2011年3月27日日曜日

【第18回】『反哲学入門』(木田元著、新潮社、2010年)

哲学とは西洋に独特な思考方法であり、なにも普遍的な思考の枠組みではない。したがって、日本人をはじめとした非・西洋文化圏の人たちが哲学的な思考様式に馴染めないことは当たり前である。

著者が第一章で指摘する上記のような主張に触れて、目から鱗が何枚も落ちるような思いであった。哲学というものに大学受験の頃から好んでかじってきたが、本書を読んで、自身が曲解していた部分やそもそも理解できていない部分が多いことに改めて気づかされた。著者は日本に西洋流の哲学がなかったことを積極的に捉えた上で、ニーチェを祖とする反哲学というアプローチの可能性を述べている。

では反哲学とはなにか。「反」というからには、哲学とはなにかについても合わせて述べねばならないだろう。

著者は、哲学とは超自然的思考でありソクラテス/プラトンからヘーゲルまでの潮流であるとしている。それに対して、反哲学とは自然的思考でありソクラテス/プラトンより前の時代とニーチェ以降の潮流である、とする。

前者は自然と人間とを対立的に捉え、自然を超克すべき対象としているのに対して、後者は人間を自然の一部として包摂されたものとして捉えている。そうした捉え方は日本人のアプローチと近いと言えるだろう。実際に著者は、松尾芭蕉が自然を「造化」と呼び、人間は「造化にしたがひ、造化にかへる」としている部分を引用し、その近似性について指摘している。しっくりとくる例証であると言えるだろう。

では、ソクラテス/プラトン以降の西洋哲学が思想的に全く同じかというと、そういうわけではない。要約すればその流れは三つに大別され、それぞれの思想とキリスト教との関連性を捉えると違いが明瞭になる。

一つめはプラトンおよびその思想を引き継いだアウグスティヌスである。プラトンのイデア論を背景に厳格な政教分離を目指したのがアウグスティヌスであり、彼は「神の国」と「地の国」とを峻別することを説いている。その峻別は、政治と宗教だけではなく、信仰と知識、精神と肉体とを分けるアプローチにも繋がっていると言えるだろう。

それに対して、政教を結びつけることを正当化したのがプラトンの弟子であるアリストテレスと、その思想を継承したトマス・アクィナスである。アリストテレスがプラトンのイデア論を批判したように、教会をイデアとして捉えるのではなく、世俗の諸権力とを連続的に捉えようとしたのである。したがって、彼らの思想を背景として教会による国家への介入は正当化されることとなった。

その結果として、15世紀以降に世俗権力との過度な結びつきにより堕落したキリスト教を改革する、と主張したのがルターやカルヴァンである。彼らの思想の背景にはプラトンやアウグスティヌスの哲学が流れていることは自明であろう。つまり、プロテスタンティズムにはプラトンやアウグスティヌスの思想が背骨になっていると考えることは邪推ではないだろう。

このように、キリスト教史を紐解くと、プラトンとアウグスティヌス、アリストテレスとトマス、という二つの潮流による覇権争いが行なわれていると解釈できる。

こうした二つの潮流はいずれも神による視点であり、もっと人間の視点を重視することが大事ではないか、としたのがデカルトである。なにが存在しなにが存在しないかを決定する役割を「人間理性」が果たすとしたのである。これを端的に示したのが彼の有名な「私は考える、ゆえに私は存在する」である。デカルトをもって西洋近代精神の誕生とみなすことが多いのは、自然超克の思想が強固になったことを意味するのではないだろうか。

と、ここで考えねばならないのが、先週のブログで取り上げたサンデルである。サンデルはコミュニタリアニズムの萌芽をアリストテレスに求めており、これは超自然的思考と形容される系譜にあるのは間違いない。他方で、サンデルの主張は非西洋圏での親和性が高いことを考えると、自然を超克するという発想が強いようには思えない。私たちがサンデルを読む際には、彼が自然をどのように捉えているのかについて仔細に見る必要があるだろうが、私の解釈では、彼の政治哲学は反哲学の系譜に位置づけられるのではないだろうか。

