2013年2月9日土曜日

【第137回】『学問のすすめ』(福澤諭吉)


 克己苦学した者ゆえであろうか、福澤は学ばない者に対して厳しい言葉を随所で投げ掛けている。賢人と愚人との差はうまれつきではない。学ぶと学ばないことによってそうした差は生まれる、というのである。

 むろん、今日の社会学、教育学、心理学等の知見からすれば、生まれた際の所与の環境が人に与える学習に対する影響は大きいと言わざるを得ないだろう。しかし、良質な学習コンテンツが用意され、学び始めるタイミングの多様性もある現代において、福澤の言葉は今一度大事にしたい考え方であると受け止めたい。学ぼうと思えば学べる機会の多い現在の日本において、学ばない理由が自分自身にある比率は、当時と比べて明らかに大きいのであるから。

 では、どのように学ぶか。

 文字を読めることは必要条件であるが、本を読むことだけでは学問と呼べないという。むろん、書物を通じて新しい知見を得たり、自身の経験を言語化することは重要であろう。しかし、知識見聞を開くためには、書物を読みながら、他者のアドバイスを受け容れ、自ら工夫を施すことを常に心がけることである、としている。

 したがって、彼は教育の場を設ける際に実学を重んじるのである。なにも実践的な知識を学ぶというコンテンツに対する示唆ではないだろう。知識をもとに、他者と対話を行い、生活や職業の中で実践できるようにする。すなわち、学習と実践という相互交渉が生じるような環境を実学として重視しているのだと考えられる。

 では、なぜ学ぶのか。

 最初に記した通り、個々人にとってのメリットがあるということはあるだろう。しかしそれは同時に、国民一人ひとりが才徳を高くすることで、政府の暴走をコントロールすることができる、という意図が福澤にはあるようだ。さらには、そうした政府をコントロールする気概があればこそ、他国から独立できるという気概へとつながるとする。日本が独立国として必ずしも当たり前に存在できる状況でなかった当時の情勢を考えれば、福澤の切迫感が伝わってくるような筆致である。そして、こうした福澤の気概は、国家を超えた経済の相互依存性が高まっている現代においても、通底する考え方であると言えるのではないだろうか。

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