2012年5月20日日曜日

【第84回】『報道の脳死』(烏賀陽弘道、新潮社、2012年)


 新聞の質の低下が叫ばれるようになったのはいつのことだろうか。その理由はどこにあるのか。本書は、朝日新聞の元記者であった著者が、そこで経験したことや現在の記者との交流によって得られた知見をもとにその答えの仮説を述べているものである。

 まず新聞社を取り巻く環境について著者は述べている。私たち読者からするとにわかに想像し難いことではあるが、新聞各社は他紙やテレビ局の記事や番組はいっさい見ていないという前提で記事を書いている。その結果として、他のメディアで既に報道されたものであっても、自社がそれまで取り扱っていないものは後からでも報道する。こうして一社ごとに閉じた世界が形成されている。

 さらに、企業がSNSをはじめとしたインターネットにおける広告宣伝費を増大させたことで相対的に既存メディアに対する広告宣伝費が減少している。その結果、コスト削減圧力が新聞社に掛かり、カレンダー記事と呼ばれる「あれから○年」という安易な記事がはびこることとなる。カレンダー記事であれば事前に記事の執筆ができるため、効率的に安価で記事を作成できるのである。

 次に、組織内部の問題もあり、著者は3.11の一連の報道をもとに考察している。第一に、取材対象を分けていることが問題の一つである。新聞社では、首相官邸の記者会見を担当する記者、南相馬で記事を探す記者、福島県庁に貼り付いている記者、といった具合に分担を行っているという。その結果、ある事象についてそれが各所でどのような関係性を持っており、なにが真実であるのか、というストーリーが欠落してしまう。そのため、各所での記者会見での質問は各所において見えるレベルでののもとなり、全体のストーリーに基づいた鋭い質問は出づらい構造にあんっていたという著者の指摘は納得的である。

 第二にセクショナリズムもまた問題であると指摘されている。内勤デスクは現場に出せない、大阪本社に所属している貴社を東京の管轄内に派遣できない、といった事象が生じていたと言う。にわかに信じ難いことではらうが、3.11のような未曾有の事態においてもこうした組織内部の問題が生じたことが事実であったたとしたら残念でならない。

 では記者とはどうあるべきなのか。

 著者は二つのことを述べている。第一に、記者とは私たち国民や市民が持つ知る権利の代理人、すなわちエージェントであると著者は指摘している。その通りであろう。エージェントとしての気概を持つことで、何を報道するべきであり、どのような手段で伝達すべきであるか、という変化を導くことができるだろう。

 第二に、新しいメディアとの関係性についてである。既存メディアと新しいメディアとを対比的に論じる論調に著者は与しない。どちらが正しいかという論点の設定ではなく、ジャーナリズムを誰が実践すべきか、という論点をもとにして、既存が新規かという場所の話はその手段に過ぎないのである。

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