2016年3月27日日曜日

【第560回】『門【2回目】』(夏目漱石、青空文庫、1910年)

 改めて、最後の参禅のシーンに唸らさせられる本作。最後へと至る淡々とした日常の描写もまた入り込んで読めた。

 彼は黒い夜の中を歩るきながら、ただどうかしてこの心から逃れ出たいと思った。その心はいかにも弱くて落ちつかなくって、不安で不定で、度胸がなさ過ぎて希知に見えた。彼は胸を抑えつける一種の圧迫の下に、いかにせば、今の自分を救う事ができるかという実際の方法のみを考えて、その圧迫の原因になった自分の罪や過失は全くこの結果から切り放してしまった。その時の彼は他の事を考える余裕を失って、ことごとく自己本位になっていた。今までは忍耐で世を渡って来た。これからは積極的に人世観を作り易えなければならなかった。そうしてその人世観は口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目であった。心の実質が太くなるものでなくては駄目であった。
 彼は行く行く口の中で何遍も宗教の二字を繰り返した。けれどもその響は繰り返す後からすぐ消えて行った。攫んだと思う煙が、手を開けるといつの間にか無くなっているように、宗教とははかない文字であった。(Kindle No. 3283)

 参禅を決意する決定的な出来事の直後において宗助が悩むシーンである。徹底的に悩むことで自分を省み、それでも救われない自分と対峙して、自分や他者を超えた宗教という存在に身を委ねたくなるのかもしれない。

 宗助には宜道の意味がよく解らなかった。彼はこの生若い青い頭をした坊さんの前に立って、あたかも一個の低脳児であるかのごとき心持を起した。彼の慢心は京都以来すでに銷磨し尽していた。彼は平凡を分として、今日まで生きて来た。聞達ほど彼の心に遠いものはなかった。彼はただありのままの彼として、宜道の前に立ったのである。しかも平生の自分より遥かに無力無能な赤子であると、さらに自分を認めざるを得なくなった。彼に取っては新らしい発見であった。同時に自尊心を根絶するほどの発見であった。(Kindle No. 3549)

 自分を飾ることを私たちは自然と行ってしまう。そして、そうしたことに自覚的ではなく、無自覚に自分自身を飾って他者からよく見えるようにしてしまう。そうした自分の有り様は、ありのままで生きている人と接することによって感じ取ることができるものなのだろう。

 「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」とたちまち云われた。「そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える」(Kindle No. 3684)

 老師の前で、自分自身に与えられた題目に対しての回答を行った宗助は、見事に一刀両断される。知識によってなんとなくわかった気になってしまうこと、思索を止めてしまうこと、というのは理解できる。自分の中にある何かに真剣に向き合うということは、考えることでは捉えられないのだろう。


2016年3月26日土曜日

【第559回】『入門 組織開発』(中村和彦、光文社、2015年)

 HRの領域において、「組織開発」という言葉は、ビッグワードとしてなんでも吸収できる容れ物のように捉えられがちだ。本書を紐解けば、不必要なものまで取り入れようとせず、適切に組織開発の文脈に合致した施策を検討することができる一助となるだろう。組織開発という捉えどころが難しい概念を、丹念に、初学者がわかるように噛み砕いて説明された著者に頭が下がる思いである。

 組織開発とは何か。著者はウォリックの定義を日本語訳した「組織の健全さ(health)、効果性(effectiveness)、自己革新力(self-renewing capabilities)を高めるために、組織を理解し、発展させ、変革していく、計画的で協働的な過程」(Kindle No. 795)を以て組織開発の定義としている。この定義に基づいて考えれば、組織開発が捉える射程範囲が広いことは納得的であるし、他方であくまで対象は個人ではなく組織であることに留意すべきだろう。組織が対象としてなぜ取り上げられるようになったのか。その背景を著者は端的に以下のように述べる。

 現代は個業化が進む環境要因が多いので、関係性に対するマネジメントを何もしなければ、自然に個業化へと向かっていきます。そして、職場が個業的な関係になっているか、協働的な関係になっているかは、会社の風土や、職場のマネージャーのスタイルや姿勢が大きく影響します。そして、個業化した状態で個人の容量を超えた仕事をこなす状態が長期的に続き、上司や他のメンバーからの心理的サポートを受けることができない場合、うつなどのメンタルヘルスの問題が起こる可能性が高まります。(Kindle No. 534)

 組織とは、ハコモノでもあるが、その本質を関係性において捉えるとわかりやすい。関係性としての組織という観点に立てば、著者の言う個業化が進む現代の組織において、問題が内包されていることは容易に理解できるだろう。このように、扱う対象が組織であれば、組織や人を巻き込みながらビジネスを変革していくリーダーがその射程範囲に含まれることは自明だ。

