2019年12月14日土曜日

【第1000回】『経験学習リーダーシップ』(松尾睦、ダイヤモンド社、2019年)

 経験学習という概念を、実務家もイメージしやすく丁寧に解説された名著『「経験学習」入門』を筆者が出版されたのは2011年でした。経験学習という言葉を聞くと、個人での経験獲得と振り返り、その個人に気づきを促す上司やメンターによるフィードバックといった、個のイメージが強い印象です。

 しかしながら、本書のタイトルには、経験学習の後にリーダーシップという概念が続きます。意外な感を抱きながら読み始めると、私と同じような読者が多いことを想定されていらっしゃるのか、題名にリーダーシップという言葉を用いた理由を冒頭で解説されています。
「OJT」や「コーチング」ではなく「リーダーシップ」という言葉を使ったのは、育て上手のマネジャーが、1対1の指導だけでなく、部下に任せる仕事を創り上げたり、職場全体の運営も工夫しているからです。(3頁)

 個人が自身で成長することには限界があり、また育成責任を職制として負う個人が個人を育成することにも限界があります。そのような現場のリアリティを踏まえて、職場全体での面による育成が着目され始めたのは、中原淳先生の『職場学習論』あたりからでしょうか。その流れを受けて、経験学習も職場全体で行うものであり、経験を基に学習する職場づくりを行うことがリーダーには求められると筆者はしているのです。

 筆者が行った育て上手のマネジャーを対象にした調査で浮かび上がってきたキーワードは「強みを引き出すこと」でした。強みにフォーカスを置いた書籍は昨今多いですが、著者は「育て上手のマネジャー調査を開始した段階では、「強み」に注目していたわけではありませんでした」(9頁)としています。調査の結果として、経験学習サイクルを回すことを支援するドライバーとして、強みが出てきたという点には興味深いものがあります。

 さらに、強みに着目する大切さを深掘りする過程で、心理学・経営学・哲学という三つの領域を挙げ、哲学においては西田幾多郎が取り上げられているところに新鮮さを感じます。強みというと個人という単位を捉えますが、西田を引きながら社会や人類一般を射程に置いて以下のように述べます。

その人本来の強みである「個人性」を生かして、社会や人類のために役立てたときに真の善となるという考え方です。(14頁)

 個人としての善を基点に、社会における善へと拡げていくことが、強みを考えるうえでの重要なポイントのようです。こうした個人の強みを引き出しながら育て上手のマネジャーが行う指導の要諦を以下のようにまとめられています。


① 部下の強みを探り、成長ゴールで仕事を意味づける
② 失敗だけでなく成功も振り返らせ、強みを引き出す
③ 中堅社員と連携しながら、思いを共有する

 それぞれのポイントについては、事例を交えながらわかりやすく解説されています。部下を持つ管理職の方々、育成に関心のある中堅社員の方々にぜひ勧めたい一冊です。

2019年11月2日土曜日

【第999回】『ある男』(平野啓一郎、文藝春秋、2018年)


 タイトルが意味深であるが、読み進めていくとなるほどと思え、これ意外には想像できないほどのタイトルである。著者が2010年頃の作品からテーマとしてきた分人主義とは趣が異なり、戸籍を売買することに伴う人格の有りようが問われる。「人格」を扱う本作は、分人主義からの試行的発展を目指す著者の方向性が示唆されているのかもしれない。

 彼はグラスの底に残った、もう気の抜けてしまったビールを飲んで、唇を噛み締めた。そして、今のこの人生への愛着を無性に強くした。彼は、自分が原誠として生まれていたとして、この人生を城戸章良という男から譲り受けていたとしたなら、どれほど感動しただろうかと想像した。そんな風に一瞬毎に赤の他人として、この人生を誰かから譲り受けたかのように新しく生きていけるとしたら。(319~320頁)

 本作でも、思わずため息が出るような美しい文体で物語が展開される。物語自体の興味深さとともに、その文章の美しさにも魅了される一冊である。

【第995回】『決壊(上)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)
【第996回】『決壊(下)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)

2019年10月26日土曜日

【第998回】『リーダーシップからフォロワーシップへ』(中竹竜二、阪急コミュニケーションズ、2009年)


