江戸時代末期において、志士と呼ばれた人物には、思想を語るタイプと、暗殺を含めた争闘ばかりを好むタイプの二種類がいるものだと思っていた。前者が吉田松陰や坂本龍馬であり、そして後者の典型が新選組だと捉えていたのである。本書は新選組の土方歳三を主人公として描かれたものであり、読む前に抱いていた上記のような簡単な二分法は通用しないということを思い知らされた。
芹沢系、近藤系の勢力関係から、局長を三人つくらねばならなかった。芹沢系から二人出て、芹沢鴨と新見錦。 近藤系からは、近藤勇。 その下に、二人の副長職をおいた。これは近藤系が占め、土方歳三、山南敬助。 「歳、なぜ局長にならねえ」 と、近藤がこわい顔をしたが、歳三は笑って答えなかった。隊内を工作して、やがては近藤をして総帥の位置につかしめるには、副長の機能を自由自在につかうことが一番いいことを歳三はよく知っている。 なぜなら、隊の機能上、助勤、監察、という隊の士官を直接にぎっているのは、局長ではなく副長職であった。(上巻256~257頁)
見事な組織マネジメントではないか。組織における情報経路をどのようにデザインし、情報の結節点に自らを置く。こうした施策が、近藤勇をして新選組のトップにして組織を強化するという大目的をもとに行われているのである。役職や名前が今日と比較にならないほど重要視されていた当時の時代背景という観点を加味すれば、土方のマネジメントの凄みが分かるものだろう。
さらに土方は、組織を日本式から西洋式へと再設計する。
「どうやらこれからの戦さは、北辰一刀流も天然理心流もないようですなあ」 が、歳三、絶望の言葉ではなかった。 今後は洋式で戦ってやろう、という希望に満ちた言葉だった。(下巻170頁)
鳥羽伏見の戦いにおいて、西洋近代の兵器を大量に用いた薩長軍に敗れた後の描写である。剣の道に行き、剣での争闘に絶対的な自信を持っていた人物が、一つの戦いでここまでして達観できるものなのか。この描写においても、歳三がいかにして自分自身というよりも新選組という組織を強化するためのマネジメントに対する意識が強かったかが分かるようだ。実際に、五稜郭に至るまで、歳三は幕軍を西洋近代的な軍事組織へと変容させて、薩長を苦しめることとなる。
ではこうした変化を許容できるマインドセットがどこから出てきているのか。著者は、藩に属さない志士であったという点にその答えを求めている。
歳三も近藤も、芹沢のいうようにいかなる藩にも属したことがない。それだけに、この二人には、武士というものについて、鮮烈な理想像をもっている。三百年、怠惰と狎れあいの生活を世襲してきた幕臣や諸藩の藩士とはちがい、 「武士」 という語感にういういしさを持っている。(上巻305頁)
関ヶ原から江戸初期に至る剣豪・宮本武蔵を彷彿とさせるシーンである。武蔵もまた、吉岡一門との闘いのような初期の危なげな争闘から、剣の道を極めるというおよそ哲学に近しいものへと己を変容させている。理想があるからこそ、外部にある可能性に目を向けることができ、自身のそれまでの経験やスキルにこだわらない。だからこそ、変われるのである。
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