2019年9月21日土曜日

【第988回】『葬送 第一部(下)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 上巻に続き、ドラクロワとショパンとの交流を軸にしながら物語は進む。ショパンとその愛人サンド夫人との関係が破綻へと至る一連のプロセスがもの悲しいためにトーンとしては暗い。しかし、時に烈しく時に静かに流れる展開は読み応えがある。

 私たちはなぜ小説を読むのか。小説とは、様々な人物の様々な感情が発露し、その関係性もまたダイナミックなものとなる。日常生活において私たちの多くが経験できないような場面が多いが、どこかに共感できる足がかりがある。ために登場人物のある特定の感情や行動に寄り添いながら私たちは物語を我が事のように思い浮かべながら読む。こうした共感と投影の作用が私たちに浄化をもたらすから、小説を読みたいと思うのかもしれない。

 失望が、丁度握り締めた真綿が開いた掌で膨らんでゆくようにして静かに胸に広がっていった。今日は何もしなかった。これから出来る仕事といえば、素描くらいのものだ。そう思うと、今し方の愉快な気分が嘘のように霧散してすっかり沈み込んでしまった。(7頁)

 全般的にシリアスな展開の中でも、冒頭にはこのような日常的に仕事に対して私たちが共感できるような日常が描かれる。ドラクロワが、他者と会うことに長く時間を要しすぎて慨嘆する気持ちは、私たちの多くが共感できるものではないだろうか。

 ショパンは、徐に懐から手紙を取り出すと封筒を覗きながら便箋を引き出して手中に広げた。紙の擦れ合う音が耳に硬く響いた。僅か数秒のことであったが、彼はその間の緊張を耐え難く感じた。窓から風が吹いて膝の上の封筒が飛ばされそうになった時、咄嗟に自分でも驚くほど大袈裟な身振りでそれを押さえつけた。そして、急激に速まった心拍に自分の狼狽ぶりを思い知らされた。(294頁)

 サンド夫人との別離が色濃く予感される最終盤の一コマ。心象風景がほとんど描かれないにも関わらず、ショパンの行動と背景の描写によって、彼の気持ちが十二分に伝わってくる。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

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