 早稲田ラグビーを復権させた清宮克幸氏を引き継いで監督となった著者。前任者の華やかな有言実行とは異なるスタイルは、一見して意外であったが前任者に劣らない卓越した成果を継続して出し続けた。その秘訣を明らかにした本書のエッセンスは、このタイトルに端的に現れている。

 全員がリーダーと同じ気持ちでいること。与えられたり指示されたりするのを待つのではない。最終的に決断を下すのはリーダーだけれど、常にフォロワーもリーダーと同じように主体性を持って考える。これは私の理想とする組織でもある。(106頁)

 役割としてリーダーとフォロワーは相対的なものとして一つの組織の中に現れる。もちろん、ある人物が固定的にリーダーであり、フォロワーであるということはない。相対的な役割によって、ある場面ではリーダーシップを発揮する人物が、違う場面ではフォロワーシップを担うのである。だからこそ、ある特定の状況において、リーダーとフォロワーとは意識を共有し両者ともに主体性を持って考えて行動することが求められるのである。

 主体性を持ってどのように行動するのか。行動する際の拠り所として、強みを中心にして自身のスタイルを構築し続けることを著者は主張する。さらには、リーダーとしての自分自身がスタイルを創るだけではなく、リーダーとしてフォロワーのスタイルを構築するために全力を注ぐことを提案する。

 このように相対的にリーダーシップとフォロワーシップが生じるのであるから、組織にはリーダーが複数いても良いことになる。

 組織の区切り方によってリーダーというものは変わっていく。(中略)
 その原理を積極的に応用したのがマルチリーダー制である。常に複数のリーダーを置くことで、誰がリーダーになってもフォロワーはそれに順応できる組織風土を作るための体制である。(177頁)

 リーダーが組織に複数いても良い、というよりも複数いることによるメリットがここでは提示されており、納得的だ。本年のラグビーW杯の日本代表でも複数リーダー制を用いていたという。だからこそ、リーチ・マイケルだけに頼らず、彼が試合に出ていない場面でもチームとしての力を発揮できたのであろう。

【第570回】『オシムの言葉』(木村元彦、集英社、2005年)

2019年10月22日火曜日

【第997回】『現代語訳 論語と算盤』(渋沢栄一、守屋淳訳、新潮社、2010年)


 本書が流行する意味がよく分かり、また流行していることに安心感をおぼえる一冊であった。正直、渋沢栄一の『論語と算盤』を以前読んだ時にあまり頭に入ってこなかったのでそれほど期待していなかった。ただ訳者の大胆な現代語訳は、今を生きる私たちにとって、渋沢だったらどのようなニュアンスで伝えたかという意図で書かれたものであり、すんなりと入ってきたようだ。

 渋沢はなぜ『論語と算盤』を著したのか。訳者の解説によれば「「実業」や「資本主義」には、暴走に歯止めをかける枠組みが必要だ」(9頁)として、渋沢の座右の書であった論語を解説したそうだ。日本の資本主義の父とも言われる著者が、論語をその基盤に置いているのだから、現代の資本主義社会を生きる私たちの血肉となる内容となっていることに驚きはないだろう。

 特に興味深いと感じたのは、仕事の中における趣味に関する考察の部分である。

 仕事をするさい、単に自分の役割分担を決まり切った形でこなすだけなら、それは俗にいう「お決まり通り」。ただ命令に従って処理するだけにすぎない。しかし、ここで「趣味」を持って取り組んでいったとしよう。そうすれば、自分からやる気を持って、
「この仕事は、こうしたい。ああしたい」
「こうやって見たい」
「こうなったら、これをこうすれば、こうなるだろう」
 というように、理想や思いを付け加えて実行していくに違いない。それが、初めて「趣味」を持ったということなのだ。わたしは「趣味」の意味はその辺にあるのではないかと理解している。(106頁)

 趣味一般としてはやや古風な考え方かもしれない。しかし、仕事において工夫をしてみる、意義を自分なりに考えてプラスアルファしてみる、という意味ではこれほど腑に落ちる考えはないのではないだろうか。

 同一労働同一賃金の流れの中で、日本企業も職務主義へと舵を切ろうとしている。総論としては反対はしないが、そこで失われるものは一つひとつの仕事に意味を見出そうとしたら、能力を蓄積しようという働く個人の営為になりかねない。しかし、渋沢の上記のような考え方を、私たちは持ち続けることが、日本資本主義の叡智として重要なのかもしれない。

