2012年3月4日日曜日

【第73回】『法と社会』(碧海純一、中央公論新社、1967年)


 法とは文化の一部である、と著者は冒頭で述べている。文化を構成する中心的な要素は、私たちの生き方であり、それは心理学的な表現で言えば一定の刺激に対する反応のありようにある。人間の行動様式のうち、ある集団の成員の多くに共通するものが文化となる。

 こうした文化は社会の構成員たる人間の総和として成り立つものであると同時に、文化が人間を秩序づけるという側面をも持つ。こうした文化の側に立ち、人間を秩序付けする作用を社会統合と呼び、いわば、内面化された社会規範が人間の良心を為すこととなる。

 法の精神から捉えて重要な点は、こうした良心の内容は社会的学習によって後天的に獲得できる、ということである。つまり、なにをもって善とするかという良心のあるべき姿というものは、地理的、時代的な制約を受けて変更するものであるが、良心を更新し続ける能力は先天的な人間の作用である、ということである。

 その結果として、ほとんどの人間は法の規定する良心を学ぶことができるわけであるから行動の自由とともに義務としての制約を受けることとなる。その一方で、こうした法の精神を理解できない方々に対しては、行動の自由が制約される代わりに、一部のペナルティが軽減されることとなるのであろう。

 このような社会統合機能を持つ法の役割を考えれば、法に書かれたもののみをもとに司法が為されることは期待される。裁判官は法のみに基づいて判断を下す、という考え方である。しかし、法が想定していることは、それが規定された当時の時代性や物理的環境に依存するのもまた事実である。こうした法以外の社会的側面を踏まえて裁判官は判断をすべしという主張を唱えたのが自由法論と呼ばれるものである。

 とはいえ、自由法論者といえども、法律からの全面的な解放を主張したわけではなく、ある要件に該当する事実が存在すれば、その要件に該当する効果を当てはめることになる。しかし、法律になんらかの欠缺がある場合においては、法律以外のものを法源として裁判を行うべし、ということであることには気をつけたい。

 著者がまえがきで記しているように、本書は法の入門書である。本書を足がかりにして他の書物を通じて法を学びたいと思う一方で、本書の深みを味読するするためには何度か本書に立ち戻りたいと思う。

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