2011年8月7日日曜日

【第37回】『かかわり方のまなび方』(西村佳哲著、筑摩書房、2011年)

 ワークショップと称するものの中には、参加者の発言や話し合いをプロセスに置きつつ、最終的に特定の考え方や価値観を主催者側が押し付けるものや単なる商品紹介になるものが時折見られる。それはワークショップが有する可能性を減衰させ、偽りの「ワークショップ」に参加した人がワークショップに参加しようとする意欲をなくすリスクがある。こうした残念な出来事は、ワークショップという抽象的な概念を問うことなく、混在した意味合いを持たせていることが原因の一つと言えるだろう。
 
それではワークショップとは何か。「双方向で複数人が話し合う」というような漠然としたイメージを私は持っていたが、著者はファクトリーを対概念としてワークショップについて丹念な説明を試みている。規格品を効率的に大量生産で行なうファクトリーに対して、自由な発想で時間を掛けて個別的に創作するのがワークショップである。
 
こうした手作りと親和性のあるワークショップを促すものとしてファシリテーションがあるだろう。このファシリテーションというものも曲者である。著者によれば、ファシリテーションはよいものにも悪いものにもなり得る無色透明のものである。したがって、他者を促し(=ファシリテート)さえすればそれはファシリテーションと言える。
 
この定義に従えば、極端な例ではあるが、ナチスでの洗脳的な宣伝を担当していたゲッペルスのファシリテーション能力は高いと言える。したがって、ファシリテーターに求められるのはファシリテーションのスキルだけではない。それに加えて、善なる意図や目的意識が必要であり、それは他者をどう見るかというファシリテーターの視座やあり方の話に繋がる。
 
このことは教育に携わるあらゆる立場の方々にとって重たい指摘であろう。少なくとも私はそう感じた。心理学の領域でピグマリオン効果というものがある。教師から「この子は優秀だ」と思われている子は成長し、「この子はいまひとつだ」と思われている子はあまり成長しない、という現象である。ピグマリオン効果における影響範囲はパフォーマンスに特化されているが、本書で指摘されているファシリテーターの与えるものはパフォーマンスだけに留まらない。教育に携わる身として、ファシリテーションの能力を磨くだけではなく、善なる意図を常に意識し、自己抑制的な振る舞いを心がけたいと強く感じた。
 
このように読み手に内省を自然と促すというのは書き手のファシリテーションの為せる業であろう。著者が数年前に出した『自分の仕事をつくる』もそうであったが、読み手との相互交渉を行なう書籍はなかなかお目にかかれない。おそらく、著者の態度やあり様が善なる意図に基づくものであり、書物を著すこと自体がワークショップになっているということなのかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