 自分を磨くことは理屈ではなく、実際に行うべきこと。だから、どこまでも現実と密接な関係を保って進まなくてはならない。(134頁)

 個人の営為として持ち続けることは、勉強するために勉強するのではなく、実践と結びつけようとしてインプットすることである。現代の日本社会には、美辞麗句を施して見てくれをよくするだけの「学びごっこ」のいかに多いことかと、渋沢なら慨嘆するかもしれない。

【第693回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)
【第662回】『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)

2019年10月19日土曜日

【第996回】『決壊(下)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)


 いやはや予測を裏切る展開となった。主人公を最後のシーンへと誘ったのは一体なんだったのか。いかようにも解釈できる余韻を持たせた結末であり、読者は色々と考えることができる。悪はなぜ生まれ、伝播していくのか。この物語を読んでいると、どうしても悲観的に考えてしまう。

 自分の中に堆積していた様々な記憶の断片が、何か大きな棒のようなものを差されて、力任せに一掻きされたように、底から身を翻しつつ湧き起こっては、しばらく渦を巻きながら意識の内側を巡り、その色を混濁させた。(103頁)

 切れぎれの、今にも夢の向こうが透けて見えそうな昨夜のうっすらとした眠りは、どうにか掻き集めても、三時間程度の分量にしかならず、その頼りない手応えの分だけ、体には重みが残った。(440頁)

 どちらも主人公の内面を描写している。彼が抱える悩み、葛藤、暗部を、読者があたかも目の前に想起できるようだ。

【第995回】『決壊(上)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)

2019年10月14日月曜日

【第995回】『決壊(上)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)


 インターネットの匿名性による犯罪。私が知る限りでは、著者は推理小説を書く方ではない。そのため、中盤以降から話題の中心となる犯罪を犯した人物は想像に難くない(誤解かもしれないが)。ある予期を持って読み進めることになり、誰が犯人なのかというよりも、なぜ殺人を犯すのかという点に関心が湧く。

 プロットとは直接関係ないが、思わず首肯したのがこちら。

 他者を承認せよ、多様性を認めよと我々は言うわけです。しかし、他者の他者性が、自分自身にとって何ら深刻なものでない時、他者の承認というのは、結局のところ、単なる無関心の意味でしょう。(453頁)

 新しい形の犯罪であるにもかかわらずやや古い印象を抱くのは、本書のハードカバーが出版されたのが2008年だったからだろうか。その後に、FacebookやInstagramといった実名でのSNSが主流になったために、インターネットの匿名性というものに古いイメージを持ってしまう。

【第985回】『考える葦』(平野啓一郎、キノブックス、2018年)
【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)

2019年10月13日日曜日

【第994回】『64(下)』(横山秀夫、文藝春秋社、2015年)


 この展開はすごい。下巻の中盤あたりからラストに向けた畳み掛けが見事。上巻から散りばめられた様々なエピソードが、これがそれに繋がるのかと感嘆するようにこれでもかと結びついていく。組織とは何か、正義とは何か、報道による知る権利とは何なのか。人間ドラマを通じて様々なことを考えさせられる。

<ひと月で慣れる。ふた月で染まる。人事は例外なくそうだ>(128頁)

 「人事」という機能に対する皮肉な台詞もそうだよなと思わさせられる。

 事件は何度でも人を試す。暗がりを、三上は一歩一歩踏み締めて歩いた。(396頁)

 ネタバレにならないように書くと、事件が新たな事件を生み出す。そこには様々な感情が綯い交ぜになり、誰が何の権利で誰を裁くのかという究極の難問が生じる。そもそも、人は人を裁けるのだろうか。裁けるとしたら、その根拠は何なのだろうか。

【第993回】『64(上)』(横山秀夫、文藝春秋社、2015年)

2019年10月12日土曜日

【第993回】『64(上)』(横山秀夫、文藝春秋社、2015年)


 警察機構を題材とした小説であり、暗い印象のある書き出しから始まる。冒頭からしばらくは人物同士の関係性がわかりづらいが、次第に明らかになりかつ物語に引き込まれているのは、さすがの展開力と言え、文句なしに面白い。

 三上は階段の踊り場に立ち尽くした。
 上の階は刑事部。下は警務部。自分の立っている場所が、そのまま己の置かれた立場に思えた。(160頁)

