2013年5月26日日曜日

【第161回】『キュレーション 知と感性を揺さぶる力』(長谷川祐子、集英社、2013年)


 現代アートとは、世界の新しい捉え方を提示する存在である。同じ対象物であっても、それをどの角度から眺めるか、どのような経験を持っている主体か、等によって内的に見えてくる世界は異なる。<普通>の人が思いつかないような、しかし提示されれば自ずと分かるようなものを現代アートは問うてくる。こうした現代アートを意図的に収集して展覧会等を企画するのがキュレーターである。著者の定義によれば「視覚技術を解釈し、これに添って、芸術を再度プレゼンテーションすること」がキュレーターの仕事だ。

 キュレーターの歴史はそれほど古くはなく、十九世紀以降に生まれた職業だそうだ。それ以前は、芸術が体現する価値が、その時点での地域社会や宗教に根ざしたものであったために、誰もが同じコンテクストで理解可能であった。したがって、宗教画であれ、風景画であれ、多くの人にとって価値を理解し易いものだったのである。しかし、その後のポストモダン思想の隆盛により価値観が多元化する中で、芸術の価値そのものが問われるようになってきている。こうした現代においてこそ、キュレーションが必要とされる。

 一つの展覧会の中において、キュレーターは「知性と感性のシャッフル」を行うという著者の言葉が言い得て妙だ。シャッフルという言葉の響きには、観察者の内側に潜在的にあるものの見方を引き出すことが含意されていると言えよう。したがって、アートを通じて新たな知識や知覚を得るということではなく、自身の既存の知覚が不完全であることを知覚することが促される。自身の知覚の不完全性や不連続性を知ることではじめて、私たちはそれを補うための想像力であり創造力を見出すことになる。そうした作用を引き出すことがキュレーションということであろう。

 アートのあり方の変容は、必然的に観察者とアートとの関係性の変容を導いている。十八世紀以前のアートは、それ自体が価値を体現していたため、観察者はその完全性をいかに理解し、受容するか、という態度での鑑賞が求められた。しかし、現代アートと対峙する観察者は、自身の不完全性とともに現代アートの不完全性とに直面することになる。したがって、アートと観察者との相補関係、観察者の想像力によってはじめて現代アートの価値は顕在化する。

 こうした観察者とアートとの関係性の変容は、展覧会を開く美術館という存在をも変えることになる。一言で言えば、それまでの静的な存在から動的な存在への変容である。つまり、人々を啓蒙するあり方から、人々との絶え間ざる相互交渉によって価値が生まれる存在になるのである。「モノから情報へ、個人の知的生産活動から集合的な知性、関係性の形成による生産のありかたへ、文化をとらえる視線や価値観の一元性から、多元性への移行という文化全体の流れに対応せざるを得なくなった」とも言えるだろう。

 アートの変容、観察者の変容、美術館の変容といった一連の流れの延長線上に、フォーカスする領域を地域社会へと広めるという発想が出てくることは自然であろう。そうした動きの一つとして、既存の地域社会をキュレーションによって活性化する運動が盛んになってきている。日本でいえば、瀬戸内海のいくつかの島での取り組みなどが有名だ。直島にはもう一度訪れたくなったし、著者が関連した犬島や金沢21世紀美術館もぜひ訪れたい。


2013年5月25日土曜日

【第160回】『燃えよ剣 上・下』(司馬遼太郎、新潮社、1972年)


 江戸時代末期において、志士と呼ばれた人物には、思想を語るタイプと、暗殺を含めた争闘ばかりを好むタイプの二種類がいるものだと思っていた。前者が吉田松陰や坂本龍馬であり、そして後者の典型が新選組だと捉えていたのである。本書は新選組の土方歳三を主人公として描かれたものであり、読む前に抱いていた上記のような簡単な二分法は通用しないということを思い知らされた。