先々週から今回まで、三週に渡って哲学に関する書籍を取り上げてきた。来週は気分を新たにしてビジネス書を取り上げる予定である。おそらくは、『ザッポス伝説』を扱うことになるだろう。

2011年3月21日月曜日

【第17回】『サンデルの政治哲学』(小林正弥著、平凡社、2010年)

昨年テレビで放映されて一大ムーブメントとも言える人気を博した「ハーバード 白熱教室」。毎週ビデオに録画をし、たのしみに観ていた。かじったことのある哲学者の名前や考え方が取り上げられているのは刺激的であり、サンデルの問いかけやファシリテーションは実務上の参考となった。

それにもかかわらず、正直に白状すると、ビデオを観ているといつの間にか転寝してしまうことがよくあった。テーマに興味があるのに、集中が持続しない。生来の「ながら族」が故に、他の行動を取りながら番組を観るという姿勢が宜しくなかった、という側面もあるだろう。しかし、集中が続かなかった理由はそれだけではなかった、ということが本書を読んでよく分かった。

集中が持続しなかったもう一つの理由。それはケースメソッドの前提にあった。ケースメソッド形式の授業の場合、ケースとともに参考文献が指定されることが通例である。したがって、あの番組で議論しているハーバードの学生たちは、サンデルの哲学や授業で扱われる哲学者の考え方を予習した上で議論している。つまり、私の集中が続かなかったもう一つの理由は前提知識の欠落にあったと思える。結論的に言えば、あの番組の議論の深みを味わうためには、視聴者も前提知識を持った上で、かつ議論に参加するような真剣さで鑑賞することが求められていたのではないか。

本書は書名の通り、サンデルの政治哲学を解説した本である。大胆に要約してしまえば、リバタリアニズムとリベラリズムを批判的に捉えた上で、コミュニタリアニズムの思想的な可能性を示唆する、という内容である。それぞれの流派を対比的に論じているために、論旨が明快であり分かり易い。そして、こうしたサンデルの哲学の背景を踏まえた上で、前掲番組の書籍版とも言える『これからの「正義」の話をしよう』(以下『正義』と略記)を読んでみた。すると一つひとつの話題の深みを理解でき、一気に読み終えてしまった。前提知識がない状態で悪戦苦闘しながら番組を見ていたときとは好対照である。そこで、『正義』を未読の方には本書をセットで読むことを強くお勧めしたい。

むろん、こうした前提条件を満たしただけで本書および『正義』を一気に読み終えたわけではないだろう。それは必要条件であって、十分条件ではない。その大きな理由は、私がかつてはまった哲学者であるベンサムとロールズを批判的に論じられているからである。ベンサムの功利主義はリバタリアニズムへと継承される考え方であり、ロールズはリベラリズムの代表的論者である。好きな人物を批判されて興味深いというのもおかしいのかもしれないが、これらの人物は哲学者である。哲学者は批判されてこそ価値があると思うし、そうされることで読者は俯瞰的に哲学の体系を理解することができる。だからこそ、好きな哲学者や著者ほど批判されてほしいと考えるのである。

コミュニタリアニズムについて本格的に触れるのは今回がはじめてであるが、偶然にもリバタリアニズムやリベラリズムの思想的限界を真剣に考えたことがある。今から12年前、母校の受験会場で小論文の試験に取り組んだときである。設問は、大きい政府と小さい政府に関する文章を読んだ上で、どちらかの立場に立って他方を批判的に論じよ、というものであった。本書に関連して記せば、大きい政府の思想的な背景にはリベラリズムがあり、小さい政府の背景にはリバタリアニズムがある、と言えるだろう。

