2011年4月24日日曜日

【第22回】Luck is no accident 2nd edition(John D. Krumboltz, Impact Publishers, 2010)

In career theories, there are two types. One is static approach, and the other is dynamic one. Each of them has own merits. At every our career stages, it is important for us to judge which is better to use.

When we face serious transitions or career change, static approach fits to us. Static approach helps us to reflect our career process. After we reflect our past of career and life, we can clear our core values. And also we can find out our strong points in our work career.

But the environment of our work place is not static, and the changing speed is getting faster and faster now. Based on the changing environment, the important skills of our work are also changing.

Then, what should we do ?

When we want to see our future career, the dynamic approach is useful. This book is written about it. Using the planned happenstance approach, we have the chance to stretch our hidden value. Through doing it, we may create the inner environment.

And continuing to challenge leas us to the life long learning. When we want to challenge in our work, we have to learn a lot of things. On the other hand, learning wider knowledge leads us to deepen our work. In this book, there are many hints to use by ourselves.

Of course it is important for employees to think about their own career and life. But, it is also important for employers to care the career of their employees.

Though some kind of career workshop is important, but posting is one of the important factors of career development. The company which does care the timing of posting may consider employees as important capitals.

2011年4月17日日曜日

【第21回】『プレップ労働法【第3版】』(森戸英幸著、弘文堂、2011年)

INAXメンテナンス事件の最高裁判例が出されたときに本書を読んでいた、というのは偶然の一致である。しかし、その偶然の一致によって、労働者とはなにかということを強く意識しながら本書を読むこととなった。

労働法とは、事業主や管理者と労働者との関係性を扱う法律であり、より一般化すれば私人間の法的問題を取り扱うものである。私人間の法的問題を扱うおおもとの法律は民法であるのだから、民法と労働法との関係性について述べることで筆者は本書を書き進めている。

では民法に対する労働法の意義はなにか。端的に記せば、職場に適しづらい民法の考え方をケアするのが労働法である。筆者によれば、民法の考え方の大前提である契約当事者の平等をそのまま職場に適用してしまうと、労働者と使用者とは対等な立場にあるということになってしまう。すなわち、自由に契約を解除できるという民法の法理をそのまま適用すると、使用者は労働者を自由に解雇することができることとなってしまう。こうした民法による契約当事者の平等性を企業における労働の実態に近づけるかたちで法律化したものが労働法なのである。

労働者の使用者に対する劣位な状況を改善するための枠組みの一つとして、労使協定がある。労使協定の成立要件に過半数組合または過半数代表者の同意を要件としていることは、労働者と使用者とが一対一で自由に契約を結ぶことの潜在的な不利性を緩和しようとしていることであろう。労働者が複数集まることで使用者との対等な関係を築くことが労基法の基本的な考え方なのである。

こうした文脈で捉えるとINAXメンテナンス事件の最高裁判例に考えさせられることは多い。

本事件は、高裁判例が出された時点で後述するものをはじめとしたいわゆる「判例集」に取り挙げられるほど注目されていたものである(判例集に載るもののほとんどは最高裁判例である)。争点は、個人事業主が労組法上の労働者として認定されるか否か、ということであった。

地裁、高裁に続き、数日前の最高裁においても、労働状況を実態的に判断することで、個人事業主であっても労組法上の労働者として認定されるという判決が出された。特定の企業に雇われない存在である個人事業主に労働者性が認められることは、これまで企業内に閉じられていた労働法の守備範囲が企業外にまで広がったと言えるだろう。

この具体的なインパクトの一つとして本書を読んで類推したものが、労働協約の拡張適用に関するものである。労組法17条によれば、「一の工場事業場」に常時使用される「同種の労働者」の4分の3以上がある1つの労働協約の適用を受けることになった場合には、その工場事業場に使用される他の同種の労働者、つまり非組合員に関しても、その協約が適用される。この条文の効果の一つとして、著者は拡張適用が職場の労働条件の統一化に繋がることを指摘している。

したがって、労組法上の労働者として認定される個人事業主は、同種の労働者に近い労働条件を認められるようになるのではないか、というのが初学者である私なりの類推である。このように考えるため、今回の判例の影響の大きさを感じ取るのである。

他方で、INAXメンテナンス事件の判例を手放しで称揚するわけにもいかないようだ。明治大の野川教授は『労働判例インデックス【第2版】』において、同事件の高裁の判旨における個人事業主を労働者として認定する判断枠組みの硬直性を指摘している。つまり、実態判断の判断枠組みを今後の判例で積み上げていく、ということが裁判所や学者に求められることになるのであろう。

