2013年1月12日土曜日

【第132回】『福翁自伝』(福澤諭吉、富田正文校注、慶應義塾大学出版会、1978年)


 慶應に入学する際に大学からいただける本書。当時、SFCに入るのであって結果的に慶應に入るのにすぎない、というひねくれた感覚を持っていた私は本書を読まなかった。学部、大学院、研究所と、合わせて八年以上もお世話になったというのに恥ずかしい限りである。今回、はじめてじっくりと読んでみて、入学式で本書が渡される意味合いがわかったような気がする。本書は学ぶことのたのしさや意義について、彼の半生を通じてイキイキと描かれているのである。

 まず喜怒色にあらわさずという有り様がすばらしい。怒りや嫉妬といったネガティヴな感情を表に出さないという点は分かる。しかし、他者から誉められたり賞賛されてもそれを意に介さないというのである。これはなかなかできない。ありのままの自分を受け容れ、謙虚に他者の意見に耳を傾けるためには、こうした態度を見習うことが重要であろう。

 次に議論についての考え方も興味深い。彼は特定の価値観に基づいて議論を行うことはしなかった。ある問題について、相手が是とすれば非の立場から議論を行い、相手が人するならば是とする立場から議論を行うことを心がけていたというのである。こうした立場や価値観にこだわらない姿勢は幕末および明治維新の動乱の時期にも貫かれることとなった。その結果として、幕府側の人物とも明治政府側の人物とも分け隔てなく付き合うことができ、多様な人的ネットワークを構築することができたのであろう。

 三番目の点として、具体的な目的を持たずに勉強を行うという姿勢に感銘を受けた。とかく、〇〇をするために、〇〇を得るために、という具体的な目的を持った上で学習を行うことを私たちは行い易い。そうした姿勢が悪いということではないが、ともするとそれは本来的には豊かで広がりのある学習範囲を勝手に狭めることとなってしまう。測定可能なゴールへと狭く捉えてしまうことのデメリットであろう。したがって、時に彼のように目的なしに学びを続けるという姿勢を思い返すことは重要ではなかろうか。

 第四に、慶應義塾の精神でもある独立自尊にも触れなければなるまい。独立自尊の精神は個人という意識の涵養のために言われている言葉であると理解していたが、本書によればそうではないようだ。すなわち、日本という国家の独立精神を持つためには、まず個人が独立精神を持つことが主張されている。ここでの独立精神とは、江戸時代における幕藩体制への依存、大政奉還後の明治政府への依存を戒めるところから始まる。現代で言えば、日本政府はもとより、地域社会や企業といったあらゆる組織への過度に依存しない気概を持つことがまずは大事であろう。

 最後に、こうした中立的でオープンな有り様の中であるがゆえに一際異彩を放って見えるのが、門閥制度は親のかたきという強い意思である。『学問のすゝめ』のあまりに有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」にも繋がる考え方であると言えるだろう。おそらく、中立的でオープンであり続けるためのメタな価値観として、門閥を認めることはできないのだろう。政党色を出さず、維新後も官位に付かないという彼の考え方を端的に表す文言であろう。

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