような固定的な自分像を想定しているのに対して、分人の構成比率によって創り上げられる自分像は可塑的でゆたかな存在だ。

 こうした分人という考え方をもとにして、実践的に応用可能なものを著者はいくつか挙げている。まずは職業について。

 職業の多様性は、個性の多様性と比べて遥かに限定的であり、量的にも限界がある。(41頁)

 「自分探し」と呼ばれる現代の現象は、「本当の自分」探しであるとともに、天職探しという意味合いをも包摂している。難しいのは、分人という考え方で分かるように、私たちは多様な個性を持つ統合体であるにも関わらず、職業は限定的で数が少ないという点である。したがって、私たち一人ひとりが、有限の職業の中で、いかにして多様な個性を発揮するか、という工夫と努力が求められる。こうした工夫と努力といった調整作業を行わずに、あたかも自分に適した職業があるかのようにマッチングを試みたところで、うまく機能しないことは自明だろう。

 次に、コミュニケーションについて扱っている部分を見てみよう。

 八方美人とは、分人化の巧みな人ではない。むしろ、誰に対しても、同じ調子のイイ態度で通じると高を括って、相手ごとに分人化しようとしない人である。(81頁)

 分人化とは、一人ひとりの他者との関係性を大事にして多様な「本当の自分」を創り出すことが眼目である。したがって、多様な「本当の自分」によって、多様な他者との関係性をゆたかにすることである。私たちが八方美人と感じる関係性とは、一見して他者との関係性を大事にしているように見えながらも、常に「本当の自分」ではない同じキャラを演じて短期的に乗り切ろうとするものであろう。だからこそ、そうした八方美人的な態度を取られると私たちは、自分が軽んじられているように感じるのである。

 最後に、愛について。

 愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。その人と一緒にいる時の分人が好きで、もっとその分人を生きたいと思う。コミュニケーションの中で、そういう分人が発生し、日々新鮮に更新されてゆく。だからこそ、互いにかけがえのない存在であり、だからこそ、より一層、相手を愛する。相手に感謝する。(138頁)

 その人と一緒にいる時の自分の分人が好きという状況が愛である、という考え方は非常に新鮮であるとともに納得的である。このように考えると他者を愛するということは自分をも愛するということであろう。著者が述べるように、愛とは長期的な関係性を保有しようとするものであり、なにも夫や妻といった異性間だけではなく、親子、子弟、友人関係といったものも射程範囲である。そうであるからこそ、著者の以下の指摘は納得せざるを得ず、大変興味深いので引用して本論考を終えたい。

 「わたしと仕事、どっちが大事なの?」という詰問は、文字通りに取ると、比較しようのないものを比べている、バカげた発想のように思われる。しかし、「どっちの分人が大事なの?」となると、話は違う。(143頁)


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