 芹沢系、近藤系の勢力関係から、局長を三人つくらねばならなかった。芹沢系から二人出て、芹沢鴨と新見錦。 近藤系からは、近藤勇。 その下に、二人の副長職をおいた。これは近藤系が占め、土方歳三、山南敬助。 「歳、なぜ局長にならねえ」 と、近藤がこわい顔をしたが、歳三は笑って答えなかった。隊内を工作して、やがては近藤をして総帥の位置につかしめるには、副長の機能を自由自在につかうことが一番いいことを歳三はよく知っている。 なぜなら、隊の機能上、助勤、監察、という隊の士官を直接にぎっているのは、局長ではなく副長職であった。(上巻256~257頁)

 見事な組織マネジメントではないか。組織における情報経路をどのようにデザインし、情報の結節点に自らを置く。こうした施策が、近藤勇をして新選組のトップにして組織を強化するという大目的をもとに行われているのである。役職や名前が今日と比較にならないほど重要視されていた当時の時代背景という観点を加味すれば、土方のマネジメントの凄みが分かるものだろう。

 さらに土方は、組織を日本式から西洋式へと再設計する。

 「どうやらこれからの戦さは、北辰一刀流も天然理心流もないようですなあ」 が、歳三、絶望の言葉ではなかった。 今後は洋式で戦ってやろう、という希望に満ちた言葉だった。(下巻170頁)

 鳥羽伏見の戦いにおいて、西洋近代の兵器を大量に用いた薩長軍に敗れた後の描写である。剣の道に行き、剣での争闘に絶対的な自信を持っていた人物が、一つの戦いでここまでして達観できるものなのか。この描写においても、歳三がいかにして自分自身というよりも新選組という組織を強化するためのマネジメントに対する意識が強かったかが分かるようだ。実際に、五稜郭に至るまで、歳三は幕軍を西洋近代的な軍事組織へと変容させて、薩長を苦しめることとなる。

 ではこうした変化を許容できるマインドセットがどこから出てきているのか。著者は、藩に属さない志士であったという点にその答えを求めている。

 歳三も近藤も、芹沢のいうようにいかなる藩にも属したことがない。それだけに、この二人には、武士というものについて、鮮烈な理想像をもっている。三百年、怠惰と狎れあいの生活を世襲してきた幕臣や諸藩の藩士とはちがい、 「武士」 という語感にういういしさを持っている。(上巻305頁)

 関ヶ原から江戸初期に至る剣豪・宮本武蔵を彷彿とさせるシーンである。武蔵もまた、吉岡一門との闘いのような初期の危なげな争闘から、剣の道を極めるというおよそ哲学に近しいものへと己を変容させている。理想があるからこそ、外部にある可能性に目を向けることができ、自身のそれまでの経験やスキルにこだわらない。だからこそ、変われるのである。


2013年5月19日日曜日

【第159回】『これが物理学だ!マサチューセッツ工科大学「感動」講義』(W・ルーウィン、東江一紀訳、文藝春秋、2012年)


 昨年の秋から冬にかけて、著者のMITでの特別講義がNHKでシリーズで行われていた。大学で行われる物理学というと高等数学を用いた難解な授業を思い浮かべるが、そうしたイメージを良い意味で覆すものであった。講堂内で行われる奇想天外な実験の数々と著者の独特の言い回しにすっかり魅了された。シリーズの感動をもう一度味わいたく、またテレビを通して得られた興味を知識として少しずつでも定着しようと本書を読むことにした次第である。

 全体を通して著者が繰り返し述べているのはニュートンの三つの法則である。第一の法則は慣性の法則であり、「物体は、外部から加えられた力によって状態が変化しない限り、静止状態か、等速直線運動を貫く」ということを意味するものである。宇宙空間において、一人の飛行士が投げたものをもう一人が取り損ねてしまったら、そのまま真っすぐ進んでいってしまい二度と戻ってこない、というものだ。

