2019年4月14日日曜日

【第947回】『陋巷に在り 13 魯の巻』(酒見賢一、新潮社、2004年)

 大作がついに大団円を迎える。尼丘での一件が終わり、魯における孔子の政争へと舞台は移る。やや静かな展開の中であればこそ、孔子や顔回の意志が色濃く現れているように思える。クライマックスに近づき、孔子は魯を出る決意を固める。その孔子に従って魯を出ることを、顔回は即決する。

「潰えたものをただ見守るだけでは将来はありません。わたくし回は先生に学ぶ者です。どうして陋巷に残り、一人楽しむことが出来ましょう」(588頁)


 孔子にとって最愛の弟子と言われる顔回は、ひたすらに孔子を尊敬する存在であった。師弟関係の理想として、微笑ましいとともに羨ましくも感じる。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年4月13日土曜日

【第946回】『陋巷に在り 12 聖の巻』(酒見賢一、新潮社、2004年)


 子蓉の兄・悪悦。悪意の塊として描かれる彼もまた、子蓉と同様に過酷な幼少期を過ごしていることが明かされる。子蓉とは異なり、悪意しか感じられない彼が、その大きな力をもって子蓉とは異なるアプローチで尼丘へと至る。

 思えばそもそも力自体に倫理道徳的なものはないのである。力を善く使って福をなすことも出来るし、力を悪しく使って禍をなすことも出来る。使う者は仕合わせにもなれるし、その為に非業にして亡びることもある。しかし使われる力は同じものであり、ただ使う者の意図や目的により他者より道徳的評価が下されるにすぎない。実に単純なことなのである。神の力もそうなのかも知れない。(60頁)

 力には悪も善もない。その保有する者の意思によって良き使い方と悪い使い方とが現れるだけである。先の大戦で多大な犠牲によって人類が学んだことがここでも描かれているようだ。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年4月7日日曜日

【第945回】『陋巷に在り 11 顔の巻』(酒見賢一、新潮社、2004年)


 戦いの舞台は顔儒の総本山である尼丘へと移行する。そこには顔儒に壊滅的なダメージを与える展開が予感される。尼丘へと向かう子蓉の描写は、禍々しいものを描いているかのようでもあるが、神聖なものを描いているようにも受け取れる。向かってくる顔儒を惨殺するシーンにもどこかもの悲しさが現れる。

 子蓉はきちんと復讐してから、故郷を出たはずであった。しかし記憶は残っていた。子蓉をいつでも縛り付けようとするものの正体は自分の中にいる。記憶を殺さねば、まだ何も清算されないのである。子蓉に潜む底無しの残虐性、瞬時に現れる凶暴さはその記憶に由来するものであった。(206頁)

 顔回とともにこのシリーズの主人公に近い存在にもなりつつある子蓉の内にある残虐性が説明される。なぜ人は残虐な行動が取れるのか。それにもかかわらず、通常の状態では「普通の人」のような人物であり得るのか。幼少期からの人格形成について考えさせられる。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年4月6日土曜日

【第944回】『陋巷に在り 10 命の巻』(酒見賢一、新潮社、2003年)


 顔氏の太長老が、自身の娘であり孔子の母親である顔徴在について、妤に対して語り聞かせる。孔子の謎に包まれた誕生における大胆か仮説の提示に魅了されながら一気に読み進められる。以下の引用は、その間に挟まれた顔回と医とのやりとりから。

 秘鍵は問われるものではなく、自ら摑むべきものである。他者の秘匿を考え無しに問うのは非礼である。(324頁)

 一見すると礼に基づいて顔回が医に医術を尋ねただけなのであるが、医はそれに対して怒りを表す。徒に他者に対して尋ねるのではなく、自分で考えて自分で行動してみて会得する。そうした過程を経た上で尋ねるということが礼なのであろうか。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年3月31日日曜日

【第943回】『陋巷に在り 9 眩の巻』(酒見賢一、新潮社、2003年)


 顔回の内的世界かのような九泉での顔回・子蓉・妤のやり取りが終わる。九死に一生を得て再び現実世界に戻った顔回は、寿命の終わりが見えてきた顔儒の長老・太長老と対話する。

 太長老はかれらとは別に孔子の中に、礼を根底から革める可能性を見ているのである。歴史を知る者ならば、今が巨大な変革期であることを覚っているはずだ。顔氏はこのままではいずれその礼とともに滅びるであろう。だが、孔子や顔回によってまったく新しい形で顔氏の礼が生き延びる可能性がある。それがどのようなものか太長老にも想像だに出来なかった。また自分がそんな革まった礼のうちに生きることなど考えたくもなかった。老いが変化を嫌い、いやがるのである。(350頁)

 温故知新に関する長老の述懐のようにも受け取れる。自分自身は変革を厭いながらも、若い者による変革にはある程度の理解を示す。こうした懐の深さがリーダーシップの源泉なのかもしれない。さらに著者は、長老に続けて以下のように述べさせる。

 しかしそれでも可能性なのである。
『述べて作らず。信じて古を好む』
 という信条を持ちながらも、改革者であるという不思議な立場にある孔子であればこその可能性なのだ。そしてその隣には顔回が立っているだろう。太長老が生きて目にすることはかなわないであろうが、礼の変革、新興が成った世界が出現するのである。顔氏の礼は生命をいたずらに長くして生き残るのではない。不死の知識として生き残れるはずなのである。(351頁)

 こういうリーダーと一緒に働きたいものである。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年3月30日土曜日

【第942回】『陋巷に在り 8 冥の巻』(酒見賢一、新潮社、2003年)


 子蓉が操る妤と医との息つまる闘いがクライマックスに近づいた時に、顔回の内面世界へと場面が一転する。この展開もすごいが、顔回の内的な世界を通して論語の世界に触れさせる著者の筆致には恐れ入る。ともするとオカルティックな展開であるが、決して重たくはなくすらすらと読み進められる。

 それが顔回の卓越した知る力のせいである。知るということは子蓉には分かりにくい。知る力は、認識すること、尋ねること、窮めること、分かること、推し測ること、洞察すること、直観すること、他人の心に共感することなどが渾然となった能力である。そのいくつかは子蓉には欠如しているか、萎縮してしまっている能力であった。(318頁)

 孔子をして「一を聞いて十を知る」と言わしめる顔回の学習能力に関する記述である。顔回の受身的な学習に対する態度を子蓉から否定される中で差し込まれる一節に、顔回の凄みが現れる。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年3月24日日曜日

【第941回】『陋巷に在り 7 医の巻』(酒見賢一、新潮社、2002年)


 半死の状態でかろうじて救い出された妤を救うべく尼丘に戻った五六たち。妤に医療を施すべく、異色の名医・医が登場する。この医のキャラが甚だ濃く、医と子蓉との妤を介した闘いが凄まじく、一気に読ませる。

 相手の心情を透視できる医を以ってしても、最初は顔回という人物を評価することができなかったようだ。しかしながら、二言三言交わす過程でその類まれな学習欲求を通じてその可能性を見出す。

 顔回を前にすると自分の考えや知識、何を学べばよいかなどを、うずうずと伝えたくなり、顔回が怠けていたり間違っていたりすると、そんなことは滅多にないことながら、必要以上に叱りつけたくなる。しかも教え甲斐のあることには顔回はそれらを渇いた砂のように吸収して、独りで実践にまで漕ぎ着けてしまうのである。これほど教授する心を動かす男も稀であろう。(210頁)

 学ぶ者として、かくありたいものである。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)