 元々は刑事部の出身であり、自分自身を生粋の刑事だと思っている主人公。しかしながらキャリアの初期の段階で広報部というスタッフ部門にわずかながら経験し、現在も広報部という警務部側に色分けされる立場で働く。その葛藤が文章によく現れている。

 三上は運転席のウインドウを少し下げた。冷気が頬を撫でる。わずかばかりの葉を残した歩道の冬木立が北風に鳴いている。(313頁)

 ここの表現もまた、いい。主人公の置かれる厳しい環境が、情景に描写されている。

【第905回】『空飛ぶタイヤ』(池井戸潤、講談社、2009年)

2019年10月5日土曜日

【第992回】『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(古田徹也、角川書店、2019年)


 哲学書は難しい。その中でも『論理哲学論考』は難解だ。しかしあまりに有名な本であり、何とか少しでも理解してみたい。こうした願望に答えてくれる、『論理哲学論考』の入門書的解説本が本書である。

 元々の書籍が難解なのだから平易に解説するのにも限界がある、と思うなかれ。読み応えはあるものの、理解はできるレベルである。何回か読み直しながら、「論考を理解した!」と言えるまで繰り返して読みたい良書である。ウィトゲンシュタインに挫折した全ての方に推奨したい。

 世界の具体的なあり方を描き出す命題はすべて、要素命題が操作によって結合したものとして理解できる。そして、要素命題を構成する名はそれぞれ、世界のなかの何らかの対象(物)に対応する。それゆえ、「経験的な実在は、対象の総体によって限界づけられている。その限界はまた、要素命題の総体において示される」(五・五五六一節)と言いうる。(245頁)

 論考は、世界の全てを対象にして哲学というアプローチで表し尽くそうとしている。そのスコープのすごさは、上記のような記述に現れている。まだ理解したとはとても言い切れない。しかし、その面白さには気づいたように思える。読み直して少しずつ理解していきたい。

【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)

2019年9月29日日曜日

【第991回】『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧幻の三連覇』(中村計、集英社、2016年)


 2005年に東北以北の学校による初優勝を果たし、2006年には二年生エース田中将大の活躍で二連覇。そして2007年には早実との決勝再試合での死闘。ベンチから戦況を眺める香田監督の姿は印象深かった。

 「2.9連覇」とも言われる偉業を成し遂げた駒大苫小牧高校は、香田監督が辞めてから甲子園で上位に進出することはなくなり、また香田監督がその後どのようなキャリアを選択したのかも知らなかった。本書は、あの2.9連覇からほぼ十年が経った後に、著者が香田監督への丹念な取材によって描き出したドキュメンタリーである。

 傑出した実績を出したカリスマ的な有名監督を描く作品では、全ての打ち手がハマったかのような描かれ方をされることも多い。しかし、本書では、香田監督の悩みや葛藤もつまびらかにされ、出る杭が打たれる日本の社会や組織にありがちな現象も描かれるためにリアリティがある。時間が経ったからこそ描きだすことができた素晴らしいノンフィクション作品と言える。

 2007年の、あの田中将大が主将を務めた世代とのぶつかり合いと、卒業に至るまで緊張した関係が崩れなかったという事実には驚かされる。また、卒業しても関係が改善しなかったという場面ではハラハラとさせられた。卒業から約一年後に大団円を迎える場面では感動すら覚えた。

 カリスマといえども人間にすぎない。だからこそ、ドラマが生まれるのかもしれない。


2019年9月23日月曜日

【第990回】『葬送 第二部(下)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 第一部の上巻でショパンの葬儀のシーンが描かれるため、私たちはショパンの死を予感させられながら読み進める。彼が死に対して抗いながら、その中で人々と静かに交流する最終盤では、潮騒、奔馬、豊饒などといった三島の名作のタイトルがさりげなく文章に散りばめられる演出も見事だ。

 病床に伏せるショパンがドラクロワに対して語りかけるシーンでは、才能に対する興味深い考えが提示される。

「君はきっとそれに打勝つことが出来ると思う。……」と言った。そして、その一瞬だけ海が凪いだように呼吸が静かになって、「……君は、自分の才能を、人には得難い或る特権的な穏やかさの中で楽しむことが出来る。それは、熱烈に名声を追い求めるのに劣らない価値のあることだよ。……」と言った。(55頁)