 GEでの取り組みやマネジリアル・グリッドの考え方からすると、リーダー養成を通して組織開発を進めていくには次の要素が必要になってきます。
 ①理想となるリーダー像のモデルを浸透すること
 ②リーダーが職場で実践していくための仕組み(取り組みの推奨や場の設定、評価)が必要であること
 ③業績だけではなく、GEでのバリュー、または、マネジリアル・グリッドでの人に対する関心のように、人間的側面の軸を組織のトップが重視し、その浸透に本気で取り組むこと(Kindle No. 1339)

 GEにおけるリーダーシップ育成はあまりに有名だ。そのポイントを組織開発の観点から述べる著者の指摘には呻らさせられる。まず、マネジリアル・グリッドは手段に過ぎず、それによって理想となるリーダー像を可視化するという視点が興味深い。そうしたモデルを基軸に据えた上で、タレントが当事者として職場でリーダーシップを発揮できる様々な仕組みを統合していく。それぞれの仕組みはパズルのように当て嵌められるものではなく、有機的に組み合わせるためには、誠実に、本気で取り組むことしかないだろう。

 組織開発での究極的な問いは、「あなたはどのような職場や組織をつくりたいのか?」、さらに絞り込むと、「あなたはどのような関係性が育まれている職場や組織をつくりたいか?」ということだと私は考えています。(Kindle No. 1240)

 リーダーシップ開発であれなんであれ、組織開発を進める上で著者が掲げる主たる問いが投げかけるものは重たい。小手先のテクニックやアクションに走る前に、beingを組織のレベルで考え、それをメンバー間で共有し、個別の組織や人材に落とし込むこと。心して取り組みたい深みのある問いである。


2016年3月21日月曜日

【第558回】『それから【2回目】』(夏目漱石、青空文庫、1909年)

 高等遊民の考えることは分からない。不倫はさらに分からない。しかし、そうであっても、代助の抱く無気力と悩みと葛藤がないまぜになった名状しがたい心持ちは、強く何かを訴えかけ、共感を呼び起こすのだから不思議だ。

 梅子の云ふ所は実に尤もである。然し代助は此尤を通り越して、気が付かずにゐた。振り返つて見ると、後の方に姉と兄がかたまつてゐた。自分も後戻りをして、世間並にならなければならないと感じた。(Kindle No. 2225)

 日々働かず、結婚もせずに、親からの援助だけで生活を送る。おそらく現代においてはなかなか成立しづらい生活を代助は送る。そこに強い意志があるわけではなく、せこせこと働く人々を卑下することで、自分の存在を確かめる。そうした彼であっても、自分自身と他の家族との相違を意識はしているのだから、面白い。

 現代の社会は孤立した人間の集合体に過なかつた。大地は自然に続いてゐるけれども、其上に家を建てたら、忽ち切れぎれになつて仕舞つた。家の中にゐる人間も亦切れ切れになつて仕舞つた。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。(Kindle No. 2619)

 他者と自分との違い。そこに個体と個体の違いを見出し、そうした相対化の作用を近代市民社会の宿命であると代助は述べる。そうであるからこそ、絶え間ざる相対化の作用を超えた絶対化を人は時に求めるのであろうか。そしてそれが、代助を三千代との破滅的な、しかし絶対的な関係性へと走らせたものであろうか。

 其上彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲はれ出した。其不安は人と人との間に信仰がない源因から起る野蛮程度の現象であつた。彼は此心的現象のために甚しき動揺を感じた。彼は神に信仰を置く事を喜ばぬ人であつた。又頭脳の人として、神に信仰を置く事の出来ぬ性質であつた。けれども、相互に信仰を有するものは、神に依頼するの必要がないと信じてゐた。相互が疑ひ合ふときの苦しみを解脱する為めに、神は始めて存在の権利を有するものと解釈してゐた。だから、神のある国では、人が嘘を吐くものと極めた。然し今の日本は、神にも人にも信仰のない国柄であるといふ事を発見した。さうして、彼は之を一に日本の経済事情に帰着せしめた。(Kindle No. 2950)

 ここで、絶対的な関係性とは、人と人との間に生じる信仰ではないかと置いてみたくなるが、いかがであろうか。代助と三千代との、絶対的な関係性は、信仰なのである。そう考えると、合理的に捉えられない理由がわかるように思える。


2016年3月20日日曜日

【第557回】『三四郎【2回目】』(夏目漱石、青空文庫、1909年)

