行き詰まってから何かをするというアプローチでは手遅れになる可能性が高い。そうであるとすれば、焦燥感が薄い状態で、いかにして自身の奥底で引っかかっている何かを自覚するか、が鍵となる。本書は、栄西らが日本に導入した臨済宗で馴染みのある臨済の言行録である。無自覚な心の引っかかりを明示化する、趣き深い一冊だ。
「いかなる時も、無暗にああこう分別するな。解るというのも解らぬというのも、すべて誤りだ。」(上堂・六より)
私たちは、解ったか解らなかったかということを常に問われる。学校でも、会社でも、その他の組織でもそうである。つまり、なんらかの事象について0と1で判断することが過度に習慣化されすぎているのではなかろうか。その結果として、ある事象を解ったという感覚を持つことを、リストにチェックを入れるかのように見做す危険性を有する。解ってしまった後にはその対象に対してそれ以上の探求を失うということになりかねないからだ。分別顔という言葉があまりポジティヴに使われないことからも、私たちはむしろ「無知の知」の良さを再認識することが大事であろう。
「病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。もし君たちが外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。君たちはこれを信じきれないために、外に向って求める。しかし何かを求め得たとしても、それはどれも言葉の上の響きのよさだけで、生きた祖仏の心は絶対つかめぬ。取り違えてはならぬぞ、皆の衆。今ここで仕留めなかったら、永遠に迷いの世界に輪廻し、好ましい条件の引き回すままになって、騾馬や牛の腹に宿ることになるだろう。」(示衆・一)
自身のありたい姿と現状とのギャップから課題を見出す。課題を解決するためのソリューションをアクションアイテムに落とし込んで努力を継続する。兎角、後者を行う際に外的な知識やスキルやマインドを新たに取り込もうと私たちはしがちであるが、それは誤っていると臨済は断言する。外部にいたずらに目を向けるのではなく、自分自身の多様な隠れた可能性に目を向けることや、これまでの経験に基づく知恵を統合すること。臨済はその重要性に目を向けさせる。とりわけ引用した最後の箇所は、現代における青い鳥症候群を暗示しているようで興味深く、また身につまされる想いがする。
「諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。」(示衆・一〇)
おそらくは臨済の言行録で最も有名な箇所であり、過激な言説としても有名な一節であろう。あまりに過激であるが故に誤解を招くこともあるのかもしれないが、ここで述べられている対象はメタファに過ぎない。ポイントは二つであろう。一つめは、先ほど引用した箇所と同じように、答えを他者に求めるのではなく、あくまで自分自身の中から求めることが重要であるということ。二つめは、ここでのメタファに関わるものであり、自分自身に深く埋め込まれており、尊敬しすぎる対象こそ相対化すべきであるということであろう。自分自身に深く埋め込まれたコンテクストを相対化しないかぎり、尊敬は盲従になりかねず、盲従は将来の言い訳に堕しかねない。
「諸君、言葉の中に求めてはならぬ。」(示衆・一四)
外的なものへの過度の依存を諌める言葉であり、ここにおける「言葉」を「文字」に限定して解釈すれば、禅宗の不立文字に行き着く。ポランニーや野中郁次郎さんを引くまでもなく、暗黙知をいかに明確化して普遍化するかはたしかに大事である。しかし、そこに限界があることを自覚した上で臨むこともまた、留意すべきだ。本書を読んで感動した私の気持ちを書こうとキーをタッチするごとに、クオリアと呼ぶべき絶対感覚が零れ落ちてしまうのと同じである。
『「論語」人間、一生の心得』(渋沢栄一著、竹内均解説、三笠書房、2011年)
『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)【2回目】
『善の研究』(西田幾多郎)