 才能には、輝かしいものや異彩を放つものといった華やかなイメージがある。しかし、ショパンが語るような静謐な特質も才能には含まれるのかもしれない。このように考えれば、天才と呼ばれるような一部の人たちが持つ特別なものではなく、ごく普通の私たちが才能というを考えることもあり得るのではないだろうか。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月22日日曜日

【第989回】『葬送 第二部(上)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 静かに、淡々と、しかし確実に物語はもの悲しい展開へと向かうようだ。第一部の上巻の冒頭でショパンの死後の情景が描かれるために一つの予感を持って読者は物語を読み進める。そのために徒に暗い展開を予期し過ぎてしまうのかもしれない。

 或る意味で、天才とは一つの病です。僕には僕の天才の過剰は苦痛です。それは泉の規模を知らず際限もなく溢れ出る湧き水のようなものです。……吐き出しても、吐き出しても、……すぐに飽和してしまう。……僕はその窒息感に常に苛まれています。苦しくて、どうにも仕方がなくて、……いっそ枯渇するまで吐き出してしまうことが出来たならば、どれほどの心の安寧が得られることでしょう。(237~238頁)

 ドラクロワが自身について長く語るシーンである。私たち<普通>の人間は、良質なアウトプットを継続できる人物を天才として尊敬し、羨望の眼差しで眺める。あのようになってみたいと思う。

 しかし、月並みな言い方となってしまうが天才には天才の悩みがある。スランプや停滞といったものではなく、自身の内から創意やアイディアが湧き出すぎると、常に満足感が得られないのかもしれない。私たちは何かをアウトプットするとそれに心地よさを感じるものだが、天才には、その後にもまた新たなアウトプットの欲求が訪れて、余韻に浸れないのかもしれない。それはそれで苦痛だろう。

 時は本の頁を飛ばし飛ばし乱暴に捲ってゆくようにして慌しく過ぎ、二箇月が経って四月二十三日に憲法制定議会の最初の普通選挙が行われると、個々の人間がこの革命によって何を得、何を失ったかが一先ず明らかとなった。(187頁)

 この時間の経過の描写がすごい。物語の展開とは直接的に関係がないとしても、こうした表現に出会うとうれしくなる。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月21日土曜日

【第988回】『葬送 第一部(下)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 上巻に続き、ドラクロワとショパンとの交流を軸にしながら物語は進む。ショパンとその愛人サンド夫人との関係が破綻へと至る一連のプロセスがもの悲しいためにトーンとしては暗い。しかし、時に烈しく時に静かに流れる展開は読み応えがある。

 私たちはなぜ小説を読むのか。小説とは、様々な人物の様々な感情が発露し、その関係性もまたダイナミックなものとなる。日常生活において私たちの多くが経験できないような場面が多いが、どこかに共感できる足がかりがある。ために登場人物のある特定の感情や行動に寄り添いながら私たちは物語を我が事のように思い浮かべながら読む。こうした共感と投影の作用が私たちに浄化をもたらすから、小説を読みたいと思うのかもしれない。

 失望が、丁度握り締めた真綿が開いた掌で膨らんでゆくようにして静かに胸に広がっていった。今日は何もしなかった。これから出来る仕事といえば、素描くらいのものだ。そう思うと、今し方の愉快な気分が嘘のように霧散してすっかり沈み込んでしまった。(7頁)

 全般的にシリアスな展開の中でも、冒頭にはこのような日常的に仕事に対して私たちが共感できるような日常が描かれる。ドラクロワが、他者と会うことに長く時間を要しすぎて慨嘆する気持ちは、私たちの多くが共感できるものではないだろうか。

 ショパンは、徐に懐から手紙を取り出すと封筒を覗きながら便箋を引き出して手中に広げた。紙の擦れ合う音が耳に硬く響いた。僅か数秒のことであったが、彼はその間の緊張を耐え難く感じた。窓から風が吹いて膝の上の封筒が飛ばされそうになった時、咄嗟に自分でも驚くほど大袈裟な身振りでそれを押さえつけた。そして、急激に速まった心拍に自分の狼狽ぶりを思い知らされた。(294頁)

 サンド夫人との別離が色濃く予感される最終盤の一コマ。心象風景がほとんど描かれないにも関わらず、ショパンの行動と背景の描写によって、彼の気持ちが十二分に伝わってくる。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月16日月曜日