 改めて、前期三部作を読もうとまずは第一作から。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」(Kindle No. 255)

 熊本から進学のために上京する三四郎の認識を改めさせるような至言である。私たちは、場所的な意味であれ経験的な意味であれ、新しい物事に取り組む際には躊躇してしまい、自分を不確かな小さな存在だと思ってしまう。もちろんそうした側面もあるだろうが、自らが制約を勝手に創り出してしまうという側面も、あるだろう。何かにとらわれて、自分を狭い視点に留めることに気をつけたいものだ。

「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回しているうちにはおのずからもの足りるようになるさ」と言う。
「なぜ」
「なぜって、そう、生きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上にもの足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつもっとも軽便だ」(Kindle No. 579)

 大学の講義をまじめに受講する三四郎に対して、与次郎が助言をする場面である。大学で行われる講義を否定するつもりはないが、残念ながらその全てが有益なものではない。すべての講義を遮二無二まじめに取り組んでみることは間違いではないが、そこに固執することは必ずしも健全なことではない。ここでもとらわれてはいけないというメッセージが含意されていると読み取るべきではなかろうか。

 三四郎はこういう場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。だからただ黙っている。そうして黙っていることがいかにも半間であると自覚している。(Kindle No. 1779)

 ストレイ・シープという本作のキーワードの一つである言葉を美禰子から告げられるシーンである。わからない言葉を伝えられてそれを理解し、正しく対応しようと判断を留保する気持ちはよくわかる。組織で働くとそうした時の対応というものに良くも悪くも慣れてしまい当座の対応というものができるようになるが、学生であれば難しいものだ。そうした昔の気持ちを思い出させる場面である。

 近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。(Kindle No. 2347)

 近代の個人主義に対する示唆であり、後の『私の個人主義』では自己本位を留保つきで肯定的に述べていることを斟酌する必要があるだろう。いわば他者に対する共感性や他者を意識しないで自己本位を全うすると露悪家になってしまう、という警鐘ではなかろうか。

2016年3月19日土曜日

【第556回】『坊っちゃん』(夏目漱石、青空文庫、1906年)

 以前は読んでもあまり印象に残らなかったのであるが、久々に読んだら面白く、するすると読めた。同じ作者の作品でも印象は異なるし、同じ作品でも読むたびに印象は異なる。小説とは、そうしたものなのかもしれない。

 野だの云う事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するぎりで訳が分らない。分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ。(Kindle No. 1177)

 痛烈な皮肉の表現であるとともに、近代社会への風刺と言えるのではないだろうか。程度の差はあれ、「野だ」のような人物とは身の廻りにいるものだ。

 その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。(Kindle No. 2479)

 簡潔にして明瞭な心情の表現である。別れや旅立ちというものには涙が似合うものであろうが、こうしたサバサバとした表現もまた心地よい。


2016年3月13日日曜日

【第555回】『禅マインド ビギナーズ・マインド』(鈴木俊隆、松永太郎訳、サンガ、2010年)

 すらすらと読める読書も心地よいが、一文一文をじっくりと噛み締めながら読んで行きつ戻りつする読書というのも心地よい。本書は、著者の講演録であることもあり、後者を体験できるものであった。禅について学ぶというよりも、禅的体験を疑似体験できるような、また、日常の中でふと深呼吸できるような、趣深くかつカジュアルな一冊である。

 本当の目的は、ものごとをしっかりと、ありのままに見るということ、すべてを起こっては消えていくままにしておく、ということなのです。(42頁)

 禅の目的について著者は端的に上記のように述べる。門外漢としては、何かを会得したり、解脱したりといったものが禅の目的のように誤解してしまうのであるが、「ありのままに見る」という表現にハッとさせられる。私たちは、日常の中においてステレオタイプに自動的に何かを見てしまったり、自己の内面の投影として他者や現象を理解しようとしてしまう。そうではなく、起こっていることをありのままに見ることは存外難しく、だからこそ私たちにとって重要なことなのであろう。

 なにか特定のものを見ようとしないこと、なにか特別なものを達成しようとは思わないことです。あなたはすでに、その純粋性の中にすべてを持っているのです。(90頁)

 ありのままに見るためには、特定の先入見や仮説を持って事象を捉えようとしないことを意味する。そうした固定観念を持たない状態であればこそ、ものごとをありのままに見ることで様々なものと感得でき得る可能態を持っているということであろう。

 努力をしなければならないけれども、努力をしているという自分を忘れ去らねばならない。ここでは、主体も客体もないのです。(50頁)