そうした労働法の解釈と現場のビジネスへの適用に対して、一人の人事実務者として意識を強く持つことは言うまでもない。個人事業主のような自由で柔軟性の高い新しい働き方をいたずらに制約するような判例や法解釈に対しては、実務者として声を上げていく必要があるだろう。実態判断の解釈の難しさにより、個人事業主の労働者性をめぐる裁判が多くなることが予想されるため、引き続き注視していきたい。

<参考文献>
野川忍『労働判例インデックス【第2版】』商事法務、2010



2011年4月10日日曜日

【第20回】『歴史とは何か』(E.H.カー著、岩波書店、1962年)

歴史の書物を読む際には、書物に書かれている「事実」ではなく、それを書いた歴史家に関心を持つべきである。

著者の簡潔にして明瞭なこの指摘はもっともである。歴史の書物を含めて、文章を書くという行為は、多様で膨大な事実のほとんど全ての部分を捨象し、換言すれば、ほんの一部の事実を抽象化して述べることに過ぎない。

続けて著者は、膨大な事実の入力と、それに続く抽象と捨象、その結果として文章を出力する、という一連の流れにより、書き手自身が見出したものの意味や重要性を俯瞰することができると言う。つまり、読むことと書くことの相互作用であり、アウトプットを意識した上でのインプットの重要性がここで示唆されているとも読めよう。これは、組織行動論の大家であるカール・E・ワイクが用いる「わたしがなにを言いたいかは、言ってみないとわからない」という話にも通ずる指摘であると言える。インプットがアウトプットを規定するとともに、アウトプットがインプットを規定するのである。

こうした歴史家と事実との相互作用の不断の過程として歴史は成り立つ。さらに著者は、歴史哲学という学問は科学が為すような一般化を射程範囲に捉えると主張している。つまり歴史は、多様な解答を単純化することで、混沌とする事実の諸連関に秩序と統一とを導き入れるのである。

ここで私たちは一般化の持つ可能性と危険性について想起する必要があるだろう。過去の混沌とした事実に対して意味性を見出して現代社会への適用可能性を導出するというのが歴史の持つ可能性である。他方、恣意的に過度な一般化を行なうことで自身の主張を扇動するポピュリスト的な歴史家の言説には注意を喚起する必要がある。

国家という主体が提唱する歴史も同様である。ベネディクト・アンダーソンが指摘するように、国家が「正しい」とする「歴史」を「国民」が読むことで「想像された共同体」が生まれる様は、歴史の危険性の一部と捉えて構わないだろう。ナショナリズムは、内部の同一性を高めるとともに、外部への排他性をも高める作用をもたらすからである。

このように、一般化の危険性を勘案した上で可能性に焦点を当てることで歴史の持つ意義を享受できる。では、歴史家と歴史の相互作用はどこに向かうのであろうか。その捉え方は、西洋文化圏に属する著者と、非・西洋文化圏にいる人々とで異なるように思える。

まず著者は、私たちを取り巻く環境に対する理解力と支配力を増すことに歴史の意義を見出している。環境適応を行ない続けるために、間断なく歴史を描き続け、超長期的に目指すべき一つのあるべき歴史像を実現する、という発想である。これは、著者も指摘しているように、キリスト教における絶対者の代替物として歴史および歴史哲学というものを位置づけているのである。歴史をいわばイデアのように捉えるこの感覚が、非西洋文化圏に属する私には、分かるようで分からない。

この「分かるようで分からない」感覚は、以前のエントリーで扱った野内さんの『偶然を生きる思想』がよく解説してくれている。端的に二項対立的に改めて述べれば、「日本人は歴史を川の流れのように循環するものと捉える」のに対して、「西洋では、歴史を構築物的な持続性のあるものと捉える」(http://bit.ly/hObxPA)。歴史に対するこの感覚の相違が著者の上記の主張への違和感となっているのであろう。

違和感について否定的に捉えるむきもあるかもしれないが、私はむしろそこに積極的な意味合いを見出しており、違和を感じることに大きな可能性を感じている。違和感とは、自分たちのものの見え方を相対的に理解する契機になるからだ。

歴史に対する考え方、またその西洋とそれ以外の文化圏の違和感について触れられる本書を読む経験は、著者と読者との建設的な相互作用をもたらす良い機会となるのではないだろうか。

<参考文献>
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』書籍工房早山、2007
野内良三『「偶然」から読み解く日本文化 日本の論理・西洋の論理』大修館書店、2010





2011年4月3日日曜日

【第19回】『ザッポス伝説』(トニー・シェイ著、ダイヤモンド社、2010年)

偉大なリーダーが世の中にはいるものだ。

ザッポスCEOのトニー・シェイが自ら著した本書には、バリューや経営戦略の真髄が至るところに現れている。実務家の生の声がこれほど経営学のフォーマル・セオリーに結びついている書籍はあまりない。コア・バリューと経営戦略との整合性がザッポスの強みであるが、そのバリューを成り立たせているのはザッポスに至るまでの著者の半生にあるのではないか。