【第987回】『葬送 第一部(上)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 美しい文体に触れると心象風景に現れるビジョンに焦点が合い、現実世界が遠景となる。ために、物理的に疲れていたり精神的に疲弊している時にはホッと一息をつける。そうした美しい文章を読みたい折には、夏目漱石、三島由紀夫、村上春樹、そして著者のいずれかの本を読むようにしている。

 本作では、十九世紀パリを舞台にドラクロワとショパンとの親交を基本軸に、様々な人物がその補助線として二人と交流を重ねる様が描かれる。抑制の利いた穏やかな筆致の中にも著者の美しい文体が物語を構成していく。静かな情景の中にも、登場人物の心の襞が描かれているようだ。

 日常のあらゆる記憶から逃れたところで、気がつけば数時間もの時を過ごした。時間の経つのがまるで感ぜられなかった。あっと言う間だった。それでも、知らぬ間にからだを抜けていった時間の澱が、少しずつ足腰に溜まって痛みを発し始めていたので、彼は自分が、何時までもここに留まっている訳にはいかないことを否応もなく感じさせられた。名残惜しいが長居しすぎたようにも思った。最後に見た麒麟の不自然に伸びた頸の格好が、興を醒ませて、彼に帰る決心をさせた。(116頁)

 美しい文章を読むことは、美しい絵画の前で時間を過ごすことと近い。美術館を訪れ、時間を全く気にせずに没頭する。その行為は、日常から時間的にも空間的にも距離を置くことにほかならない。そうすることで、日常に改めて入っていこうという気力が自ずと湧いてくる。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月15日日曜日

【第986回】『自由のこれから』(平野啓一郎、K Kベストセラーズ、2017年)


 最近は著者の論考にはまっている。小説はもともと好きであったが、小論も考えさせられて面白い。イノベーション、法律、遺伝子工学、といった分野の碩学との対談はスリリングであり、そのまとめとしての自由に対する論説もぜひ読んでみてほしい。

 『決壊』に始まり『空白を満たしなさい』へと至る第三期と呼ばれる作品群で著者がテーマにした分人主義を基に、著者は自由へのアプローチを以下のように述べる。

 分人主義的に複数の組織やコミュニティに帰属することが可能となれば、私たちは、個々の関係性において、より多くの自由を手に入れることだろう。
 なぜなら、全人格的にある関係性に巻き込まれることが避けられ、一つの分人の経験を他の分人を通じて相対化できるからである。(162頁)

 分人主義とは、端的に言えば、唯一の「この私」としての個人ではなく、多様な他者との多様な関係性によって個人が分割された「文人」の相対としての私、という考え方である。社会学の領域でいえば、ジンメルを想起されれば良いだろう。

 私たちは、自分が巻き込まれている一つの状況、その関係性の中での分人を相対化する分人を常に複数、所有すべきである。ある分人においては、他に選択肢がないように思えていることも、他の分人を通じ、またその関係者を通じて相対化することで、必ずしも必然性がないことが見えてくる。(170頁)

 分人の総体としての私という考えを用いれば、仮に一つの分人が他者から否定されて自己効力感を失ったとしても、他の分人に依拠すればよいとなる。つまり、特定の自己効力感を失う事態にあったとしても、ほかの分人によってその分人を相対化し、全体としての自己肯定感を育む、という考え方と言えるのではないか。

【第445回】『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(平野啓一郎、PHP研究所、2006年)
【第240回】『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁、日本放送出版協会、2003年)

2019年9月14日土曜日

【第985回】『考える葦』(平野啓一郎、キノブックス、2018年)


 著者の小説を好きな方にはぜひ勧めたい一冊である。三島を好み、また漱石よりも鴎外が好きであるなどといった個人的な見解も随所に見られる。著者が何を好み、何に影響を受けてきたか、ということを知ることは、著者の作品の見方にも影響し、より深く理解することにもつながるのではないか。

 興味深い点は多々ある。ここでは、著者自身が自らの著作である『空白を満たしなさい』をイメージして書いている箇所を引いてみる。

 私自身が近年拘っている話だが、自殺者は、彼の生がいかに複雑な起伏に富んでいたとしても、自殺という最後の決定的な行為によって、「自殺をした人」となり、更には「自殺をするような人」だったと回顧されてしまう。非常にしばしば、彼の生きた軌跡は、その一点からのみ遡って整理されることになる。無論、英雄的行為に及んで広く社会の賞賛を得たならば、彼はつまりはそういう人間だと認知されよう。その後、そうではなかったという暴露話が続くのもお決まりである。しかし、私はそうした単純な人間の見方に、さすがに飽き足らない。(78~79頁)

