論語は、それ自体を何度も読み返すだけではなく、その解説本も何冊となく読み漁ってしまう、私にとって稀有な書である。勿論、読んで感銘を受ける解説本もあれば、あまり響かないものも存在する。本書は、明確に前者に該当する解説本であり、編集のしかたが秀逸で、新たな気づきを読者に提示するしかけが為されている。論語じたいがそうした書でもあるのだが、読み手が直面している課題や心に留めているものを写す鏡として、自分にとって大切な存在を投影してくれる。そうした文脈において、今回、いたく気づかされた二点について、以下に取り上げてみたい。
第一は、率直にフィードバックすることの重要性について。
子曰く、巧言令色(言を巧みにし色を令くするは)、鮮なし仁。(学而篇一・三)(20頁)
名言の多い学而編において、恥ずかしながら私は、この言葉にほとんど注目してこなかった。というのも、巧言令色という言葉のイメージとして、いわゆる「ヒラメ社員」のように、自分より上位職の人々に媚び諂う感じがして、自分とは遠い行為のように思えていたのである。しかし、著者は、引用の後の解説文で、「他人に対して人当たりよく」することは「実は自分のためというのが本心」であり、「他者を愛する気持ちは少ない」としている。つまり、他者のことを思って他者を傷つけないようにかつ自分が悪く思われないように言葉を選ぶことは、自分のためにする行為であって他者のためにする行為ではない。加えて、そうした言葉は、「仁」の気持ちには遥か遠く至らない精神から出される言葉にすぎないのである。都合の良い拡大解釈も含まれるのであろうが、今の私にとって、考えさせられる至言である。
第二は、視野を広げ全体を理解すること。
子曰く、君子は上達し、小人は下達す。(憲問篇一四・二三)(111頁)
子曰く、君子は器ならず。(為政篇二・一二)(121頁)
著者は、知識を持ち細かい領域に卓越して分析や批判ができる存在を知識人、見識を持ち全体を俯瞰して把握して実行する存在を教養人として解釈を加える。したがって、小人が前者に、君子が後者に該当することは自明であろう。 憲問篇一四・二三に鑑みれば、前者は物事の末端や部分について理解している存在で、後者は物事の根本や全体について理解している存在である、とも換言できるだろう。さらに、為政篇二・一二における「器」をこれまではよく理解していなかったが、著者はこれを「一技・一芸(器)」として捉えている。このように考えれば、器というものを必ずしも肯定的に解釈していないことがわかるだろう。同じ器でも、広く大きな器を持つこと、さらにはそうした器を多様に持つこと、が君子として重要な有り様なのではないだろうか。
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