2011年12月10日土曜日

【第56回】『アメリカ労働法[第2版]』(中窪裕也、弘文堂、2010年)

 二年半前、修士論文を書くための研究調査として事業会社のサラリーマンにインタビューをして驚いたことがある。それは、彼(女)らが異口同音に明日以降も今と同じ仕事が今の会社にあることを当たり前のように前提として捉えていたことである。当時私が個人事業主として働いていたために、彼我の契約形態の差異からこうした違和感を抱いたのかもしれない。問題は、明日も同じ仕事ができることをありがたく思って中長期的にチャレンジして職務を深化させるタイプと、それに安住して惰性で職務をこなすタイプがいることである。分析の結果、前者のモティベーションは高く、後者は低いという相関関係がくっきりと出た。調査を行う前に想定していた仮説どおりであったのであるが、あまりに仮説と合致したため後者に該当する方々の将来を心配に思ったものである。

 この調査結果を踏まえて、キャリア理論を説明変数に、コンテンツ系のモティベーション理論を被説明変数として理論化を試みた。実務に即して端的に記せば、社員を取り巻く外的環境や職務特性が近似している条件下であっても、職務の捉え方がモティベーションに影響を与える、ということである。換言すれば、職務に意味付けができる人ほどモティベーションを高められるということであり、逆もまた然りであった。これが企業による社員に対する評価と相関することは容易に想像できるだろう。

 従来、ハックマン&オルダムの職務特性理論をはじめとしたモティベーション理論を理論的背景にして、職務拡大や職務充実を管理者が図ることが王道のモティベーション施策であった。日本においては小池和男さんの「労働の人間化」に関する職務設計の理論が代表的であろう。このアプローチは理に適ったものであり、異議を挟むつもりは毛頭ない。しかし、私の問題意識は、昨今の企業においてすべての管理者が部下の職務を拡大したり充実させたりすることができないのではないか、という点にあった。職務の変化が激しく、また中間管理層の多忙さが増すばかりの現状において、管理者が部下の職務拡充を行うことは想像できなかったし、今では確信的にそう思う。管理者による職務拡充だけに頼っていては、企業において人材を成長に向けて動機付けることは難しくなるだろう。人材育成に携わる身として、コンサルタントであった当時も、事業会社で働く現在も、若手社員が多様に職務を捉えられるようになることに微力ながら注力している背景にはこういった理由がある。

 しかし最近、こうした人的アプローチだけでは不十分なのではないか、と考えるようになった。冒頭で述べた二つのタイプの人材のうち前者には私のアプローチで寄与できることはあるだろう。しかし後者に対しては、人が介在することだけで解決するものではなく、システム、すなわち企業においては人事制度が強く影響を与えるのではないか。さらに遡れば、人事制度に影響を与えるのは労働法であり、現行の法制度やその運用のあり方に問題があるのではないか。平たく言えば、判例法理やそれに伴う人事制度が、後者のような存在を生み出すことを助長しているのではないか、ということである。今後もこうした人たちが企業の中で働き続けられれば良いのであるが、昨今の経済情勢や労働経済学の基礎的な知見から考えれば、まず間違いなく無理である。そうであれば、彼らのためにも、企業のためにも、労働法というシステム自体を改善するべきではなかろうか。

 いやしくも研究者を自認する人間が、これまでの専門である組織行動論で解決できないと言って問題を放棄することは逃げである。人事・人材育成の分野において、問題発見の起点は実務の中に存在する。仮説として見出した問題を解決するための起点は理論の中にある。組織行動論とそれに基づく人事・人材育成の実務で得られた知見をもとにして、労働法での知見を組み合わせることで、問題解決の道を探りたいと私は考えている。

 日本企業における労働法のあり方を考えるためには、日本の法制度や判例を研究することが必要であることは自明であろう。しかし、日本に住み、日本で働く人間が、日本の労働法や判例だけを研究していては、そこにあるパラダイムに捉われてしまい客観視することはできない。地があるからこそ図はくっきりと形を表すのであり、研究においては、対象を明確に捉えるためには比較対象を用いることが必要である。そこで、日本の労働法を考えるために、アメリカの労働法を学ぼうと思い、先行研究の一環として本書を読んだ。

