2016年3月5日土曜日

【第552回】『角川インターネット講座12 開かれる国家』(東浩紀、角川学芸出版、2014年)

 著者による政治思想と情報技術との関係性に関する歴史的な系譜のまとめをまずはお読みいただきたい。

 まずは、伝統的な政治思想(シュミット/アーレント)では、政治とは境界を作ることに等しかった。つぎに、1990年代、短いあいだではあったが、情報技術と人文思想の双方で境界なき政治の可能性が夢見られた時代があった。最後に、21世紀に入ると、世界はふたたび保守化し、むしろ境界なき政治(テロリズム)の危険性が意識されるようになった。(Kindle No. 45070)

 上質なまとめに思わず唸らされる。では、そもそも近代国家とは何であり、何であったのであろうか。

 近代国家は、土地や国民、法律などのさまざまな境界を、国家のもとに一元化させてきた。なめらかな社会では、それらがバラバラに組み合わさった中間的な状態が許容されるようになる。中間的な状態が豊かに広がる社会では、お互いに完全に一致するアイデンティティを探すことはほぼ不可能で、万人がマイノリティであるような世界をつくりだす。今までの例外状態が例外ではなくなり、フラットやステップのような両極端な状態のほうが例外になる。
 会社という存在もまた考え直す必要がある。もし、ひとりの人が同時に2つ以上の職業につくことができれば、それは会社への依存関係をなくし、他の生き方や職業への想像力を活性化させるに違いない。(Kindle No. 45505)

 近代国家と対比することで、現代におけるなめらかな社会の特徴が描き出されている。そうした文脈の中で、近代的な会社という組織に対する考え方も変化していることがわかる。それに伴い、働くということの変化も含めて、考えさせられる。

 ”dividual”は、ジル・ドゥルーズ(哲学)が「管理社会について」という短い論考の中で使った概念である。彼は、現代社会は規律社会から管理社会へ移行しているというミッシェル・フーコー(哲学)の分析に着目した。権力のあり方が、学校、監獄、病院、工場といった閉鎖された空間における規律訓練から、生涯教育、在宅電子監視、デイケアといった時空間に開かれた管理へと変容していくという。(Kindle No. 45568)

 平野啓一郎氏を彷彿とさせる分人に対する考え方。ドゥルーズやフーコーといった知の巨人たちによる言論世界の系譜は示唆的である。

 一貫性という強迫観念から解き放たれた社会システムを、民主主義という社会のコアシステムから支え上げるのが分人民主主義の構想である。これは単なる民主主義の変革に留まらず、新しい社会規範を生み出すことだろう。静的で一貫し矛盾のないことを是とする世界観から、動的で変容し多様性にあふれることを是とする世界観へ、私たちの身体が今こそ試されている。(Kindle No. 45663)

 分人という考え方によって見出される社会システム。そこでは、外的な多様性も大事であるが、内的な多様性に私たちは目を向けたいものだ。

 なお、誰も耳を貸さないような外れ値とされる極端な意見は、リアルな空間では集合する機会はそうそうあり得ない。しかし、それら極端が束となって「非集合の集合」としてのエンクレーブ型熟議の場が生成可能になるのが、ネット空間の特性なのである。したがって、SNS上ではある意見はより凝り固まる傾向を示し、リアルな空間のように極端が淘汰される機会ははるかに少ない。(Kindle No. 47056)


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