 近代市民社会におけるアイデンティフィケーションは、それ以前の出自によってアプリオリに決まるのではなく行為の積み重ねによってアポステリオリに構成されると喝破する。こうした行為によってその人間の人間性が決まるということは、他者から見て際立つ行為が、その人物の人間性を規定するということになる。その結果が上記の引用箇所だ。

 行動が個人を規定すると考えると、一つの目立つ行動を以ってその人物を良くも悪くも評価してしまう。この陥穽に陥らないように謙虚な姿勢を保つことが近代を生きる私たちには求められるのではないだろうか。

【第277回】『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎、講談社、2012年)
【第445回】『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(平野啓一郎、PHP研究所、2006年)

2019年9月8日日曜日

【第984回】『NHK「100分de名著」ブックス 荘子』(玄侑宗久、NHK出版、2016年)


 荘子の良さを存分に伝えてくれる本書。さすがは「100分de名著」のシリーズと言えよう。端的にポイントを説明してくれており、かつ荘子を愛する碩学が魅力を語ってくれているために引き込まれる。ようやく、荘子の最適な入門書にたどり着いたようだ。

 さまざまな民族や宗教による考え方は非常に相対的なものであり、何かが絶対的に正しいというものではないーーと、徹底的に笑いながら話しているのがこの『荘子』です。(7頁)

 儒教をはじめとしたさまざまな生き方や思想を否定しているかのように見える荘子。その本質は、絶対的なものは存在しないとして全てを相対化しようとするという考え方が根幹にあるという。

 では、人間の意志による主体性を否定する荘子は何を重視するのか。

 自らの意志で動いたり変化したりするのではなく、周りが変化したので私も変化した、というのがよいと言うのです。まさに受け身です。現代の日本語でも使われる「やむをえず」という言葉の出典はまさにここなのですが、今ではネガティブな意味で使われるこの言葉が、完全に肯定的な意味で使われています。(51頁)
 「しあわせだなあ」というのは、思わぬことが起こったけれど、なんとか仕合わせることができてよかった、ということ。自分の意志で事前に立てる計画とは無縁の世界、完全に受け身の結果なのです。(52~53頁)

 まず受け身の考え方が重視されていることがわかるだろう。その上で、完全に自分自身を周囲に合わせて状況の変化に委ねるということではないということに注意が必要なのではないか。というのも、周囲で起こったことを受容しながらも、それを自分の関与によって「仕合わせる」ことが重要だとしているのである。

 ここには西洋における主体性とは異なる考え方が見出されるのではないか。

 西洋の「自由」が「みずから」勝ち取るものである一方で、「みずから」ではなく「おのずから」に任せる境地というものがたしかにある。それが、荘子の語る「自在」です。(78頁)

 自然とは「自ずから然り」であるといわれる。ここにおける「おのずから」には、主体性に基づくのではなく、「一切の人為を離れて「私」を無くし、命の全体性に戻る」(78頁)ことで自分と自然とが一体になるという世界観が現出している。

 荘子が目指すのは「おのずから」の変化に従うことですが、人間はどうしても「みずから」考え、行動しようとする生き物ですから、放っておくと「みずから」はどんどん「おのずから」から離れて行ってしまう、ということです。(120頁)

 しかし、わたしたち人間のいわば本性として「みずから」の発想が占めがちになると著者はしている。では「みずから」に囚われないようにするにはどうしたらよいのか。ここではフローに近い考え方が荘子でも展開されている。

 大切なのは、理性が捉えた自己のイメージがここでは次々に打ち破られていく、ということです。何が「自分らしさ」なのかも、すぐに分からなくなります。(122頁)

 手や身体を動かし没頭することで、自分自身を頭で理解しようとするという静的な自分像を壊れていく。そのための概念装置が、荘子の教えなのではないだろうか。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)

2019年9月7日土曜日

【第983回】『流されるな、流れろ!』(川崎昌平、洋泉社、2017年)