18歳の私は、リベラリズム的な考え方の利点を主張し、リバタリアニズムの問題点を指摘した上で小さい政府を批判した。そこですんなりと終えればよかったのであるが、二項対立的な書き方で果たして良いのか、と疑問に思ったのである。なぜなら、リベラリズムにも限界があり、他方でリバタリアニズムにそれを補完する可能性があるのではないか、と考えたからである。さんざん迷った私は、二割弱の分量を割いて、「そもそも問いを二項対立的にしているのが誤りであり、小さい政府にもこれこれのメリットがあるので全面的に批判するのは問題」という趣旨のことを書いた。

この時点でコミュニタリアニズムという具体的な方向性は見えていなかったのだが、その萌芽を感受した原体験であったのではないか、と今になって思えるのである。つまり、リベラリズムとリバタリアニズムでは解決できないなにかがあり、それをどう解消しようかと悩んだのである。このように考えると、今回の読書体験はあのときの「宿題」に取り組む良い機会であったと意味づけられて感慨深い。

私が本書を面白く読んだ理由は上記の通りであるが、なぜ今サンデルが流行っているのか。それは極端な考え方が蔓延しがちな状況の中で、判断力を高めることの必要性を多くの人が感じ取っているからではなかろうか。というのも、サンデルは『正義』の中で自身の哲学の正しさを主張するのではなく、対話の大事さを主張している。異なる立場の人同士が持論を主張しあうだけでは『バカの壁』の状態に陥るだけである。そうした状況を止揚するために、サンデル的な対話および正義を考える思考的枠組みが求められているのではないだろうか。

その前提には自己の中での多様性も大事である。つまり、必ずしもサンデルだけが正しいのではない。あるときはサンデル的な考え方をし、違うときにはベンサムやロールズの考え方を使えるといった具合に、自身の頭の中に引き出しを用意し、それを適切なときに開けるための準備をしておくことが大事なのではないだろうか。

<参考文献>
マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』早川書房、2010
養老孟司『バカの壁』新潮社、2003





2011年3月13日日曜日

【第16回】『国家とはなにか』(萱野稔人著、以文社、2005年)

まず、この場を借りて、今回の地震に被災し、今も苦しんでいらっしゃるみなさまに心からお見舞い申し上げます。

こうした事態に対して私にできることはなにか、と思案した結果、お金を寄付することがベストなのではないかと考えている。寄付という行為に関する最も古い記憶は阪神淡路大震災のときである。当時、中学三年生であったのであるが、クラスメート全員で寄付金を集め送らせてもらったことが原風景としてある。こうした昔の記憶や現在の行為を鑑みると、外国で起きた天災事変に対してよりも、<日本国>内で起きたものに対してより積極的に寄付を行なってしまう心情は否定しがたい。このように考えると、<日本国>という国家、また<日本人>としての私という存在を改めて意識するのである。

本書は暴力の集中化が国家を形成するという考え方を取っている。やや長くなるが、まずは暴力という誤解を招き易い言葉について解説する。暴力という言葉を見ると「暴力装置」発言で大臣を辞めた方を多くの方が想起されるのであろうが、私自身はあの事件に関する報道を憂慮する者である。たしかに、「暴力装置」という誤解を招き易い言葉を、大臣という立場にある人物が使ったことは誤りであったと思う。数週間前に論じた鯖田さんの著書にもあるように、<日本人>は戦争を想起するものに対して心理的に抵抗感を抱きやすいからである。

しかし、ウェーバーを持ち出すまでもなく、「暴力装置」という言葉自体は価値中立的な言葉であり、いわば「右」とも「左」とも関連しないものである。ウェーバーの著書を理解しているはずであるマスメディアの記者たちが、その背景を捨象して「暴力装置」発言のみを取り上げることは、大臣を攻撃するためのものにすぎない。そうした姿勢のみがマスメディアを席巻してしまうという事態は、言論の多様性を著しく否定するマスメディアの自壊的行為とも言えるのではないだろうか。このような文脈で私はあの事件の一連の報道を憂慮しているのである。

