2011年11月27日日曜日

【第54回】“FREE AGENT NATION”, D H. Pink, BUSINESS PLUS, 2002

Before a few decades ago, in USA, each job was majored by employees. But nowadays, the arthor says that job diversity became essential. Why has the style of jobs changed ? The arthor implied that the reason is job security has evaporated.


The style of job has changed. And it has also changed surrounding it,  including loyalty. We tend to think that the power of loyalty became weak. But the arthor does emphasis on the suggestion that the loyalty is still alive and well in Free Agent Nation. However, the feature of it has changed, from vertical loyalty to horizontal one. In this book, one of the independent contractors says that “Working solo” is not “working alone”.


The second change is the strength of relationships. The arthor compares the traditional organization and free agent organization. In traditional organizations, there were many strong ties between employees in one company. But in free agent organizations, there are weak ties. So now we have to make our weak ties stronger than before. If we do so, the chances of our career will become larger. If we don’t do, the future will be dark.


The third change is related to adult learning. The arthor cites the article of Wall Street Journal. It says “the number of students age 35 and older will exceed those 18 and 19 within a few years”. So we are facing so called “life long learning”. 


The change of our learning style will change our life career. This is the fourth change. The arthor call this new life career “Lego career”. To adjust this new situation, we wil build and rebuild our own experiences and knowledges.


This book was written in 2002, the speed of change became higher I think. And though this book was written in USA, the movement also changed our Japanese society. There are many ICs in our country, and the number of IC will increase. So the impact of this book still strong, and it might be stronger than 2002 in Japan.

2011年11月17日木曜日

【第53回】『裁判と社会 司法の「常識」再考』(D.H.フット、NTT出版、2006年)

 法社会学の本を読むのは今回が初めてだ。しかし、歴史社会学、組織社会学、社会心理学、といったように社会学は比較に基づいて考察を行う学問領域であり、これまで好んで読んできた書籍との親和性が高く違和感がなかった。法を比較によって学ぶ際に、何と何を比較するかがキーとなるが、本書では、日本とアメリカの法制度を比較している。

 まず、比較を行う際の留意点を著者は冒頭で述べている。ある国の法体系における理想像と、他国の法運用における現状とを比較するミスを犯さないこと、である。つまり、理想は理想とで比較し、現状は現状と比較するということである。研究においては、説明変数と被説明変数とのレベル感を合わせることに研究者は注意をするものであるが、それと同じことであり、当たり前である。しかし、当たり前であるからと言って、それをつい忘れてしまうことが多いこともまた事実であり、充分に留意する必要があると言えるだろう。

 その上で、日米における法制度の比較を著者は行っている。よく、日本とアメリカとの文化の相違によって法制度が異なっていると言われるが、そうした要因は小さいと著者は述べる。たとえば、日本人は裁判が嫌いで、アメリカ人はなんでもすぐ裁判に持ち込む、というのは思い過ごしに過ぎないそうだ。

 では何が異なっているのか。三つの観点から著者は述べている。

 まず第一に法制度の適用範囲の違いである。日本では、全国統一の法制度を持っており、全国で統一的な法規範が適用されている。他方、アメリカでは法制度は連邦と州のレベルで分けられている。したがって、州が異なれば適用される法制度は異なる。たとえば、連邦法で21歳未満の飲酒は禁止されているが、どのように禁じているのかという方法については州によって異なり、禁じる法がない州もある。

 第二に法規範の違いである。日本は制定法によるものが主体であり、解釈の一貫性を重視する単一の裁判所制度によって解釈・運用が行われる。あくまで判例は制定法を補足するものにすぎないのである。それに対して、アメリカでの法規制の多くは判例法によるものであり、裁判所の解釈も必ずしも一貫していない。したがって、日本においては裁判を起こす主体からするとどのような判決が下されるかの予見性が高いが、アメリカにおいては予見性が低い。だからこそ、弁護士の力量によって判決が変わり得る余地が大きい。

 第三に一般人がどれほど法律を知悉しているかの違いである。「アメリカ人は裁判好き」という偏見を持っている方は意外に思われるかもしれないが、アメリカの一般的な人は法律について詳しくない。これは、法律は法科大学院で学ぶものであり、大学の学部レベルでは法律はほとんど学ばない。それに対して、日本では学部レベルで法学部があり、また他の学部であっても多くの大学生は教養課程において何らかの法律に触れることが多い。したがって、業務において法律を扱わない人であっても、ある程度、法律についての知識があると言えるだろう。


 法制度の比較を行うためには、こうした社会学的な比較を行うことで、法を取り巻く背景の相違について把握することが重要と言えるだろう。今後の自分自身への戒めとして、心に刻んでおきたい。