 ありのままにものごとを見るということは、必ずしも受け身でものごとに取り組むということを意味しているのではない。努力もまた、日常生活においては重要な要素となることを著者は認める。しかし興味深いのは、努力をしている自分という存在に対する認識をなくせとしている点である。忘我の努力と捉えれば、チクセントミハイを想起させるが、フロー理論との関係性が禅にはあるのではないだろうか。

 窮屈さの中で、自分の道を見つけること、それが修行の道です。(59頁)

 自分にとって厳しい状況について、苦しいという表現ではなく窮屈という表現を用いているところが面白いし納得的である。したがって、修行という概念のイメージとして、苦しさという言葉を用いるのではなく、窮屈という言葉を置いてみると見えてくる情景が異なってくる。

 もちろんなにか新しいことをするためには、過去を知らないといけない。それはかまわないのですが、ただ行ったことにとらわれなければいいのです。(105頁)

 努力を継続していくほど、新しいチャレンジに直面することはよくあるだろう。そうした時に、過去における事例やベストプラクティスを学ぼうとするものだ。著者は、こうした行動自体を否定するのではなく、そうしたものを学んだ後にとらわれないようにすることを指摘する。単純なアドバイスではあるが、行うことは必ずしも容易ではない。学べば学ぶほど、私たちはそのプロセスに価値を置きたくなるために、学んだ内容を過剰に評価し、その結果としてとらわれてしまうのである。なにかを学ぶことによるとらわれというリスクに自覚的でありたいものである。

 教えに固執したり、また師に執着したりするのは、大きな間違いです。師に会ったとたんに師を離れ、独立しなければなりません。師が必要なのは、自立するためです。師に執着しなければ、師はあなた方自身に帰っていく道を示すでしょう。(115頁)

 学ぶ内容への執着だけではなく、学びを促してくれた主体である師への執着をも戒める。師に執着しないということは、誰もが師であり、何からも学べるという学習のオープンネスにも繋がる。何かを絶対視するのではなく、また永続する相対化のプロセスに辟易とするのではなく、あらゆる存在からあらゆる学びを得られることに感謝をするという態度が求められるのではないだろうか。

 問題を解くには、問題の一部になること、問題と一つになることです。(124頁)

 主客がないまぜになった状態としてものごとをありのままに見るという禅的なアプローチで捉えれば、問題という客体に対して自己という主体が解決するという発想にはならない。ために、問題の中に含まれるもしくは問題を生み出す要素のひとつとしての自己という捉え方をすることが、結果的に「問題」の解決に繋がる。

 私たちは、目標へ到達しようとして、道の意味を失ってしまうのです。しかし私たちの道をしっかりと信じていれば、あなたはすでに悟りを得ているのです。道を信じるとき、悟りはそこにあります。(154頁)

 目標を過剰に意識し、そこへの到達に意識が傾注してしまうことは、手段の目的化へと堕してしまう。そうした自分で自分を苦しめるのではなく、道という形のない存在を信じ、ありのままを見ながら一つひとつの事象を大事にすることが重要なのではないか。


2016年3月12日土曜日

【第554回】『働くということ』(黒井千次、講談社、1982年)

 二十代中盤の頃、研究対象としても自分自身の問題としても、キャリアについて真剣に考えた時期がある。その頃に知人に勧められて読んで以来、折に触れて本書を読み返すようにしている。

 目覚し時計に叩き起され、ネクタイをしめ、満員電車に揺られて通勤して行くからには、そこで払った犠牲に相当するだけの実質的な見返りがなくてはならない。そして、もし働いても働かなくとも会社に縛られている時間に対して同じ給料が支払われるのなら、その見返りとは金銭以外のものでなくてはならないのだ。それが仕事の手応えに他ならない。(68頁)

 働くことは、生きていくために、もっと言えば食べていくために必要なことであることは間違いないだろう。しかし著者は、合理化によって単調化する傾向のある近代的な意味での仕事において、そこに手応えを感じたくなるものだとしている。働くことによって、自己や自分の意味を外化しようとしているのであろう。

 現代の「労働」を「自己疎外」などという便利な言葉であまり簡単に処理してはならない。もしも今日の「労働」の中には「自己疎外」しかないのだとしたら、これこそが「疎外」された俺だ、といえるギリギリの地点にまで自分を追い込んでみる必要がある。(178~179頁)

 仕事に意味を見出すことが難しい状況であっても、それを安易に仕事の近代化に伴う疎外に逃げることを著者は厳しく戒める。マッチョな思考なのかもしれないが、自分自身を仕事に没入させて意味を見出すべく努力を続けることが私たちには求められているのであろう。