 第二の法則は、F=maとしてシンプルに表される。これは「ある物体に働く正味の力Fは、物体の質量mに、物体の正味の加速度aを乗じた値になる」ということを意味する。この法則については、ラグビーのスクラムや相撲の立ち会いを想起すれば分かり易いだろう。小兵でも、相手よりも素早く動いて相手に当たることができれば、相対的に強い力を生み出すことができるのである。

 第三の法則は、「すべての作用には必ず、大きさの等しい逆方向の反作用の力が存在する」として提示される。金槌で釘を打つと釘は板に埋め込まれるが、その際に釘から金槌へ反作用が生じ、私たちの手にジンと痛みが伝わる。あの忌まわしい痛みこそが反作用の力である。

 著者は、こうした一見すると難しいように思える法則や実験を、聴衆に興味を持ってもらえるように工夫を凝らす。生前のスティーヴ・ジョブズのように、講演の直前には何度もリハーサルを行い、入念な準備を怠らない。そうした努力は、物理学のたのしさを伝え、一人でも多くの人に興味を持ってもらうためだ。

 ここまでの執念を掛ける主な理由は、物事を見る視点を増やすことであると著者は言う。それは、美術を学ぶことで美術鑑賞の際の視点を増やすことと同じであるそうだ。美術を学ぶ前と後とでは、同じ絵を鑑賞する際の着眼点や感受の度合いが異なる。これを物理学という学問領域でも目指そうとして奮闘する著者の姿勢こそ、教育に携わる人間に必要な姿勢であろう。

2013年5月18日土曜日

【第158回】『堕落論』(坂口安吾、青空文庫、1947年)

 「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という葉隠を皮切りに、武士道とは神聖で侵し難い雰囲気を持った美徳のように扱われることが現代でも多い。現代でそうである以上、戦中においては比較にならないほどであったことは想像に難くないだろう。しかし、著者は、戦後すぐの1947年に出版された本書において、武士道を「人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった」と喝破した。時代背景を考えれば非常な勇気を要する主張であろうし、そうであるが故に多くの<日本人>に対していわば許しを与える主張であったのではないだろうか。

 武士道が体現されたとも言える戦陣訓において、私たちの父祖は「生きて虜囚の辱を受けず」という戒めを受けて戦地へ赴いた。この戒めを墨守して、玉砕戦法に従ったり、刃折れ矢尽きるまで戦って自死した方がいたことは事実であろう。ただ、多くの<普通>の<日本人>はそうでなかったということもまた、歴史社会学が明らかにしてきた近現代史における史実である。後者のような人間の持つ本質的な弱さを充分に知悉していたが故に、神聖であると言えば聞こえはよいが、非人間的であり非人性的な性質をも有する武士道は創造されたと著者は主張する。戦場における人間の弱さをコントロールするという極めてプラクティカルなロジックを持つ機能として武士道は創られたのであった。

 こうしたドロドロとした人間らしさを隠すことを<日本人>は歴史の中で繰り返し行ってきたと著者は主張し、武士道に続けて天皇制を挙げている。「靖国神社の下を電車が曲るたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口した」という舌鋒の鋭さには恐れ入るが、今でも靖国神社を神格化する言説は多い。靖国信仰を一つの表象とした天皇制に対する非人間的な禁忌のしくみの裏側には、<日本人>が自分自身のものとして目を向けたくなかった権謀術数が垣間見えると著者は述べる。つまり、天皇制を設け、天皇の近くにいることが権力を持っているという暗黙の了解を創り上げることで、<日本人>は自身の権力欲求を隠してきたのである。

 ユング派の心理学者であった故・河合隼雄は同じような趣旨のことを「中空理論」と読んだ。大統領を中心として制度ができあがり、大統領という中心にある存在自身が権力を握るアメリカをはじめとした西洋諸国における権力機構のあり方と対比して、日本は中心が空であると指摘したのである。すなわち、天皇という中心にいる存在が権力を保持するのではなく、天皇という中心に近い天皇「以外」の存在が天皇の権力を代替するというレトリックを用いて、代替者が実質的な権能を持つというしくみを<日本人>は築いてきた。さらに言えば、現代もそうした土壌から離れていない。人間的な本質を理解した上で、それを排除するために非人間的である禁止事項を設ける、という点で武士道と天皇制は共通する。こうしたロジックの形式を<日本人>は好んで用いてきたものであり、戦前と戦後とでそうした人間性は変わったわけではないと著者は主張する。