暴力とは、実際に行使するのではなく潜在的に行使できる可能性の領域に留まっている限り、相手の行為領域を規定できる、と本書は主張する。暴力の行使そのものは、相手に痛みや怪我といった身体的状態を引き起こすだけであり、相手に意図して行動を取ってもらうことにはつながらないからである。こうした潜在的な暴力の行使可能性を権力と呼ぶ。国家は、否定的な行動への罰としての暴力発動によって権力を実践し、また権力を示威することで暴力の蓄積を行なう、という権力と暴力の相乗的な関係性を用いて成立している、と言えるだろう。

こうした暴力の集中化による国家の形成は、近代国家のはじまりの時期と符合する。言い換えれば、それ以前の国家は、国王どうし、商人どうし、農業従事者どうし、といった国家を超えた職能団体のつながりが強いネットワーク的な多元的国家であり、○○人であるという同胞意識は強くなかったのである。そうした状況で国家を統一させていたものは宗教的な権威であり、近代国家の形成は、宗教的な権威から政治的な権威が自律した結果であると言えるだろう。

では国家を形成する思想的なバックボーンが宗教でなくなった後に、なにがそれに代替したのか。その代替物が「われわれの歴史」という歴史意識である。つまり、その国家の領土内に存在した各時代の政府が担ってきた政治や経済、そこで暮らす人々の生活や伝統を意図的に編纂したものを、国民の歴史として見做すのである。こうして、国家に属する人々の意識の統一化を試みたわけである。

また、国家に存する権力関係の脱人格化という現象も見逃せない。つまり、近代国家では特定の人物に権力が集中するのではなく、特定の機能に権力が集中する形式になっている。こうした匿名の権力化が暴力の組織化を抽象化する。抽象化された権力は、機能を介在してそれを担う人物に関与するため、その人物の意識を希釈化する。つまり、自分の意思決定が最終的な暴力行使に至るまでに無機質なプロセスを経るために、その判断は強化され易いのである。こうした現象もまた、意識の統一化を強化することに繋がるといえるだろう。

上述したことは国家側からの意識の統一化あるが、他方で国民の側から意識の統一化を行なうものがナショナリズムの作用である。なぜ暴力の蓄積形態である国家に対して国民がナショナリズムを希求するのか。それは、国家の暴力はその領土内に住む国民のために行使される、という意識を国民が保有しているからである。

こうしたナショナリズムは類似性に基づく同胞意識の形成にも繋がる。ここにおける類似とは作為的なものである。本書によれば、<われわれ>と<外国人>との間には客観的な差異が予め存在するわけではなく、<われわれ>の同一性が構成される方法こそが、誰が<外国人>でありどのような差異が<われわれ>と<外国人>とを隔てているのかを決定するとしている。つまり、<われわれ>の歴史意識とナショナリズムとは相互に強化し合う密接な関係性を有していると言えるだろう。

では、こうした想像された歴史意識というようなアンダーソンが述べるような国家=フィクション論によって国家と想像されたものとを切り分ければよいのか。本書はそうした考え方を取らない。国家を純然たるイデオロギー装置と捉えることは、暴力の蓄積と権力の正当化という実態的なものを見失うことに繋がるからである。しかし、はたしてその通りなのか。このあたりの議論は、『想像の共同体』やアンダーソンの近著を参考にしながら、近日中に考えてみたい。

本書では国家のメカニズムについて哲学的に論じられていたわけであるが、何が正しいのかといういわば正義に関するものについては触れられていない。そこで次回は、国家単位に囚われず政治哲学の領域から正義について考えたい。取り上げるのは去年流行したマイケル=サンデルさんの著書である。

<参考文献>

鯖田豊之『世界の歴史(9)ヨーロッパ中世』河出書房新社、1989
鯖田豊之『日本人の戦争観はなぜ「特異」なのか』主婦の友社、2005
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』書籍工房早山、2007
梅森直之編『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』光文社、2007