 やや長い前置きはここで終え、以降は本書について述べる。

 法の背景にはその国の文化や社会的土壌がある。筆者によれば、アメリカ社会には労働者を手厚く保護するという労働法的な土壌がもともと存在しないことに特徴がある。アメリカ社会は個人の自由と市場原理を重視し、公的な政策や階級連帯の意識に乏しく、契約をなによりも尊重するのである。

 こうした建国の精神とも言える社会的土壌の結果として、19世紀末から20世紀初頭にかけて確立されたのが随意的雇用の原則である。期間の定めのない雇用契約において随意的に雇用契約を変更できるということであり、すなわち、使用者も労働者も原則的にいつでも自由に契約を終了させることができる。日本では民法が保証する契約の自由に対して、労働者を保護するために下位法として労働法が制定されているわけであるが、アメリカでは日本の労働法的な考え方が元々ないということであろう。解約にあたり特別の理由や予告期間が要求されないことを考えれば、日本の民法よりもさらに厳格な内容であると言えるだろう。

 こうした厳格な運用は、時代を経て次第に労働者を保護するような判例が出され、随意的雇用原則は修正をなされている。

 まず、ニューディール以降に二つの外在的な制限が発展した、と著者は指摘する。一つめは労働協約による正当事由条項である。つまり、不当解雇に対して救済を求めて異議申し立てをする根拠が形成されたのである。二つめは制定法によって一定の理由による解雇を禁止することができるようになった。もともとは合衆国憲法によって、随意的雇用原則に抵触するものとして州法が解雇を禁止する規定を設けることが禁止されていた。しかし、1930年代後半には連邦最高裁が態度を変更してこうした法の制定が可能となったのである。

 さらに、1970年代後半になるとパブリック・ポリシー法理が形成され、現在では40を超える州で採用されるまでに至っている。パブリック・ポリシー法理とは、法制度が体現している一定の明確な規範に反して労働者を解雇することに制約をかける判例法理である。著者は、被用者が違法行為を拒否したことを理由とする解雇、被用者が労災補償の申請など自らの法律上の権利を行使したことを理由とする解雇、被用者が裁判所の陪審員など重要な公的義務を履行したことを理由とする解雇、などをその例として挙げている。日本の労働法と比較すると、私たち日本人にとって当たり前に思える権利がつい最近まで保証されていなかったことに驚く。

 さらに、パブリック・ポリシーと並行して契約法理による解雇制限が行われるようになった。違う側面から述べれば、従来は労働者と使用者とで解雇をしない旨の約定を結んでいたとしてもその効力は随意的雇用原則によって認められなかった、ということである。雇用契約を自由に結ぶことを、雇用契約を制限する契約を結ぶことよりも上位に置いていたのである。つまり、契約の自由じたいを保証するために、自由に制約を掛けることを禁じていたのである。

 このように随意的雇用原則に対する修正の動きを見てきたが、アメリカは州法と連邦法の二元的法体系の国家である。日本のように、地裁、高裁、最高裁といった一元的な法体系から成る国家と異なることは充分に意識すべきである。したがって、すべての州において随意的雇用原則の修正に関する進展の度合いが異なることに注意が必要であろう。しかし、大きな流れとして、パブリック・ポリシー法理や契約法理によって、硬直的な随意的雇用原則に修正がなされていることには着目すべきである。

 グローバリゼーションはアメリカナイゼーションではない。アメリカにおける労働法理も他国の労働法理の影響を受けてここまで述べたような変更が為されている。翻って日本の労働法理に目を向けてみよう。アメリカの労働法を模倣すべしということではないが、他国における労働法とそれに伴う働き方を意識した上でグローバル展開をすることが必要なのではないか。それに加えて、グローバリゼーションへの対応のためにも労働法理を修正することもまた必要になるだろう。

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