 さらにいえば、「もはや戦後ではない」と経済白書で謳われてから半世紀以上が経つ現代においても、<日本人>の本性は変わらないのかもしれない。そうであればこそ、著者が後半で述べている「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」という示唆が含意するところは重たい。なにか問題が起きた時に、表面的な事象を糊塗するように対処するのではなく、自分自身の裏側に流れる人間的な直面すること。そこからしか本質的な変容はなし得ない。ともすると他者からの安易な救いを求めてしまう私たちにとって、「政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。」という本書の最後のセンテンスを私たちはよく噛み締めることが大事であろう。


『臨済録』(入矢義高訳注、岩波文庫、1989年)
『善の研究』(西田幾多郎)
『気流の鳴る音』(真木悠介、筑摩書房、2003年)

2013年5月11日土曜日

【第157回】“Race against the machine”, Andrew McAfee


Though computerization makes our business and work change dramatically, we don’t have to be pessimistic about it, the author suggests. Considering about computerization, we should divide skills into possible ones and worthless ones.

Those skills which will be done by computers will be worthless rapidly and dramatically. They will lose the race against the machines. For example, routine processing, repetitive arithmetic, error-free consistency, and so on. 

On the other hand, possible ones are heavily related to human skills. According to the author, such human skills will be more valuable than ever, even in an age of incredibly powerful and capable digital technologies. The point is combining. If we combine human skills with other ones, there will be possibility of making benefits than before.

Especially, softer skills like leadership, team building, and creativity will become important in the coming computer age. They are the areas least likely to be automated by computers and most in demand in a dynamic and entrepreneurial economy.

We had better focus on two areas. One is improving the rate and quality of organizational innovation. And the other one is increasing human capital. Making progress in these two areas means not racing ‘against’ the machines, but allowing human workers and organizations to race ‘with’ the machines.


“Makers” by Chris Anderson
“Inside Apple”, Adam Lashinsky, BUSINESS PLUS, 2012
“Creative Decision Making –Using Positive Uncertainty- ”(Gelatt, H.B. and Gelatt, Carol ,Crisp Series, 2003)

2013年5月6日月曜日

【第156回】『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー、原卓也訳、新潮文庫、1978年)


 三十路に足を踏み入れる少し前から、苦手であった小説に再度目を向け、また物理や化学の入門書も好んで読むようになった。英会話レッスンを受けているチューターにそのエピソードを話したら、「それはmatureになったからじゃないの」と一笑に付された。人の好みの変化とはそのようなものかもしれない。ビールの喉越しを心地よく感じられるようになること、ワサビの苦味が分かるようになること。こういったことと並列して、読書の傾向が変わることということも挙げられるのかもしれない、と得心してチューターには「totally agree with you.」と返した次第である。

 本書は、昨年夏に読んだ『罪と罰』以来のドストエフスキー作品である。救いがないような陰鬱とした場面がほとんどであるにもかかわらず、ここぞという場面で対比的に人間精神のすばらしさを明示する著者の技量はさすがである。

 「お前は大きな悲しみを見ることだろうが、その悲しみの中で幸せになれるだろう。悲しみのうちに幸せを求めよーーこれがお前への遺言だ。働きなさい、倦むことなく働くのだよ。」(上・185頁)

 主人公・アリョーシャが、敬愛するゾシマ長老から遺言として諭された言葉である。後に起こる重大な事件を暗示させる恐ろしい言葉が含まれており、私たち読者は悪い予感をおぼえながらこの先を読み進めることとなる。しかしそれと同時に、悲しみの中で幸せを見出すという極めて肯定的なメッセージが明示されている点にも注目すべきだろう。かつ、幸せとは受身的に待っていれば得られるということではなく、あくまで自ら主体的に働きかけることでアプローチできるというところにより注視したい。