『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫・萱野稔人著、集英社、2010年)

2011年3月6日日曜日

【第15回】『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫・萱野稔人著、集英社、2010年)

いざなぎ超えと言われた20021月~200710月までの69ヶ月に渡る経済成長。この未曾有の好景気を肌感覚として実感できなかった最大の理由は所得が増えなかったからである。では好景気がなぜ国民の所得増をもたらさなかったのか。

本書ではその根本原因を諸外国との交易条件の悪化に見ており、その最も大きなインパクトを与えているものは石油をはじめとした天然資源であるとしている。つまり、好景気によって主に海外への売上が上昇した一方で、生産過程で使われる天然資源の価格高騰により支出が増えたために効果が相殺。その結果として、利益が逼迫して所得の上昇に蓋をした、という構図である。

と、ここまでは普通の議論であるが、本書では天然資源の交易条件が悪化した歴史的な背景を経済および国家という二つのファクターで丹念に議論されているのが特徴的である。

歴史を遡れば、1960年代までは石油メジャーと呼ばれる大手数社が油田の採掘や石油価格を実質的に支配していた。これは、西欧の中心的国家が周辺部に植民地を設け、土地を囲い込むことで資源や市場、労働力を安価に手に入れて経済発展を遂げる、という帝国主義的なアプローチと言えるだろう。しかし、脱植民地化運動や資源ナショナリズムの高揚で中東の資源国が発言力を高めたためにOPECの価格決定力が増した。中東諸国と石油メジャーとの勢力が逆転した事実を端的に表したのが1973年に起きたいわゆるオイルショックである。

中東の石油産出国が影響力の源泉としていたのは、石油の採掘に伴う労働力や土地という実態経済であった。それ以前の石油メジャーも同じ権益により支配力を維持していたのであり、同一のルールに則って勢力の交代が行なわれたと言える。

しかしその後、ルールが変わる。OPECの価格支配に対抗するために、石油を金融商品化して国際石油市場を整備し、金融商品の売買によって利潤を得ようという動きが1990年前後からアメリカを中心に起きたのである。つまり、実体経済に影響を与える地政学的な枠組みが取り払われ新しい経済の流れが生まれたのである。

このような大きな流れで捉えれば、イラク戦争は石油利権という実態経済上の利益を得るための戦争ではない。そうではなくて、ドルを基軸通貨とする国際石油の金融市場のルールを守るためのアメリカによる戦争である、と本書は指摘する。当時を思い起こせば、ユーロが基軸通貨として台頭していた時期であり、基軸通貨競争でドルがユーロに敗れる事態になれば、アメリカが金融取引を通じて内外で得ている利潤が一気に消滅する危険性があったわけである。そのような時代背景の中でイラクは石油をユーロによる取引にすると発表した。したがって、アメリカとしては、他のあり得る理由を根拠にして、自国通貨を守るために戦争を行なったのではないか、という主張である。

この主張の合理性の判断は読者諸氏に任せるとしても、領土を経由せずに、金融取引をもとにして他国の経済を支配するというのが現在のグローバル化であるという論点は充分に首肯できるものと言えるのではないか。そして、その流れに乗り遅れているのが日本経済であるということも言えるだろう。

では、巷間でよく言われるように、こうしたグローバル化の進展に伴って国家の存在意義はなくなるのであろうか。本書ではこのような考え方は否定されている。たしかに近代以降に支配的であった国民国家という形態に変化は起きているが、それは国家じたいがなくなるということではないというのである。というのも、市場と国家とはときに対立的に捉えられるが、それは誤った捉え方であり、市場経済と国家とは共犯関係にあるのである。