 荘子をたのしみたいが、なかなか内容が入ってこない。何冊か読んでもその状況が改善されず苦労している。カジュアルな解説本であり、エッセーに近い本書は、荘子に対して新しいアプローチを試せるいい機会だった。

 感情をぶつける相手がいなければ、「私」という人格すらなくなってしまう。「私」がいなければ、そもそも感情すら湧きようがない。喜怒哀楽も不安や悲しみも、それらが変化することも、すべて「自然」の流れなのだから、気にする必要はない。ムリに感情を押し殺そうとするほうが、よほど不自然な生き方だ(37頁)

 内篇・斉物論第二の「非彼無我、非我無所取。」を取り上げた一節。感情を抑制しないと、感情が自身の言動に影響を与えてしまう。だからコントロールするべきである、と考えてしまいがちだ。

 もちろん、感情が言動に影響を与えてしまうのは良くない。しかし、感情を持つこと自体は悪いことではなく、それを押し殺そうとすることには無理が生じてしまう。言動に影響を与えない状況、つまり感情を感情そのものとして受け止めること。これを心しておきたいと思った。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)

2019年9月1日日曜日

【第982回】『日本沈没(下)』(小松左京、小学館、2006年)


 地殻変動によって日本列島が沈没する可能性が極めて高いことが徐々に明確になる。物語の展開の早さと相待って、緊張感の高まりも次第に増していく。未曾有の災害を扱ったSF作品であるため、読者が過去に経験した災害を良くも悪くも想起させられ、その実感には悍ましくも生々しく、読者を内省させるようだ。

 この物語の主人公と呼べる人々は、早くから日本列島の地殻を襲う変動を調査している。その調査をバックアップしているのが、政界のドンと言われる百歳を超えた老人だ。その老人の、日本および日本人に対する考察が考えさせられる。

 「日本人であり続けようとしても……日本人であることをやめようとしても……これから先は、どちらにしても、日本の中だけでは、どうにもならない。外から規定される問題になるわけじゃからな……。”日本”というものを、いっそ無くしてしまえたら……日本人から日本を無くして、ただの人間にすることができたら、かえって問題は簡単じゃが、そうはいかんからな……。文化や言語は歴史的な”業”じゃからな……。日本の国土といっしょに、日本という国も、民族も、文化も、歴史も、一切合財ほろんでしまえば、これはこれですっきりはしておるが……だが、日本人は、まだ若々しい民族で……たけりをたっぷり持ち、生きる”業”も終わっておらんからな……」(112頁)

 日本の企業組織がダメになれば、外国で外国資本の企業で働けばいいものだと個人としては思っている。いまでもその考えに変わりはないが、果たして、その時に抱くアイデンティティは何か。また外国で「一時的に過ごす」ことと、祖国がなくなって外国で「一生涯を暮らす」ということには絶対的な違いがあるのではないか。

2019年8月31日土曜日

【第981回】『日本沈没(上)』(小松左京、小学館、2006年)


 Eテレ「100分de名著」の小松左京特集で興味を持った一冊。恥ずかしながら著者の書籍を初めて読んだのであるが、簡潔な文章で文体も私のフィーリングに合う。この後も何冊か読んでみたい。

 本書の結論は上記の番組でなんとなくは理解している。加えて、同番組の中でも言われていたが、題名の時点で読者は想定しながら読み進める。しかし、そこに何を見出すかは読者次第ということであり、多様な読み方を許すところが出版当時にミリオンセラーとなるほど売れに売れた理由なのではないか。

 尾をひいて、小さくかがやきつつ、直下の闇へおちていく、三つの星を見つめながら、小野寺は、その大洋の水の壁の巨大さ、その底にひそむ暗黒の怪物の巨大さ、そしてそれに対する人間の存在の小ささ、知識の小ささを感じ、体の芯から冷気がこみあげてくるような気がした。ーーこの広大な道の中を、小さな船に乗ってのぼっていくわびしさが、冷たい海水の圧力といっしょになって、ひしひしと胸をしめつけた。あとの二人も、同じ思いにとらわれているらしく、ひっそりと息をひそめ、暗がりの中に身じろぎもせず、小さな観測窓のうす青い円形に、じっと眼をすえていた。(99~100頁)

 海底の不気味な動きを潜水艦で目の当たりにすることとなった主人公たち。その後、日本列島に襲いかかる天変地異を暗示させる薄ら寒い見事な表現だ。