2011年12月25日日曜日

【第59回】『雇用社会の法と経済』(荒木尚志・大内伸哉・大竹文雄・神林龍編、有斐閣、2006年)

 ビジネスパーソンの市場価値が強調され始めた2000年前後から、問題解決の手法を論じるビジネス書が流行しているように思う。軸で切ってポートフォリオで分析を試みたり、モレなくダブりなく論理を積み上げたりすることで、解決策を導き出すことはたしかに有用であろう。しかし、こうした手法は、問題を正しく定義できてはじめて効果が生まれるものである。 誤った問題に対して、フレームワークを用いた分析やロジカル・シンキングを試みたところで、誤った解答を正しく導き出す、という笑えない結果を生み出しかねない。

 問題をどのように捉えるかは、観察者がある事象をどのように認識するか、という観察者の視座に依存する。労働に関する分野においても例外ではない。本書では、労働分野における諸問題に対して、法学者と経済学者がそれぞれの観点を披瀝した上でどのように問題解決を行うかを述べるという学際的なアプローチで展開される意欲作である。


 では、労働問題に対して、労働法学者と労働経済学者がそれぞれどのようなアプローチで問題を捉え、解決策を導き出すのか。


 まず、何を問題として捉えるか。著者によれば、労働法学者は、現実に起きている事象のうち、正規分布から外れるような大問題となっているものを対象とすることが多い。世間の目を引くような過労死の問題であったり、名ばかり管理職の問題といったものがピックアップされることは容易に想像できるであろう。それに対して労働経済学者は、正規分布の平均的な範囲に入る企業や個人を対象とする傾向がある。個別の企業や個人といった顔の見えるミクロなものを対象とするのではなく、統計的なデータから見えるマクロなものを対象とする、ということである。


 このように、問題として捉える観察対象が異なれば、解決策は自ずと異なることとなる。労働法学者は、具体的に困っているある労働者を助けるために、様々な規制や政策を行う必要があると主張する。その結果、国家の積極的な介入を是とするようなパターナリズム的な発想を取りがちであろう。他方、労働経済学者は、現に困っている労働者を助けることの必要性は認めつつも、規制や政策を進めるとかえって他の労働者に悪い作用を及ぼすことを危惧する。この結果、ある種のリバータニズム的な発想を取ることが多く、国家の積極的な介入に対して疑問を持ち、市場の自律的な問題解決を肯定する。


 こうした視点の違いが最も先鋭化するテーマとして本書で指摘されているものが解雇規制である。


 日本における法的な運用としては、解雇権濫用法理や整理解雇法理といった諸外国と比べて労働者を保護する傾向が強い。労働法学者がこうした論理構成を為す論拠とするものは主に二つあるそうだ。一つめは生存権や勤労権といった憲法上の権利や人格権であり、二つめは労働契約における実質的な労使の対等性の欠如への対処という考え方である。憲法が保護する基本的人権の尊重という崇高な理念と、使用者側に対して比較劣位にある労働者を保護するパターナリズムが労働法学者の拠って立つものと言えるだろう。


 企業から排除される特定の個人への手厚い保護を行おうとする労働法の考え方に対して、労働経済学者は、解雇規制によって生じる社会的な損失に警戒感を示す。つまり、国家による規制によって企業が外部環境に合わせて柔軟な対応を行うことが難しくなり、企業の経済活動が停滞しかねないというのである。その結果、企業における労働需要が低下し、労働市場の需給バランスが低位均衡し、翻って労働者側にデメリットをもたらす、という論法である。


 観点の提示や問題提起で留まる書物に対しては「ではどうすればいいのか」という不満の声が出るらしい。しかし、表面的な解決策が適用できる状況というのは極めて個別具体的な状況に限られる。そうしたものを無理に職場に適用してもどれだけ意味があるだろうか。個別具体的な事象に対するためには、それを問題として捉えるためにいったん抽象化し、抽象化して捉えた問題に対する解決の枠組みの方向性を抽象的に捉え、抽象的な解決策を個別具体的に落とし込む、というプロセスが必要であろう。具体的な事象を抽象化するためには、学術的な知見が役に立つ。このように考えれば、本書のような観点の提示を行う学術書は、遠回りのように見えてビジネスに使える優れた教材であると言えるだろう。