つまり、近代資本主義の進展は、暴力を扱う国家と、労働を管理する資本家とを分離する作用をもたらした。国家は暴力を背景として保有する領土内の人民から租税を徴収し、自国以外の存在からの略奪の危険性を排除する。そうした安全面での保障を背景に資本家は経済活動を行なうことで富を蓄積して労働者に配分し、また国家に対して租税を納めて国家の強化に繋げるという構図である。やや穏やかでない書き方になっているが、要は、市場と国家との相互依存関係がイメージしていただければありがたい。

こうした国民国家の形態が変わりつつある、ということはどういうことであろうか。本書によれば、実は、冒頭で記した金融化に向かう現象は現代のみに特有のものではない。つまり、実物経済の利潤低下、金融化の拡大、バブル発生、ヘゲモニーの終焉、という一連のプロセスは、スペインやポルトガル、オランダ、イギリス、といったかつてヘゲモニーを担った国々がかつて経験したプロセスと同じなのである。したがって、我々はこうした脱近代的な社会システムの構築が必要である、というのが本書の結論である。

では、どうすれば良いのか。交易条件を軸にして国家と資本市場との関係性を論理的に導き出す本書の視点は見事であるが、具体的なアプローチは強調されていない。したがって、他の書にその方向性を見てみたい。

私が参考になると思ったのは藻谷浩介さんの『デフレの正体』である。第一に、交易条件が優れた外国に学ぶ、という視点である。その最たる模範例がブランド化である。フランス、スイス、イタリアはITや金融で世界を席巻するということはないが、優れたブランド商品を売ることで莫大な貿易収支を国外から得ている。卑近な例であるが、自家用車は買わないがブランド商品は年に数十万円も消費する、という日本の家庭を思い浮かべれば、その戦略の有効性は自明であろう。したがって、とりわけ新興市場で売れるブランドを強化することが日本の交易条件を強化するために有効なのである。

これ以外にも、高齢富裕層から若者への所得移転を進める、女性労働力の活用、外国人観光客と短期定住者の積極的受け入れる、といった施策が展開されている。個別の議論は本を読んでいただくとして、ここで考えたいことは、こうした具体的で実効性がありそうに思える施策がなぜ現実の経済界や政治界で展開されてこなかったか、ということである。

藻谷さんの主張は、既存の経済「学」の射程にない発想に拠るものである、というのがその大きな理由であるのではないだろうか。つまり、藻谷さんが主張する上述の施策は、サプライ・サイドではなくてディマンド・サイドの施策であり、ディマンド・サイドの富の蓄積主体の移転を主張している。しかし、経済学において、ディマンド・サイドの中身を因数分解するという議論は正当な経済学の射程外なのではないだろうか。そうであるからこそ、藻谷さんや水野さんは「正当な経済学者」から異端として批判されているのであろう。

私はどちらが正しいということを申し上げたいわけではないし、経済学を専門に学んだ人間ではないので言える立場にもない。しかし、既存の経済学、とりわけケインジアンが主張してきたもので言えば、たとえばIS-LM曲線に基づく経済施策は日本経済に効果が薄かったと認識している。2000年代に行なわれた公共工事の増加、地域振興券の配付、高速道路料金の低減、といった財政政策(IS曲線を右側にシフトさせようとする施策)、ゼロ金利政策による金融政策(LM曲線を右側にシフトさせようとする施策)。こういった典型的な経済政策が所得向上に繋がらなかった事実を直視すれば、既存の経済学だけでは対処できないという現実を見つめなければならないだろう。だからこそ、水野さんや藻谷さんといった辺境の経済学者の意見に耳を傾けることは有益なのではないだろうか。

追記
本書は経済と国家に関する書籍であるので両者について書きたかったのであるが、今回は経済に関する記述に傾注しすぎてしまった。そこで、来週は、本書の共著者である萱野さんの『国家とはなにか』を参考にして国家に焦点を当てて書いてみたい。

<参考文献>
福田慎一・照山博司『マクロ経済学・入門』有斐閣、1996
藻谷浩介『デフレの正体』角川書店、2010