 「あさはかにも、富を貯えれば貯えるほど、ますます自殺的な無力におちこんでゆくことを知らないのです。なぜなら、自分一人を頼ることに慣れて、一個の単位として全体から遊離し、人の助けも人間も人類も信じないように自分の心を教えこんでしまったために、自分の金や、やっと手に入れたさまざまの権利がふいになりはせぬかと、ただそればかり恐れおののく始末ですからね。個人の特質の真の保証は、孤立した各個人の努力にではなく、人類の全体的統一の内にあるのだということを、今やいたるところで人間の知性はせせら笑って、理解すまいとしています。しかし今に必ず、この恐ろしい孤立にも終りがきて、人間が一人ひとりばらばらになっているのがいかに不自然であるかを、だれもがいっせいに理解するようになりますよ。」(中・104頁)

 ゾシマ長老が自らの死に際してアリョーシャをはじめとした弟子たちに伝えた物語の一部である。筆者をして、近代市民社会ひいては個人主義の行き過ぎに対する警鐘を述べさせている。ここにある危惧は、コミュニケーション不全の問題、「格差社会」という言葉に示される問題、孤立化や孤独死といった問題、というかたちで現代社会にそのままかたちとして表れている。社会に対する問いかけ、そうした社会の中で生きる人々への警句に満ちた刮目すべき箇所であろう。

 「胸がいっぱいだったが、なんとなくぼんやりしていて、一つの感覚も際立たず、むしろ反対にさまざまの感覚があらわれては、静かな淀みない回転の中で次々に押しのけ合うのだった。」(中・238頁)

 敬愛するゾシマ長老の死を受けて、悲しみに沈みながらも気持ちを整理しようとするアリョーシャの心情を描写したシーンである。あまりに悲しい事象に直面した時、人の中にある感情というものはこういった複雑なものなのだろう。なにもかもが悲しく思えるということではなく、それを整理しようとする感情もあり、また自身の内部や外部に対してセンスできる領域が広がる、といった感覚もあるのだろう。一つの悲しい外的な出来事に対して、内的には複数の世界観が広がるという著者の描写にこそ、多様であり複雑な人間模様がくっきりと明らかになっているように思える。

 「僕は君に信と不信の間を行ったり来たりさせる。そこに僕の目的もあるんだからね。新しい方法じゃないか。現に君はまったく僕を信じなくなると、すぐに面と向って僕に、僕が夢じゃなく本当に存在するんだと強調しはじめるんだからね。(中略)もう一度言うけれど、要求を節することだね。僕に《すべての偉大な美しいもの》なんぞ要求しないことだ」(下・346~350)

 アリョーシャの次兄であるイワンが譫妄症に苦しむ中で、もう一人の自分である幻覚と対話するシーンである。譫妄症という悲劇的な情景の中において、著者が、信と不信を行き来させるという二項対立を描き出している。その上で、何かを信じることと、何かを信じないこと、という二項対立を弁証法的に解決する第三の態度を最後に強調している。この点は「仏にあっては仏を殺す」という『臨済録』を想起させ、含蓄ある思弁は古今東西を問わないことの典型であろう。

 「みなさん、君たちはみんな今から僕にとって大切な人です。僕は君たちみんなを心の中にしまっておきます。君たちも僕のことを心の中にしまっておいてください!ところで、これから一生の間いつも思いだし、また思いだすつもりでいる、この善良なすばらしい感情で僕たちを結びつけてくれたのは、いったいだれでしょうか、それはあの善良な少年、愛すべき少年、僕らにとって永久に大切な少年、イリューシェチカにほかならないのです!決して彼を忘れないようにしましょう、今から永久に僕らの心に、あの子のすばらしい永遠の思い出が生きつづけるのです!」(下・655~656頁)