2011年12月19日月曜日

【第58回】『諸外国の労働契約法制』(荒木尚志・山川隆一編、労働政策研究・研修機構、2006年)

 本書は、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカの労働契約法を比較することで、日本における労働契約法の特徴を明らかにするものである。企業のグローバリゼーションへの対応は画一的なものと捉えられがちであり、法務面でも同じ誤解があろうが、労働契約法の分野においては、二つの大きな違いがある。

 一つめは、大陸法とコモン・ローとの違い、すなわち制定法を重視するドイツとフランスと、コモン・ローに立脚するイギリスとアメリカの労働契約の考え方の違いである。大陸法は伝統的に制定法により積極的に規制してきたのに対して、コモン・ローにおいては制定法による規制に消極的であり、労働市場の自律的な調整機能に委ねる傾向が強い。大陸法においては制定法によって統一的な解釈が行われるのに対して、英米法においては、制定法が存在しない場合、コモン・ローにより個別の解釈の問題となるのである。

 二つめは、EU圏に属するドイツ、フランスおよびイギリスと、アメリカとの違いである。この両者においては、とりわけ解雇規制に関する違いが顕著である。アメリカにおいては一部の州を除いて解雇に正当事由を要求する立法はなく、差別規制等に反しない限り解雇を原則的に自由としている。これを随意雇用原則と呼ぶ。それに対して、ドイツ、フランス、イギリスにおいては制定法によって解雇を行う上での制限が課されている。具体的な要件としては、ドイツにおいては社会的に不当でないこと、フランスにおいては真実かつ重大な理由、イギリスにおいては公正さが、求められるのである。

 上記のような二つの異なる点があるわけであるが、いずれの国においても解雇を制限する潮流が見られることが興味深い。EU圏においては制定法によってそうした流れが創り出され、アメリカにおいては州単位ではあるが判例によって推進されている。では、各国において解雇法理が今後も厳格化するかと言えばそのようなわけではないだろう。グローバル展開を行う企業が各国において柔軟な人事施策を展開し易いように、中庸を目指して法が修正されていると見るべきではなかろうか。このように考えれば、日本のように解雇法理が厳格な国家においては、それが緩和する方向に向かうことが充分に予見されると言えるだろう。




2011年12月17日土曜日

【第57回】『渋沢栄一 Ⅰ算盤篇』『渋沢栄一 Ⅱ論語篇』(鹿島茂、文藝春秋、2011年)

 近代日本の資本主義の父とも称される渋沢栄一。前近代的な社会であった当時の日本にあって、なぜ渋沢が資本主義国家を形づくることができたのか。また、なぜ岩崎弥太郎のように近代的な企業をつくることだけに注力するのではなく、産業をかたちづくることに注力したのか。その答えは、武士の流れを汲む「官」の金銭蔑視と民業軽視への反発であり、またその裏返しである「民」の没理念と没倫理への批判、という二つの想いにあったようだ。

 まず、武士はなぜ金銭蔑視の差別感情を抱いたのか。その理由として著者は朱子学がもたらした江戸時代の武士社会におけるエートスを挙げる。林羅山らが説いた朱子学では、武士階級は金銭に関わらないが故に尊いものとし、朱子学をはじめとした学問を学ぶ武士階級は自ずと実業と無縁になった。それゆえに、支配階級としての武士階級は、実業つまり金銭に携わる農工商の階級を蔑視することになった。その結果、学問を学ぶのは武士階級、実業に従事するのは農工商階級といった具合に、学問と実業とが分離することとなり、武士階級による金銭蔑視感情が定着したのである。

 こうした階級間における学問と実業との分断状況が民の没理念と没倫理への批判に繋がる。すなわち、民間は実業と金銭とを直接的に結びつける思考回路しか持たず、教養を学ぶことで得られる広く社会に対する視点を持てない。したがって、渋沢は官だけではなく、民に対する批判的精神を持ち、官と民とで学問と実業とが分断されている当時の日本の状況に危機感を持ったのであろう。


 こうした官と民との対立構造を打破するために、民の立場にこだわって、企業家を支援し、自らも数社を起業し日本の産業を立ち上げた。それと同時に商業を推進する人材の育成にも力を注いだ。民の没理念と没倫理を批判する渋沢であるため、民間教育においては実業の教育といっても単に商業にとって必要な専門知識を与えるためのものではない。民間で商業を担う人材であるからこそ、全人格的な教養の修得を重視し、商人が官に対して卑屈な感情を持たず、また私利私欲に走ることがないようにと考えたのである。こうした渋沢の努力の結晶が東京高等商業学校の大学への昇格であり、これは現在の一橋大学である。
 
