2016年3月20日日曜日

【第557回】『三四郎【2回目】』(夏目漱石、青空文庫、1909年)

 改めて、前期三部作を読もうとまずは第一作から。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」(Kindle No. 255)

 熊本から進学のために上京する三四郎の認識を改めさせるような至言である。私たちは、場所的な意味であれ経験的な意味であれ、新しい物事に取り組む際には躊躇してしまい、自分を不確かな小さな存在だと思ってしまう。もちろんそうした側面もあるだろうが、自らが制約を勝手に創り出してしまうという側面も、あるだろう。何かにとらわれて、自分を狭い視点に留めることに気をつけたいものだ。

「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回しているうちにはおのずからもの足りるようになるさ」と言う。
「なぜ」
「なぜって、そう、生きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上にもの足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつもっとも軽便だ」(Kindle No. 579)

 大学の講義をまじめに受講する三四郎に対して、与次郎が助言をする場面である。大学で行われる講義を否定するつもりはないが、残念ながらその全てが有益なものではない。すべての講義を遮二無二まじめに取り組んでみることは間違いではないが、そこに固執することは必ずしも健全なことではない。ここでもとらわれてはいけないというメッセージが含意されていると読み取るべきではなかろうか。

 三四郎はこういう場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。だからただ黙っている。そうして黙っていることがいかにも半間であると自覚している。(Kindle No. 1779)

 ストレイ・シープという本作のキーワードの一つである言葉を美禰子から告げられるシーンである。わからない言葉を伝えられてそれを理解し、正しく対応しようと判断を留保する気持ちはよくわかる。組織で働くとそうした時の対応というものに良くも悪くも慣れてしまい当座の対応というものができるようになるが、学生であれば難しいものだ。そうした昔の気持ちを思い出させる場面である。

 近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。(Kindle No. 2347)

 近代の個人主義に対する示唆であり、後の『私の個人主義』では自己本位を留保つきで肯定的に述べていることを斟酌する必要があるだろう。いわば他者に対する共感性や他者を意識しないで自己本位を全うすると露悪家になってしまう、という警鐘ではなかろうか。

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