2012年3月25日日曜日

【第76回】『反・幸福論』(佐伯啓思、新潮社、2012年)


 本書を読んで感じた点は、第一に家族についてであり、第二に死生観とその裏側にある人生観についてである。

 著者によれば、家族というものは決して内側に閉じた均質的な存在ではない。むしろ、二重の意味での他者性を有した組織であるという。一つは異なった文化的背景を持つ集団との遭遇であり、もう一つは異なった世代との遭遇である。両親と自分と子どもとでは用いる言語は異なるし、専業主婦と企業戦士とでは重きを置く価値が異なることは自明であろう。

 家族とは本来的にこうした多様性を有するものであるがために、お互いを分かり合うことは難しい。しかし、であるからこそ、家族生活を送るということから忌避して社会生活を送るという昨今の風潮は危険であると著者は警鐘を鳴らす。家族と暮らすという手間の掛かる経験を日々繰り返す中で、家族よりも多様性の高い社会生活を送る基礎体力が身に付くということもあろう。まして、良くも悪くもグローバライゼーションが進むことでより多様な社会生活が求められる今後において、家族生活を忌避することは社会生活をも忌避することになり兼ねない。

 血縁という言葉が示す通り、家族とは縁をもとにして形成されるものである。縁とは偶然を引き受けようとするものであり、それに対して、絆とは縁と近しい意味合いを有しているものの自らの意志で自由に選び取るものである。昨今の絆の流行の背景には、かつての地縁・血縁社会における選択不可能な共同体に対する息苦しさが内包されている可能性について自覚する必要があるだろう。

 絆も大事であるが、私たちは縁の具体的な形態である家族の可能性について考え直すときにあるのかもしれない。というのも、絆は生きている人間同士が結ぶものであり、絆に基づく関係性だけでは死との距離が遠くなってしまう。一方、縁は生きている人間同士だけではなく死者と生者の垣根を越えて結ばれるものであり、死との距離が近い。

 死が遠い存在になると、私たちは死を克服可能な客体と見做すようになる。しかし、このようにして死を遠ざける結果として、私たちは自分たちの人生の意味じたいを掴むことが難しくなっているのではないだろうか。なぜなら、死を受け容れ、死を身近なものとして意識することが、翻って現在の生を意味付けることになるからである。死を受け容れて死と生とを主客一体のものと見做すことで自分という存在の輪郭がくっきりと見えてくるということがあるだろう。

 このように頭の中で整理するレベルでは本書をある程度は理解したつもりであり、はっとさせられる箇所がとても多いものであった。しかし、正直に白状すれば、私は家族、とりわけ実家における家族に対する縁の意識がこれまで希薄であったため、どこまで腹落ちしているか甚だ怪しい。何度か読み直し、意識を変えようと試みることで、だんだんと咀嚼していきたい。

2 件のコメント:

  1. かねてから何故日本は現在のような希望をもてないような国になったか、という疑問を持っていたが、この本を読んでその理由が判ったような気持ちになった。その理由とは
    ・すべての束縛から自由でなければならない。
    ・利益と権利の追求が個人や社会を幸福にする。
    という考えのもとに血縁(家族や家制度)や地縁を破壊しつづけていった結果、個人の社会的なつながりが希薄となり、無縁社会が出現したというものだ。
    戦後、個人と国の間に密接な関係が保てるほどの共同体のようなものが必要にも関わらず、それらを封建的、前近代的として捨てさってきた。東北大震災以後、絆という言葉が強調されているが絆は個人の意思にもとづいて関係性をもつもので、縁という不可避的な関係とは別のもであるとのこと。
    日本人はこれまでの戦後から続いてきた風潮を根本的に考え直して新たな価値観や社会像を見出していかなければ日本の未来は見えてこない。

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    1. Taksjさん
      コメントありがとうございます。
      いろいろと考えさせられる書籍でしたね。
      ご指摘の通り、日本の現在だけではなく未来を見通す上でも参考になるものだったと思います。

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