 コリンズとポラスは名著『ビジョナリーカンパニー』において、偉大な企業は「時を告げるのではなく、時計をつくる」として、永続的に発展するしくみをつくることの重要性を調査で明らかにした。企業が「ビジョナリーカンパニー」を目指すことは素晴らしいことであるが、企業は産業構造の中に存在するものである。時計をつくるためには、部品を調達する企業、それを商流に乗せる企業とが必要であり、そうした一連のしくみが産業である。 重大なコンプライアンス違反が起き、実務とかけ離れた浅薄な知識の詰め込みが「教育」と呼ばれる現状が、渋沢が志向した理想の状態に今の日本の産業があるとは思えない。今こそ、渋沢という日本の近代産業の創始者の考え方を噛み締めることが大事な時期なのかもしれない。




2011年12月10日土曜日

【第56回】『アメリカ労働法[第2版]』(中窪裕也、弘文堂、2010年)

 二年半前、修士論文を書くための研究調査として事業会社のサラリーマンにインタビューをして驚いたことがある。それは、彼(女)らが異口同音に明日以降も今と同じ仕事が今の会社にあることを当たり前のように前提として捉えていたことである。当時私が個人事業主として働いていたために、彼我の契約形態の差異からこうした違和感を抱いたのかもしれない。問題は、明日も同じ仕事ができることをありがたく思って中長期的にチャレンジして職務を深化させるタイプと、それに安住して惰性で職務をこなすタイプがいることである。分析の結果、前者のモティベーションは高く、後者は低いという相関関係がくっきりと出た。調査を行う前に想定していた仮説どおりであったのであるが、あまりに仮説と合致したため後者に該当する方々の将来を心配に思ったものである。

 この調査結果を踏まえて、キャリア理論を説明変数に、コンテンツ系のモティベーション理論を被説明変数として理論化を試みた。実務に即して端的に記せば、社員を取り巻く外的環境や職務特性が近似している条件下であっても、職務の捉え方がモティベーションに影響を与える、ということである。換言すれば、職務に意味付けができる人ほどモティベーションを高められるということであり、逆もまた然りであった。これが企業による社員に対する評価と相関することは容易に想像できるだろう。

 従来、ハックマン&オルダムの職務特性理論をはじめとしたモティベーション理論を理論的背景にして、職務拡大や職務充実を管理者が図ることが王道のモティベーション施策であった。日本においては小池和男さんの「労働の人間化」に関する職務設計の理論が代表的であろう。このアプローチは理に適ったものであり、異議を挟むつもりは毛頭ない。しかし、私の問題意識は、昨今の企業においてすべての管理者が部下の職務を拡大したり充実させたりすることができないのではないか、という点にあった。職務の変化が激しく、また中間管理層の多忙さが増すばかりの現状において、管理者が部下の職務拡充を行うことは想像できなかったし、今では確信的にそう思う。管理者による職務拡充だけに頼っていては、企業において人材を成長に向けて動機付けることは難しくなるだろう。人材育成に携わる身として、コンサルタントであった当時も、事業会社で働く現在も、若手社員が多様に職務を捉えられるようになることに微力ながら注力している背景にはこういった理由がある。

 しかし最近、こうした人的アプローチだけでは不十分なのではないか、と考えるようになった。冒頭で述べた二つのタイプの人材のうち前者には私のアプローチで寄与できることはあるだろう。しかし後者に対しては、人が介在することだけで解決するものではなく、システム、すなわち企業においては人事制度が強く影響を与えるのではないか。さらに遡れば、人事制度に影響を与えるのは労働法であり、現行の法制度やその運用のあり方に問題があるのではないか。平たく言えば、判例法理やそれに伴う人事制度が、後者のような存在を生み出すことを助長しているのではないか、ということである。今後もこうした人たちが企業の中で働き続けられれば良いのであるが、昨今の経済情勢や労働経済学の基礎的な知見から考えれば、まず間違いなく無理である。そうであれば、彼らのためにも、企業のためにも、労働法というシステム自体を改善するべきではなかろうか。