2011年11月13日日曜日

【第52回】『FCバルセロナの人材育成術』(A.P.オルトネーダ、アチーブメント出版、2011年)

 バルサのトップチームにカンテラ上がりの選手が多いことは有名だ。メッシ、シャビ、プジョル、イニエスタ、と挙げれば切りがない。名実ともに世界一と称されるバルサのトップチームにおいて、カンテラから上がってきた若手がなぜ活躍できるのか。その一つの大きな理由は、トップチームからカンテラの最年少カテゴリーに至るまで同じシステムを利用しているからである。同じシステムの中での動きに慣れているからこそ、上位のチームに上がったときに自分のパフォーマンスを遺憾なく発揮しやすくなっているのである。

 たしかに、こうした外的なシステムによる育成が奏功していることもあろう。しかし、これが本書の、そしてバルサの人材育成の要諦ではない。客観的な理論やシステム論ではなく、選手の態度の有り様が今のバルサの強さを支えている、と著者は結論づけている。

 人材を育成するためには、そもそもどういった人材にバルサに入ってもらうか、つまり採用が重要になる。興味深いのは、バルサの選手が異口同音に義務感でボールに触っていたのではなく、遊びの感覚を持ちながらボールに触れていた、ということである。クラブの練習の後に行う自発的な練習を日本ではよく「自主練」と呼ぶが、こういう感覚ではなく、ボールと「戯れる」という感覚だそうだ。ボールと自然に「戯れる」ことのできる人材を採用しているのであろう。好きこそものの上手なれ、という諺があるが、「戯れる」ことができることは一つの才能であり、自発的に成長する素地のある子どもたちである。某有名サッカー漫画で「ボールは友だち」を信条としてボールと「戯れる」主人公が、作中でバルサに在籍していることも興味深いシンクロ現象と言えよう。

 ではこういった子どもたちにバルサは何を教えているか。
 
 謙虚さである。自信を持つことは悪いことではないが、自分のことに価値を見出すのであれば、他者の行動に対して感謝し、謙虚さを持つ、という考え方である。もちろん、勝負に対する徹底した意識が彼らには前提として求められているそうだ。しかし、勝負に対する強いこだわりを持ちつつ、それと同時にそしてより強く、対戦相手に対して謙虚さを持つことをバルサでは徹底して教育している。

 このように、サッカーに対して「遊び」の感覚を持ちつつ向上に励み、他者に謙虚に接するという個人としての日々の修練が基礎を為す。しかし、プロのチームである以上、選手起用の権限を担う監督との関係性が必要不可欠であることは言うまでもないだろう。

 選手にとってのチャンスは突然やって来る。分かり易い例を挙げれば主力選手の怪我である。チームに穴が空いた時にどのような選手にチャンスが与えられるか。著者は、監督が必要とする人材像に当てはまっていなくてはチャンスが回ってこない、という。つまり、監督から信頼されていることが必要である、ということであろう。

 これは仕事においても類推し易いことであり、少し飛躍して書いてみたい。

 信頼されるには、まず努力し続けていることが大事である。何が他者から求められているかは常に変わる。したがって、関心領域を少しずつ拡げながら常に学び続ける必要がある。本書でも、幾人もの選手が学び続けることの重要性、とりわけ教養を深めることを指摘している。次に、学んでいることを目の前の与えられた役割の中に活かす工夫をすることが必要であろう。学んでいることをすぐに成果に結びつけることは難しいが、それでも適用を試み続けて少しずつアジャストすることが大事なのではないか。さらに、それを自身の中に閉じてしまうのではなく、他者に対してオープンにすることが大事であろう。自分なりの工夫を他者から批判されることは精神的にきついこともあるだろうが、他者にそのチャレンジが見えなければ評価されることはできない。他者からの評価に対して、バルサのカンテラの子どもたちのように謙虚に接することが大事なのではないか。

2011年11月5日土曜日

【第51回】『日本はなぜ敗れるのかー敗因21カ条』(山本七平、角川書店、2004年)

 まず興味を抱いたのは著者と少し後の世代にあたる人々との戦争に対する感覚の違いである。ある日本の取材者がベトナム戦争から帰還した米国兵へ行ったインタビュー記事に対する著者の批判がその典型的なものであろう。やや長くなるが引用する。

 「一体この取材者は、どういう前提で兵士に質問を発しているのであろう。「殺しの手応え」などというものが戦場にあるはずはないではないか。ない、ないから戦争が恐ろしいのだ、なぜ、そんなことがわからないのか。これはおそらく、戦争中から積み重ねられた虚報の山が、全く実態とは違う「虚構の戦場」を構成し、それが抜き難い先入感となっているからであろう。」