著者は幼少の頃から儲けることが好きで事業を立ち上げていたと述懐している。ハーバードを卒業した後に創業した企業の売却によって巨万の富を得ることで、生まれてから追い続けてきた「儲ける」という目標を十二分に達成したわけである。

しかし、目標達成の直後に違和感をおぼえ、立ち止まり、深く内省する。著者は「幸せを感じた時のリスト」を作成し、そうして列挙されたリストにお金が伴っていないことに気づく。そして、優れた組織を創り上げることに焦点を当て始める。

優れた組織を創り上げる背景には、組織論と戦略論とが関連する。「組織は戦略に従う」と喝破したのはチャンドラーであり、反対に、「戦略は組織に従う」としたのはアンゾフである。つまりは組織論と戦略論とは相補関係にある。著者がザッポスにおいて成功した理由も、その二つにあることが本書では示唆されている。

まず組織論について。著者は良い企業文化を築き上げることが組織として利益を上げるための源泉であると述べている。そして、企業文化を創造するために、コア・バリューを全社員とのコミュニケーションを通じて設定したというのだから驚きである。対話を通じた理念浸透という文脈においてはリクルート社のデンソーにおける取り組みを髣髴とさせる。

そして、全社員が自分のものとして共有するコア・バリューをもとにして求められる人材像を定義している。著者自身も参考にしたと述べているが、『ビジョナリー・カンパニー②飛躍の法則』で言うところの「だれをバスに乗せるか」という話である。つまり、適切な人材に入社してもらう、ということである。採用および入社後の教育へのカスケーディングも見事であり、自社にとってなにが大事なのか、という視点が徹底して追求されている。

次に戦略論の視点で述べれば、各戦略アイテムの間における整合性が取れており、美しさすら感じる。一橋大学の楠木建さんの言葉を借りれば、ザッポスの経営戦略は一つの美しいストーリーとして織り成されているとも言えるだろう。

具体例を挙げよう。ザッポスではコール・センターを自社で持つだけでなく、それを自社のビジネスの根幹を為すものとして位置づけている。それだけではない。多くの企業ではコール・センターで働くオペレーターの通話の効率性を重んじ、いかに短時間で、いかにアップ・セルを掛けられるかを業績指標に設定しているのに対して、著者はそうした方法を明確に否定している。問い合わせの電話を顧客の真のニーズを探る最適な機会と捉えているため、マニュアル原稿は設けず、対応時間を意図的に気にしないしくみを整えているのである。つまり、ザッポスにおいてコール・センターはアフター・セールスとしての機能だけではなく、マーケティングや物流としての機能をも担っているのである。

もちろん、ザッポスでうまく機能しているからといっても、どの会社でも同じようにコール・センターを運営すれば良いわけではない。楠木さんが書いているように、自社のビジネス領域と戦略との適合性を考えずに他社の戦略をベンチマークと称して猿真似することは「自殺」行為なのである。あくまで起点となるのは自社の理念、戦略、そしてあるべき組織像である。

このように環境変化に合わせて戦略と組織との整合性を取り続けていることがザッポスの強みであると考える。その強みは著者だけに拠るものでないことはもちろんである。しかし、成功のための大きな一石を投じたのは著者にあり、そこに彼のリーダーシップを見出せる。

リーダーシップ教育を行なうNPOの代表を務める野田智義さんは、神戸大学の金井壽宏さんとの対談の中で「リーダーを目指してリーダーになった人はいない」と言う。ザッポスに至るまでの著者にも人を束ねるという記述は見られず、いかに自身が儲けるかという自分視点の述懐ばかりである。

しかし、そうした過去の内省を踏まえてザッポスにおいてはバリューを大事にし、顧客や社会への貢献に取り組んだ。そうすることで社員もまた熱狂的に働くようになった。これは同じ想いを組織全体で共有している状態であり、いわばリーダーとフォロワーとの相互依存関係であると言えるだろう。野田さんの言葉で言えば「リーダーシップの共振現象」が起きていると指摘できる。

本書は読み物として面白いばかりでなく、組織論、戦略論、そしてリーダーシップを考える優れた教材であると言えるだろう。

<参考文献>
リクルート HCソリューショングループ『感じるマネジメント』英治出版、2007
ジェームズ・C・コリンズ『ビジョナリーカンパニー②飛躍の法則』日経BP社、2001
楠木建『ストーリーとしての競争戦略』東洋経済新報社、2010
野田智義・金井壽宏『リーダーシップの旅』光文社、2007