 いやしくも研究者を自認する人間が、これまでの専門である組織行動論で解決できないと言って問題を放棄することは逃げである。人事・人材育成の分野において、問題発見の起点は実務の中に存在する。仮説として見出した問題を解決するための起点は理論の中にある。組織行動論とそれに基づく人事・人材育成の実務で得られた知見をもとにして、労働法での知見を組み合わせることで、問題解決の道を探りたいと私は考えている。

 日本企業における労働法のあり方を考えるためには、日本の法制度や判例を研究することが必要であることは自明であろう。しかし、日本に住み、日本で働く人間が、日本の労働法や判例だけを研究していては、そこにあるパラダイムに捉われてしまい客観視することはできない。地があるからこそ図はくっきりと形を表すのであり、研究においては、対象を明確に捉えるためには比較対象を用いることが必要である。そこで、日本の労働法を考えるために、アメリカの労働法を学ぼうと思い、先行研究の一環として本書を読んだ。

 やや長い前置きはここで終え、以降は本書について述べる。

 法の背景にはその国の文化や社会的土壌がある。筆者によれば、アメリカ社会には労働者を手厚く保護するという労働法的な土壌がもともと存在しないことに特徴がある。アメリカ社会は個人の自由と市場原理を重視し、公的な政策や階級連帯の意識に乏しく、契約をなによりも尊重するのである。

 こうした建国の精神とも言える社会的土壌の結果として、19世紀末から20世紀初頭にかけて確立されたのが随意的雇用の原則である。期間の定めのない雇用契約において随意的に雇用契約を変更できるということであり、すなわち、使用者も労働者も原則的にいつでも自由に契約を終了させることができる。日本では民法が保証する契約の自由に対して、労働者を保護するために下位法として労働法が制定されているわけであるが、アメリカでは日本の労働法的な考え方が元々ないということであろう。解約にあたり特別の理由や予告期間が要求されないことを考えれば、日本の民法よりもさらに厳格な内容であると言えるだろう。

 こうした厳格な運用は、時代を経て次第に労働者を保護するような判例が出され、随意的雇用原則は修正をなされている。

 まず、ニューディール以降に二つの外在的な制限が発展した、と著者は指摘する。一つめは労働協約による正当事由条項である。つまり、不当解雇に対して救済を求めて異議申し立てをする根拠が形成されたのである。二つめは制定法によって一定の理由による解雇を禁止することができるようになった。もともとは合衆国憲法によって、随意的雇用原則に抵触するものとして州法が解雇を禁止する規定を設けることが禁止されていた。しかし、1930年代後半には連邦最高裁が態度を変更してこうした法の制定が可能となったのである。

 さらに、1970年代後半になるとパブリック・ポリシー法理が形成され、現在では40を超える州で採用されるまでに至っている。パブリック・ポリシー法理とは、法制度が体現している一定の明確な規範に反して労働者を解雇することに制約をかける判例法理である。著者は、被用者が違法行為を拒否したことを理由とする解雇、被用者が労災補償の申請など自らの法律上の権利を行使したことを理由とする解雇、被用者が裁判所の陪審員など重要な公的義務を履行したことを理由とする解雇、などをその例として挙げている。日本の労働法と比較すると、私たち日本人にとって当たり前に思える権利がつい最近まで保証されていなかったことに驚く。

 さらに、パブリック・ポリシーと並行して契約法理による解雇制限が行われるようになった。違う側面から述べれば、従来は労働者と使用者とで解雇をしない旨の約定を結んでいたとしてもその効力は随意的雇用原則によって認められなかった、ということである。雇用契約を自由に結ぶことを、雇用契約を制限する契約を結ぶことよりも上位に置いていたのである。つまり、契約の自由じたいを保証するために、自由に制約を掛けることを禁じていたのである。

 このように随意的雇用原則に対する修正の動きを見てきたが、アメリカは州法と連邦法の二元的法体系の国家である。日本のように、地裁、高裁、最高裁といった一元的な法体系から成る国家と異なることは充分に意識すべきである。したがって、すべての州において随意的雇用原則の修正に関する進展の度合いが異なることに注意が必要であろう。しかし、大きな流れとして、パブリック・ポリシー法理や契約法理によって、硬直的な随意的雇用原則に修正がなされていることには着目すべきである。