 働くということは生きるということであり、生きるとは、結局、人間とはなにかを考え続けることに他ならない。(180頁)

 著者の最後の言葉を意識しながら、働くということを考えて生きてみたいものだ。


2016年3月6日日曜日

【第553回】『後世への最大遺物』(内村鑑三、青空文庫、1907年)

 NHKの「100分de名著」での『代表的日本人』の特集の際に、同著とセットになる作品として本書が挙げられていた。著者の想いがふんだんに盛り込まれる本書を読めば、その理由がわかるだろう。

 私はここに一つの何かを遺して往きたい。それで何もかならずしも後世の人が私は褒めたってくれいというのではない、私の名誉を遺したいというのではない。ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである、すなわち英語でいうMementoを残したいのである。こういう考えは美しい考えであります。(Kindle No. 119)

 何かを遺すということを考えると、自分自身の虚栄心を満たすためのものと捉えられることもあるだろう。しかし著者は、世界や人々をどれほど愛していたかということの結晶が何かを遺すということであると述べる。崇高な想いに嘆息せざるをえない。

 それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。(Kindle No. 621)

 では私たちが後世に遺すべきものとは何か。「高尚なる勇ましい生涯」という感慨深い言葉を噛み締めながら、生きていく中で見つけたいものだ。


2016年3月5日土曜日

【第552回】『角川インターネット講座12 開かれる国家』(東浩紀、角川学芸出版、2014年)

 著者による政治思想と情報技術との関係性に関する歴史的な系譜のまとめをまずはお読みいただきたい。

 まずは、伝統的な政治思想(シュミット/アーレント)では、政治とは境界を作ることに等しかった。つぎに、1990年代、短いあいだではあったが、情報技術と人文思想の双方で境界なき政治の可能性が夢見られた時代があった。最後に、21世紀に入ると、世界はふたたび保守化し、むしろ境界なき政治(テロリズム)の危険性が意識されるようになった。(Kindle No. 45070)

 上質なまとめに思わず唸らされる。では、そもそも近代国家とは何であり、何であったのであろうか。

 近代国家は、土地や国民、法律などのさまざまな境界を、国家のもとに一元化させてきた。なめらかな社会では、それらがバラバラに組み合わさった中間的な状態が許容されるようになる。中間的な状態が豊かに広がる社会では、お互いに完全に一致するアイデンティティを探すことはほぼ不可能で、万人がマイノリティであるような世界をつくりだす。今までの例外状態が例外ではなくなり、フラットやステップのような両極端な状態のほうが例外になる。
 会社という存在もまた考え直す必要がある。もし、ひとりの人が同時に2つ以上の職業につくことができれば、それは会社への依存関係をなくし、他の生き方や職業への想像力を活性化させるに違いない。(Kindle No. 45505)

 近代国家と対比することで、現代におけるなめらかな社会の特徴が描き出されている。そうした文脈の中で、近代的な会社という組織に対する考え方も変化していることがわかる。それに伴い、働くということの変化も含めて、考えさせられる。

 ”dividual”は、ジル・ドゥルーズ(哲学)が「管理社会について」という短い論考の中で使った概念である。彼は、現代社会は規律社会から管理社会へ移行しているというミッシェル・フーコー(哲学)の分析に着目した。権力のあり方が、学校、監獄、病院、工場といった閉鎖された空間における規律訓練から、生涯教育、在宅電子監視、デイケアといった時空間に開かれた管理へと変容していくという。(Kindle No. 45568)

 平野啓一郎氏を彷彿とさせる分人に対する考え方。ドゥルーズやフーコーといった知の巨人たちによる言論世界の系譜は示唆的である。

 一貫性という強迫観念から解き放たれた社会システムを、民主主義という社会のコアシステムから支え上げるのが分人民主主義の構想である。これは単なる民主主義の変革に留まらず、新しい社会規範を生み出すことだろう。静的で一貫し矛盾のないことを是とする世界観から、動的で変容し多様性にあふれることを是とする世界観へ、私たちの身体が今こそ試されている。(Kindle No. 45663)

 分人という考え方によって見出される社会システム。そこでは、外的な多様性も大事であるが、内的な多様性に私たちは目を向けたいものだ。

 なお、誰も耳を貸さないような外れ値とされる極端な意見は、リアルな空間では集合する機会はそうそうあり得ない。しかし、それら極端が束となって「非集合の集合」としてのエンクレーブ型熟議の場が生成可能になるのが、ネット空間の特性なのである。したがって、SNS上ではある意見はより凝り固まる傾向を示し、リアルな空間のように極端が淘汰される機会ははるかに少ない。(Kindle No. 47056)