二十代半ばにして自己管理の術(すべ)を深く会得し、他者が読んで分かるレベルにまで言語化していることに脱帽する。以前、著者と同じくサッカー日本代表の本田選手がメディアで注目され始めた頃に彼の記事を読んだ時にも同じような感覚を抱いたものである。若い時分からプロフェッショナルとしてスポーツに対峙し、厳しい環境を自ら求めて挑戦し、成功と失敗を繰り返す中で己と向き合い続けた結果として得られるものなのかもしれない。
状況を前向きに捉える考え方にポジティヴ・シンキングというものがある。私もその考え方じたいを否定するつもりはない。しかし、いわゆるネアカな性質を持つ人間がポジティヴ・シンキングの重要性を他者に説いたところで、ネアカでない人間がポジティヴ・シンキングに変えることはできないだろう。また、ネアカな人ほど失敗して落ち込んだ際に、そうした経験が少ないために回復できないというリスクもあるかもしれない。したがって、無理にポジティヴ・シンキングを身に付けるという必要性はないだろう。
それではどうするか。著者が述べる自己管理の考え方の要諦は「常に最悪を想定する」という言葉にまとめられていると言えるのではないだろうか。つまり、無理に現状や未来についてポジティヴに捉える必要性はないのである。私は、ポジティヴ・シンキングよりも著者のこのような考え方の方が多くの人々に受け容れられ易いものだと考える。
「最悪を想定する」ということは、「弱気になる」というネガティヴ・シンキングの発想と誤解を受けやすいが、そうではないと著者は言う。そうではなくて、「何が起きてもそれを受け止める覚悟があるという「決心を固める」作業」という意味合いである。単に事態を前向きに捉えるというだけではともすると状況を受動的に捉え、挑戦の少ない成り行き任せな行動へと繋がってしまう。しかし、著者のような考え方であれば、物事を主体的に捉え、挑戦の過程で得られる人間的な深みを感じる。
このような著者の考え方は五木寛之さんが『他力』の中で引用しているブッダの考え方に近いと言えるだろう。ブッダは究極のネガティヴ・シンキングから出発して、人間存在を積極的に肯定する境地に至った。つまり、ネガティヴ・シンキングでもがき苦しむ過程を経てこその受容が重要であり、ただ単に考え方をポジティヴにするということにあまり意味はないのだろう。
孔子やニーチェを読んでいる著者であるから、ブッダも読んでいるのだろう。いずれにしろ、挑戦しながら深く考える著者であるからこそ、教養あふれる言葉の数々を咀嚼して分かりやすく言葉として紡ぐことができるのであろう。