 グローバリゼーションはアメリカナイゼーションではない。アメリカにおける労働法理も他国の労働法理の影響を受けてここまで述べたような変更が為されている。翻って日本の労働法理に目を向けてみよう。アメリカの労働法を模倣すべしということではないが、他国における労働法とそれに伴う働き方を意識した上でグローバル展開をすることが必要なのではないか。それに加えて、グローバリゼーションへの対応のためにも労働法理を修正することもまた必要になるだろう。

2011年12月3日土曜日

【第55回】Number792「ホークス 最強の証明。」(文藝春秋社、2011年)

 アスリートの言葉が私たちを魅了するのは、彼ら・彼女らの姿を私たちが見ることができ、いろいろと想像することが可能だからであろう。私たちは、アスリートの栄光のシーンという結果を眺めることで、その過程としての努力の様を想起し、それに対して賞賛をするのである。

 今期のソフトバンクホークスの成績は図抜けている。パリーグでは2位に17.5ゲームもの大差をつけて優勝、交流戦では史上初の他球団すべてに勝ち越しを決めた。ホークスの躍進の理由にはいくつもの要素があるのだろうが、その一つにはパリーグMVPに輝いた内川選手の加入が挙げられることには異論がないだろう。

 素人なりに考えても、移籍一年目で首位打者を獲得するというのは難しいはずだ。これまで対戦することが少なかった投手の投球に適応するには時間が掛かるだろうからだ。その不利な点を克服し、ベイスターズ時代のセリーグでの首位打者と併せて、両リーグでの首位打者獲得という史上二人めの偉業を成し遂げたのである。

 私が本誌で特に印象に残ったのは、内川選手のインタビュー記事である。彼の発言を引用しながら、考えたことを書いてみたい。

 「僕は、バッティングのヒントというものは常に転がっていると思っています。よく“打席で神が舞い降りてきた”なんて言いますが、常にアンテナを張り続けていないと、ヒントは拾えないんです」(64頁)

 まず着目したのが「常にアンテナを張り続けてい」る点である。アンテナを張るとは仮説を持って行動しているということではなかろうか。何かを考えるという行為は簡単なようで難しい。ただぼんやりと頭で考えても無為に時間が過ぎるだけであることが多い。そうではなく、投手、捕手、投球カウント、走者の状況、試合の展開、こういった様々なものに対して仮説を持って臨むこと。そうすれば、自身にとって有用なヒントを拾えているのだろう。

 もう一つは貪欲に努力をし続けている点だ。努力量が少なければヒントは「時に転がっている」という表現になるだろう。しかし、内川選手は「常に転がっている」と発言している。これは仮説を持つこと、それを修正すること、こういった一連の流れを愚直に続けていることの何よりの証左と言えるのではないだろうか。

 こうした基本姿勢が整っていても、長いシーズンの中ではうまくいかないことがある。とりわけ、野球における打者という十回打席に立って三回安打を打てば成功したと言われる特性を持つ役割である。失敗することがなかば当たり前であり、失敗が続く中でどのように安定した精神面を持つか、が鍵となるはずだ。このことについて、印象深いことを内川選手は述べている。

 「第1打席から第4打席まで、同じようにフラットな状態でバッターボックスに立つのはすごく難しいことだと思うんです。そんなことにエネルギーを使うよりも、自分の感情を理解した上で投手に向き合い、どのように打ってやろうかなと考えた方が効率いいのではないかと考えるようにしました。」(同上)

 昨今では、常にポジティヴでなければならない、常に成長しなければならない、といったポジティヴ心理学を曲解したビジネス書が散見される。しかし、そうした有り様は現実的ではないし、むしろそれを信じることで、そうなれない自分に苛立ち、追い込んでしまいがちだ。

 こうした好ましくないトレンドの中で、内川選手の発言は心強い。感情が揺れ動くことは自ずから然りである。それをコントロールしようとする考え方では息苦しいのは当然である。そうではなく、内川選手が言うように、自身の感情をメタ認知すること。これは長谷部選手が自著の中で述べている「心を整える」作法に近いように思え、私にはとても共感できる考え方である。

 常に仮説を持って現実に対処し、一喜一憂せずに自身の状態を見据え、愚直に努力し続ける。これはプロフェッショナルと呼ばれるあらゆる職種に適用できる考え方ではなかろうか。