2013年5月26日日曜日

【第161回】『キュレーション 知と感性を揺さぶる力』(長谷川祐子、集英社、2013年)


 現代アートとは、世界の新しい捉え方を提示する存在である。同じ対象物であっても、それをどの角度から眺めるか、どのような経験を持っている主体か、等によって内的に見えてくる世界は異なる。<普通>の人が思いつかないような、しかし提示されれば自ずと分かるようなものを現代アートは問うてくる。こうした現代アートを意図的に収集して展覧会等を企画するのがキュレーターである。著者の定義によれば「視覚技術を解釈し、これに添って、芸術を再度プレゼンテーションすること」がキュレーターの仕事だ。

 キュレーターの歴史はそれほど古くはなく、十九世紀以降に生まれた職業だそうだ。それ以前は、芸術が体現する価値が、その時点での地域社会や宗教に根ざしたものであったために、誰もが同じコンテクストで理解可能であった。したがって、宗教画であれ、風景画であれ、多くの人にとって価値を理解し易いものだったのである。しかし、その後のポストモダン思想の隆盛により価値観が多元化する中で、芸術の価値そのものが問われるようになってきている。こうした現代においてこそ、キュレーションが必要とされる。

 一つの展覧会の中において、キュレーターは「知性と感性のシャッフル」を行うという著者の言葉が言い得て妙だ。シャッフルという言葉の響きには、観察者の内側に潜在的にあるものの見方を引き出すことが含意されていると言えよう。したがって、アートを通じて新たな知識や知覚を得るということではなく、自身の既存の知覚が不完全であることを知覚することが促される。自身の知覚の不完全性や不連続性を知ることではじめて、私たちはそれを補うための想像力であり創造力を見出すことになる。そうした作用を引き出すことがキュレーションということであろう。

 アートのあり方の変容は、必然的に観察者とアートとの関係性の変容を導いている。十八世紀以前のアートは、それ自体が価値を体現していたため、観察者はその完全性をいかに理解し、受容するか、という態度での鑑賞が求められた。しかし、現代アートと対峙する観察者は、自身の不完全性とともに現代アートの不完全性とに直面することになる。したがって、アートと観察者との相補関係、観察者の想像力によってはじめて現代アートの価値は顕在化する。

 こうした観察者とアートとの関係性の変容は、展覧会を開く美術館という存在をも変えることになる。一言で言えば、それまでの静的な存在から動的な存在への変容である。つまり、人々を啓蒙するあり方から、人々との絶え間ざる相互交渉によって価値が生まれる存在になるのである。「モノから情報へ、個人の知的生産活動から集合的な知性、関係性の形成による生産のありかたへ、文化をとらえる視線や価値観の一元性から、多元性への移行という文化全体の流れに対応せざるを得なくなった」とも言えるだろう。

 アートの変容、観察者の変容、美術館の変容といった一連の流れの延長線上に、フォーカスする領域を地域社会へと広めるという発想が出てくることは自然であろう。そうした動きの一つとして、既存の地域社会をキュレーションによって活性化する運動が盛んになってきている。日本でいえば、瀬戸内海のいくつかの島での取り組みなどが有名だ。直島にはもう一度訪れたくなったし、著者が関連した犬島や金沢21世紀美術館もぜひ訪れたい。


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