 アリョーシャの友人であるイリューシェチカ少年の死を受けて、それを悼む友人知己に向って、哀悼と自分の旅立ちとにおけるアリョーシャの餞の言葉である。上巻の後半にあるイワンによる大審問官の件が本書のハイライトであると巷間では言われることが多いが、私はむしろこの最後の件が、希望を見出せるために印象深い。冒頭でも述べた通り、基本的に暗いトーンが占める本作品の中において、死を扱うために筆致を抑えながらも底抜けに明るいこの部分が清々しいのである。大事な人との別れや、節目となる旅立ちといった人生の岐路において、思い出したい一文である。

2013年5月5日日曜日

【第155回】“Thinking, Fast and Slow”, Daniel Kahneman


The author says that there are two main functions in human brain. He calls them System 1 and System 2, and defines them as below.

System 1 operates automatically and quickly, with little or no effort and no sense of voluntary control.

System 2 allocates attention to the effortful mental activities that demand it, including complex computations. The operations of System 2 are often associated with the subjective experience of agency, choice, and concentration.

These two definitions are related to the title of this book. “Thinking fast” is from System 1. System 1 is impulsive and intuitive, that is to say, it is basically rooted into nature of human. 

Then “Thinking slow” is from System 2. System 2 controls System 1, and it is capable of reasoning. It is in charge of doubting and unbelieving. It takes System 2 much time to think deeply. So, when there are more problems than System 2 can solve, we have to depend on System 1 however complicated the situation is.

In chapter 26th, he explains one of his most famous theories, prospect theory. According to prospect theory, we tend to turn down very favorable opportunities because we suffer from extreme loss aversion. If you want to understand it precisely, check Figure 10 in chapter 26th.

2013年5月4日土曜日

【第154回】『続・氷点 上・下(改版)』(三浦綾子、角川書店、2012年)


 『氷点』のラストシーンで暈されていた結果が『続・氷点』の冒頭で明らかとなる。そういった意味ではこれから書く内容は『氷点』のネタバレに繋がる可能性があるため、『氷点』を読みたい方にはお読みいただかないことをお勧めしたい。

 先日のエントリーにて『氷点』のテーマを「敵性」としたが、それに続く本作のテーマは「ゆるし」と「原罪」ではなかろうか。

 第一にゆるしについて。

 他者をゆるすとはなにか。他者からの贈り物がどんなものであれ、心から感謝できる人間は聖人のようだと著者は登場人物に語らせる。続けて、他者から贈られたものに不満ばかり述べる人物を感謝する心がないと批判する。しかし、それに加えて、そうした人物を批判する自分自身こそが、感謝を知らない人間ではないか、という自己批判をさせる。つまり、結局は、他者に感謝するべきであると思う心情自体が、感謝する心が足りないことを示しているのであろう。ともすると、自分自身を良い者として認識した上で、他者を断罪する心根を省みる必要性があるのではないだろうか。

 さらに、他者を責める心情は、自分自身を責めるという謙虚な姿勢を失いがちになってしまう。一つの問題に関して、その責任を全て担う主体が一人であるということはないだろう。そうした自分自身の姿勢に気づかされたのは、他者からもらった手紙を読みながらというタイミングであるという点が興味深い。自分の行動を直接的に省みることということは難しい。とりわけ、近しい人物との関係性を省みることは至難の業だ。本書では手紙がそのツールとして出ているが、私が自分自身を省みられているという点から鑑みれば、小説というのは有力なツールなのであろう。

 無条件に他者に感謝すること、感謝できているかを自ら省みること。こうしたことがゆるしに繋がるということであろう。

 第二に原罪について。

 原罪と向き合うこと。自分の過去の過ちを原罪として認識して思い悩む登場人物が、その過ちの結果について知ろうとする。自分の傷口をなぜ知ろうとするのか。罪の結果を知ったところで、その結果が変わるわけではない。しかし、「知ることによって、わたしは何か自分の生き方をただされるような気がする」という台詞が重たい。知ること自体に意味があるということが世の中にはあるのだ。その問題が重たければ重たいほど、何らかの方法で解決しようということではなく、問題の所在とその結果を知ろうとする勇気が求められるのかもしれない。

