2017年9月18日月曜日

【第753回】『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』(三島由紀夫、新潮社、1969年)

 どちらのタイトルからも三島の挑戦的なニュアンスが伝わってくるだろう。正直、読もうかどうか躊躇したし、官能小説や全体主義礼賛の意味合いが少しでも匂ったら、最後まで読み切る自信はなかった。しかし、そうした心配は杞憂であり、どちらも文学作品であり、プロットには共感できないが、情景がきれいに浮かぶ感覚は心地よかった。戯曲とはこういうものかと納得させられた。

 アルフォンスは私だったのです。(65頁)

 アルフォンスとは、サド侯爵の呼び名であり、劇中の登場人物はサド侯爵がいない中で彼のことを話し続ける。幕が上がって時代を経ても同様である。空白というものが、その存在をくっきりと浮かび上がらせ、その存在を大きくしているようだ。

 だからこそ、最後の最後にサド侯爵が登場するシーンが印象的である。年齢だけを重ねた醜い老人の姿を端的に示し、侯爵夫人はその姿を見ることを避けるように、あれほど愛していた相手との別離を急に選ぶのである。


 そこに存在しない相手だからこそ、その外見や内面の美しさに焦点を当てることができるが、そこに存在してしまうとそうでない部分にどうしても意識が向かう。いないことにより存在し得る美、もしくはそうした虚構としての美に、私たちは酩酊してしまうのではないか。


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