 筆者が批判している「この取材者」とは若き日の田原総一朗さんである。2011年の現在から考えると、戦争を体験している世代と把握される田原さんの戦争観に対して、著者は強い違和感をおぼえるのである。 現代の日本に生きる戦後世代の私からすると、戦前や戦中に生きた人々が同じ経験をし、同じような戦争観を持っているように錯覚してしまうが、そのようなことは決してない。詳しくは小熊英二さんの『<民主>と<愛国>』をお読みいただきたいが、戦地に行かずに学校で教科書を黒塗りした世代、二十歳前後で従軍を経験した世代、戦場でマネジメントの立場に立った世代、これらの世代間で戦争を取り巻く言説構造は大きく異なる。いま声の大きい田原さんや石原慎太郎さんといった教科書を黒塗りした世代が仰ることが、日本の戦争のすべてとは程遠いことは私たちは強く認識しなければならないだろう。これが歴史に学ぶということである。

 では、私たちは歴史に学ぶことができているのだろうか。この問いに対する著者の回答は手厳しく、身につまされる部分が多いと言わざるを得ないだろう。

 日本人は術や芸を「極める」ことに固執しすぎると著者は指摘する。「良い」大学に受かるために受験勉強を極めようとし、「良い」企業に入社するために就職活動を極めようとし、「良い」給与を得るために語学をはじめとした資格試験勉強を極めようとする。なにもそれぞれが悪い行為だとは思わない。しかし、「良い」大学を卒業し、「良い」企業で働き、「良い」資格を持つ人で、仕事ができない人は、私の知り得る限りでも少なくない。

 こうした「極める」ことを重視し、現実適用性を考えられないといういわば日本的な病理は、今に始まったことではない。太平洋戦争で用いられた三八式歩兵銃はたしかに優れた性能を有していた。しかし、それはソ連を仮想敵として陸軍が用意したもの、つまりは広い荒野で戦う際には有用であっても、ジャングルでゲリラを相手にアジアの島々で戦うには不向きであった。想定した前提が異なれば、どれほど性能が優れても意味はない。これは野中郁次郎さんらの『失敗の本質』でも述べられていることと同じである。

 著者はさらに歴史をさかのぼってこの日本的病理を説明してみせる。日本人は今も昔も宮本武蔵を好む人が多い。私も実際、好きである。吉岡一門との戦いで見せた武蔵の百人斬りはあまりに有名であり、また心躍らされるシーンである。しかし、冷めた見方をすれば、剣術を極めて百人斬りができる条件は、相手も剣術で対応する場合に限られる。鉄砲はおろか、弓矢での攻撃があれば、百人斬りなどできるはずがないのは自明であろう。こうして俯瞰した考えに対して私たちはときに「卑怯」と感じる。この卑怯を感じる私たちの心象が、著者の言う日本的病理を端的に表しているのである。百人斬りを行った宮本武蔵が、もはや白刃戦が時代遅れになりつつあった大阪の陣で活躍できなかった史実を、私たちは心に留める必要がある。

 著者は典型的な受験勉強において顕在化される「極める」行為を現代の病理であると述べているが、その指摘は「極める」のみでは宜しくないということであろう。すなわち、「極める」こと自体が拙いのではない。著者の考えを私なりに進めると、「極める」一方で俯瞰して眺める、ということがおそらく大事なのではないだろうか。

 極めつつ俯瞰することは一見すると相矛盾する行為のように思えるが、それを高い次元で実現しているのが棋士の羽生善治さんではなかろうか。将棋という「極める」ことが求められる分野で前人未到の大記録を次々と成し遂げつつ、脳科学者や情報工学者といった学者からラグビー、サッカー、野球といったスポーツ選手など幅広い分野の人々との共著がある。将棋界でのパフォーマンスを二十年以上に渡って高いレベルで発展的に維持し続け、また異分野の方々との対談は示唆に富んでいる。羽生さんが十代で棋界の新進気鋭の若手として台頭した際の風当たりは強かったと言われる。芸を極める方法のみを用いる日本伝統の技能向上を行ってきた人たちからすれば、羽生さんのような芸を極めつつ俯瞰する作法は理解されなかったのだろう。しかし、だからこそ、著者の指摘する日本的病理への一つの解答が、羽生さんのあり方にあるのではないか、と私には思えるのである。

 ただ単に既成概念に反発するというのは、テーゼに対するアンチテーゼであり、結局は同じ穴の狢に陥る。そうではなく、極めつつ俯瞰することはジンテーゼであり、次元の異なる話なのではないだろうか。著者の手厳しい指摘に対する、今を生きる人間としての回答として、極めつつ俯瞰するという作法を提示して筆を置くこととしたい。