 さらには、鼎の軽重を問わなければ、だれにも原罪はある。原罪自体はキリスト教の考え方であるが、感覚的にはだれでも分かる考え方であろう。原罪の在処をしることは大事であるが、その解決策までを導き出すことは難しい。そうした行動ではなく、態度としてどのように原罪に接するか。著者は、自身の出生という自分でコントロールできないものに対して思い悩む登場人物に「生れて来て悪かった人間なら、生れて来てよかったとみんなにいわれる人間になりたい」と語らせる。むろん、それだけで心が晴れるということはないであろうが、原罪という誰もが持つ自身の心の闇に対して向き合うヒントになるのではなかろうか。


『氷点 上・下(改版)』(三浦綾子、角川書店、2012年)

2013年5月3日金曜日

【第153回】『氷点 上・下(改版)』(三浦綾子、角川書店、2012年)


 昨年、ある大学で「キリスト教学」という授業を聴講していた。大変興味深い授業であり、クラスの中で牧師であり教授である先生から勧められたのが本書である。当時、強く興味を持ったのであるが、小説をあまり読む習慣が乏しい身であるために他の書籍よりも優先順位がつい低くなってしまい、現在まで読まずにおいてしまっていた。

 本書で最も印象的なフレーズは「汝の敵を愛せよ」という新約聖書の「マタイによる福音書」第5章および「ルカによる福音書」第6章の章句である。主人公の一人が小説の冒頭でその章句を用いたある判断を為している。愛、憎しみ、原罪といった概念が本書のテーマであるとする解説が多いようであるが、私が本書に見出したテーマは「敵性」である。

 本書では、あらゆる人があらゆる相手を敵として認識するタイミングがおぞましいほどに描写されている。敵意を持つことで、ある者は相手に対して敵意を剥き出しにした言動を取り、またある者は敵意を押さえ込もうと自分自身を傷つける。しかし、こうした敵意はある相手に対して普遍的に抱く感情ではないこともよく読み取れる。ある文脈において、あるタイミングに限定された状況において、「敵性」を認識し、最終的にはその人物自身に苦悩を与える。

 そうであるからといって、「敵性」を取り除くことは果たしてできるのであろうか。本書の主人公の一人は瀕死の状況に置かれた際に生きながらえたらそれまで抱いていた「敵性」を解き放とうと決意したにも関わらずそれは叶わなかった。彼に言わせれば、自分自身が他者に対する「敵性」を解き放とうとしても、他者はなにも変わろうとせず昔の自分自身に引き戻そうとするが故に変わり続けられない、とする。

 ではこうした絶望的な法則に私たちは従い続けなければならないのだろうか。「敵性」じたいをなくすことは残念ながらできないだろう。しかし「敵性」を抱きながら折り合いをつける術はあるのではないだろうか。

 そのヒントとなるような考え方が「マタイによる福音書」第5章の中の「汝の敵を愛せよ」の後に「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」にあるように私には思える。つまり、「敵性」を悪であると考える私たちのステレオタイプな考え方が誤っているのではないか。自分を愛してくれる人を愛するだけでは人間的な発展可能性は少ないからだ。

 そうではなく、「敵性」を抱く相手や文脈において、そうした状況を認め、他者を愛するよう努力することで私たちには何らかの報いが得られるのではないか。『こころ』の中で漱石に書かしめた「精神的に向上心のない者はばかだ」という文句を彷彿とさせられる人間的成長に繋がることに思いを馳せさせられた。


『老人と海』(ヘミングウェイ、福田恆存訳、新潮社、1966年)
『罪と罰(上・下)』(ドストエフスキー、工藤精一郎訳、新潮社、1987年)
『破壊』(島崎藤村、青空文庫)