2011年3月13日日曜日

【第16回】『国家とはなにか』(萱野稔人著、以文社、2005年)

まず、この場を借りて、今回の地震に被災し、今も苦しんでいらっしゃるみなさまに心からお見舞い申し上げます。

こうした事態に対して私にできることはなにか、と思案した結果、お金を寄付することがベストなのではないかと考えている。寄付という行為に関する最も古い記憶は阪神淡路大震災のときである。当時、中学三年生であったのであるが、クラスメート全員で寄付金を集め送らせてもらったことが原風景としてある。こうした昔の記憶や現在の行為を鑑みると、外国で起きた天災事変に対してよりも、<日本国>内で起きたものに対してより積極的に寄付を行なってしまう心情は否定しがたい。このように考えると、<日本国>という国家、また<日本人>としての私という存在を改めて意識するのである。

本書は暴力の集中化が国家を形成するという考え方を取っている。やや長くなるが、まずは暴力という誤解を招き易い言葉について解説する。暴力という言葉を見ると「暴力装置」発言で大臣を辞めた方を多くの方が想起されるのであろうが、私自身はあの事件に関する報道を憂慮する者である。たしかに、「暴力装置」という誤解を招き易い言葉を、大臣という立場にある人物が使ったことは誤りであったと思う。数週間前に論じた鯖田さんの著書にもあるように、<日本人>は戦争を想起するものに対して心理的に抵抗感を抱きやすいからである。

しかし、ウェーバーを持ち出すまでもなく、「暴力装置」という言葉自体は価値中立的な言葉であり、いわば「右」とも「左」とも関連しないものである。ウェーバーの著書を理解しているはずであるマスメディアの記者たちが、その背景を捨象して「暴力装置」発言のみを取り上げることは、大臣を攻撃するためのものにすぎない。そうした姿勢のみがマスメディアを席巻してしまうという事態は、言論の多様性を著しく否定するマスメディアの自壊的行為とも言えるのではないだろうか。このような文脈で私はあの事件の一連の報道を憂慮しているのである。

暴力とは、実際に行使するのではなく潜在的に行使できる可能性の領域に留まっている限り、相手の行為領域を規定できる、と本書は主張する。暴力の行使そのものは、相手に痛みや怪我といった身体的状態を引き起こすだけであり、相手に意図して行動を取ってもらうことにはつながらないからである。こうした潜在的な暴力の行使可能性を権力と呼ぶ。国家は、否定的な行動への罰としての暴力発動によって権力を実践し、また権力を示威することで暴力の蓄積を行なう、という権力と暴力の相乗的な関係性を用いて成立している、と言えるだろう。

こうした暴力の集中化による国家の形成は、近代国家のはじまりの時期と符合する。言い換えれば、それ以前の国家は、国王どうし、商人どうし、農業従事者どうし、といった国家を超えた職能団体のつながりが強いネットワーク的な多元的国家であり、○○人であるという同胞意識は強くなかったのである。そうした状況で国家を統一させていたものは宗教的な権威であり、近代国家の形成は、宗教的な権威から政治的な権威が自律した結果であると言えるだろう。

では国家を形成する思想的なバックボーンが宗教でなくなった後に、なにがそれに代替したのか。その代替物が「われわれの歴史」という歴史意識である。つまり、その国家の領土内に存在した各時代の政府が担ってきた政治や経済、そこで暮らす人々の生活や伝統を意図的に編纂したものを、国民の歴史として見做すのである。こうして、国家に属する人々の意識の統一化を試みたわけである。

また、国家に存する権力関係の脱人格化という現象も見逃せない。つまり、近代国家では特定の人物に権力が集中するのではなく、特定の機能に権力が集中する形式になっている。こうした匿名の権力化が暴力の組織化を抽象化する。抽象化された権力は、機能を介在してそれを担う人物に関与するため、その人物の意識を希釈化する。つまり、自分の意思決定が最終的な暴力行使に至るまでに無機質なプロセスを経るために、その判断は強化され易いのである。こうした現象もまた、意識の統一化を強化することに繋がるといえるだろう。

上述したことは国家側からの意識の統一化あるが、他方で国民の側から意識の統一化を行なうものがナショナリズムの作用である。なぜ暴力の蓄積形態である国家に対して国民がナショナリズムを希求するのか。それは、国家の暴力はその領土内に住む国民のために行使される、という意識を国民が保有しているからである。

こうしたナショナリズムは類似性に基づく同胞意識の形成にも繋がる。ここにおける類似とは作為的なものである。本書によれば、<われわれ>と<外国人>との間には客観的な差異が予め存在するわけではなく、<われわれ>の同一性が構成される方法こそが、誰が<外国人>でありどのような差異が<われわれ>と<外国人>とを隔てているのかを決定するとしている。つまり、<われわれ>の歴史意識とナショナリズムとは相互に強化し合う密接な関係性を有していると言えるだろう。

では、こうした想像された歴史意識というようなアンダーソンが述べるような国家=フィクション論によって国家と想像されたものとを切り分ければよいのか。本書はそうした考え方を取らない。国家を純然たるイデオロギー装置と捉えることは、暴力の蓄積と権力の正当化という実態的なものを見失うことに繋がるからである。しかし、はたしてその通りなのか。このあたりの議論は、『想像の共同体』やアンダーソンの近著を参考にしながら、近日中に考えてみたい。

本書では国家のメカニズムについて哲学的に論じられていたわけであるが、何が正しいのかといういわば正義に関するものについては触れられていない。そこで次回は、国家単位に囚われず政治哲学の領域から正義について考えたい。取り上げるのは去年流行したマイケル=サンデルさんの著書である。

<参考文献>

鯖田豊之『世界の歴史(9)ヨーロッパ中世』河出書房新社、1989
鯖田豊之『日本人の戦争観はなぜ「特異」なのか』主婦の友社、2005
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』書籍工房早山、2007
梅森直之編『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』光文社、2007










『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫・萱野稔人著、集英社、2010年)

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