哲学とは西洋に独特な思考方法であり、なにも普遍的な思考の枠組みではない。したがって、日本人をはじめとした非・西洋文化圏の人たちが哲学的な思考様式に馴染めないことは当たり前である。
著者が第一章で指摘する上記のような主張に触れて、目から鱗が何枚も落ちるような思いであった。哲学というものに大学受験の頃から好んでかじってきたが、本書を読んで、自身が曲解していた部分やそもそも理解できていない部分が多いことに改めて気づかされた。著者は日本に西洋流の哲学がなかったことを積極的に捉えた上で、ニーチェを祖とする反哲学というアプローチの可能性を述べている。
では反哲学とはなにか。「反」というからには、哲学とはなにかについても合わせて述べねばならないだろう。
著者は、哲学とは超自然的思考でありソクラテス/プラトンからヘーゲルまでの潮流であるとしている。それに対して、反哲学とは自然的思考でありソクラテス/プラトンより前の時代とニーチェ以降の潮流である、とする。
前者は自然と人間とを対立的に捉え、自然を超克すべき対象としているのに対して、後者は人間を自然の一部として包摂されたものとして捉えている。そうした捉え方は日本人のアプローチと近いと言えるだろう。実際に著者は、松尾芭蕉が自然を「造化」と呼び、人間は「造化にしたがひ、造化にかへる」としている部分を引用し、その近似性について指摘している。しっくりとくる例証であると言えるだろう。
では、ソクラテス/プラトン以降の西洋哲学が思想的に全く同じかというと、そういうわけではない。要約すればその流れは三つに大別され、それぞれの思想とキリスト教との関連性を捉えると違いが明瞭になる。
一つめはプラトンおよびその思想を引き継いだアウグスティヌスである。プラトンのイデア論を背景に厳格な政教分離を目指したのがアウグスティヌスであり、彼は「神の国」と「地の国」とを峻別することを説いている。その峻別は、政治と宗教だけではなく、信仰と知識、精神と肉体とを分けるアプローチにも繋がっていると言えるだろう。
それに対して、政教を結びつけることを正当化したのがプラトンの弟子であるアリストテレスと、その思想を継承したトマス・アクィナスである。アリストテレスがプラトンのイデア論を批判したように、教会をイデアとして捉えるのではなく、世俗の諸権力とを連続的に捉えようとしたのである。したがって、彼らの思想を背景として教会による国家への介入は正当化されることとなった。
その結果として、15世紀以降に世俗権力との過度な結びつきにより堕落したキリスト教を改革する、と主張したのがルターやカルヴァンである。彼らの思想の背景にはプラトンやアウグスティヌスの哲学が流れていることは自明であろう。つまり、プロテスタンティズムにはプラトンやアウグスティヌスの思想が背骨になっていると考えることは邪推ではないだろう。
このように、キリスト教史を紐解くと、プラトンとアウグスティヌス、アリストテレスとトマス、という二つの潮流による覇権争いが行なわれていると解釈できる。
こうした二つの潮流はいずれも神による視点であり、もっと人間の視点を重視することが大事ではないか、としたのがデカルトである。なにが存在しなにが存在しないかを決定する役割を「人間理性」が果たすとしたのである。これを端的に示したのが彼の有名な「私は考える、ゆえに私は存在する」である。デカルトをもって西洋近代精神の誕生とみなすことが多いのは、自然超克の思想が強固になったことを意味するのではないだろうか。
と、ここで考えねばならないのが、先週のブログで取り上げたサンデルである。サンデルはコミュニタリアニズムの萌芽をアリストテレスに求めており、これは超自然的思考と形容される系譜にあるのは間違いない。他方で、サンデルの主張は非西洋圏での親和性が高いことを考えると、自然を超克するという発想が強いようには思えない。私たちがサンデルを読む際には、彼が自然をどのように捉えているのかについて仔細に見る必要があるだろうが、私の解釈では、彼の政治哲学は反哲学の系譜に位置づけられるのではないだろうか。
先々週から今回まで、三週に渡って哲学に関する書籍を取り上げてきた。来週は気分を新たにしてビジネス書を取り上げる予定である。おそらくは、『ザッポス伝説』を扱うことになるだろう。