2012年7月28日土曜日

【第93回】『医薬品クライシス』(佐藤健太郎、新潮社、2010年)


 本書のタイトルをはじめて目にした時は、医療技術の信頼性や副作用の問題といったスキャンダラスなものが扱われているのではないかと思ったが、それは誤解であった。医薬品メーカーの開発部門における勤務経験のある著者の視点から、医薬品の開発プロセスの難しさや業界の持つ特性について述べられた書籍である。医薬品業界に詳しくない私のような読者にとっては、医薬品業界を学ぶ格好の入門書と言えるだろう。

 まず、医薬という言葉について、著者は「病気に関わっているタンパク質に結合し、その働きを調節することで症状を和らげる物資」と定義している。薬を飲んで早く病気を「治す」という言い回しを幼い頃から聞きまた使ってきた薬学に疎い身からすると、医薬が「症状を和らげる」という表現は興味深い。さらに、病気を「退治する」かのように錯覚していた私にとっては、医薬が「病気に関わっているタンパク質に結合」するという部分も新鮮であった。医薬というとどこか私たちの身体に相容れない物質のように思いがちであったが、存外なじみやすいものなのかもしれないと思いを改めた次第である。

 こうした医薬を扱うメーカーの特徴は、プロダクトの値段である薬価が公定価格であるという点にある。換言すれば、自分たちで創った製品の価格を自社で決められないという、およそ他の業界では考えられない特異な状況なのである。さらに、薬価の改定は二年ごとに行われ、そのたびに価格が平均5~7%強制的に下げられる、というのだから製品ごとに営業戦略を立てることは難しいのだろう。

 個別のメーカーから日本の医薬市場へと目を転じれば、高齢者の増加に比例して増大する医療費をいかに削減するかが国家レベルでの最重要課題となっている。先発薬を使うよりもジェネリック医薬品を使う方が医療費の負担が少ないことは自明であるため、日本政府としてジェネリックの普及に力を入れているようである。具体的には2012年度までに普及率を30%にするという目標が立てられているが、日本ジェネリック製薬協会によれば2011年度の普及率は23.3%であり、目標との乖離は小さくない。では、この目標じたいが妥当ではないのか、というとそうでもない。同じく日本ジェネリック製薬協会によれば、諸外国の2009年度における国内のジェネリック医薬品の普及率は、アメリカの72%を筆頭に、カナダ66%、イギリス65%、ドイツ63%、フランス44%、スペイン37%、イタリア36%、と医薬品市場の大きい先進各国と比べて著しく日本の普及率が低い現状であり、普及率30%という目標数値は決して高くない。

 ではなぜ日本ではジェネリック医薬品の普及が遅れているのか。それは直接的な利用者である最終消費者と、薬局で薬を扱う薬剤師、および薬剤を選定する医師に対してその価値を適切に伝えられていないからではないか。風邪や頭痛といった日常的な病気に関しては、先進的で高価な先発薬を使わずとも、安価な後発薬を使いたい患者さんは潜在的に多いだろう。常用している薬品であれば、消費者である患者さんの価格感応度が高いことは想像に難くない。したがって、患者さんが後発薬を安心して選べるように、一つは広報活動に注力することが有用であろうし、MRが医師や薬剤師に自社製品の特長を正確かつ的確に伝えることが今後の課題であろう。つまりは、ジェネリック医薬品メーカーの有する、健全な意味での営業力を高めることが肝要であると考える。

 また、ジェネリック医薬品が普及しないこととは別に、いわゆる2010年問題が医薬業界での大きな問題がある。すなわち、新たな先発薬が生まれづらい状況が世界規模で起こっているというのである。著者によればこの問題の原因の一つとして、近年進展する医薬品業界どうしの大型合従連衡があるようだ。つまり、企業規模を大きくすることで開発費を削減できる一方、利幅の大きいメガヒット製品を開発することに焦点を当てすぎて、各国の最終審査に通らない状況が続いているのである。誤解を恐れずに言えば、ホームラン狙いになりすぎて打率が著しく低下してしまっている、というところであろう。

 これは、イノベーションのジレンマの応用問題と言えるのではないだろうか。むろん、イノベーションのジレンマの要諦は、度重なる改善によって技術スペックが市場ニーズを追い越してしまい、破壊的イノベーションを起こした下位市場に駆逐される点にある。しかし、医薬業界における2010年問題は、イノベーションのジレンマが起こる組織上の問題、すなわち組織の拡大が短期間における利益規模の増大を引き起こし、小さなヒットの積み重ねを組織として許容できなくなる問題と同じように思えるのであるが、どうだろうか。

2012年7月22日日曜日

【第92回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)


 今回は、印象に残った箇所を引用し、それに対する覚え書きを記していくこととする。

「学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。」(學而第一・一)
【メモ】一度学ぶだけでは理解が浅い。意識的に復習することを心がけたい。


「習わざるを伝うるか。」(學而第一・四)
【メモ】自分で考えずに他者の言の受け売りをしてはいけない。論文の孫引きも厳禁。


「学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。」(學而第一・八)
【メモ】広い教養が大事。人間的に向上心がない者と付き合わない。すぐ修正する。


「事に敏にして言に慎しみ、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ。」(學而第一・一四)
【メモ】よく働き、言葉に気をつけること。他者がどう受け取るかに細心の注意を。


「これを道びくに政を以てし、これを斉うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。これを道びくに得を以てし、これを斉うるに礼を以てすれば、恥ありて且つ格し。」(為政第二・三)
【メモ】国を治める上でも内発的動機付けを用いることが重要。


「故きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし。」(為政第二・一一)
【メモ】歴史に学ぶことで、現在から未来を見通す。


「君子は周して比せず、小人は比して周せず。」(為政第二・一四)
【メモ】人間関係が仲良しクラブになっていたら、依存の危険性あり。


「学んで思わざれば則ち罔し。思うて学ばざれば則ち殆うし。」(為政第二・一五)
【メモ】学ぶだけで考えないと考察が浅い。考えるだけで学ばないと独断に陥る危険性。


「富と貴きとは、是れ人の欲する所なり。其の道を以てこれを得ざれば、処らざるなり。」(里仁第四・五)
【メモ】ノーブレス・オブリージュ。私から我々への意識変容。


「過ちを観て斯に仁を知る。」(里仁第四・七)
【メモ】失敗のレベルでその人のレベルが分かる。チャレンジすべし。


「己を知ること莫きを患えず、知られるべきことを為すを求む。」(里仁第四・一四)
【メモ】現在から過去を見るのではなく、未来を創るための現在。


「約を以てこれを失する者は、鮮なし。」(里仁第四・二三)
【メモ】謙虚であることの重要性。


「君子は言に訥にして、行に敏ならんと欲す。」(里仁第四・二四)
【メモ】不言実行。


「再びせば斯れ可なり。」(公冶長第五・二〇)
【メモ】考えすぎずにまずは行動する。


「仁者は難きを先きにして獲るを後にす、仁と謂うべし。」(雍也第六・二二)
【メモ】得る事を考えるのではなくまずは挑戦することが仁である。


「徳の脩めざる、学の講ぜざる、義を聞きて徒る能わざる、不善の改むる能わざる、是れ吾が憂いなり。」(述而第七・三)
【メモ】自戒として。特に良くない事を改めない点には注意。


「多く聞きて其の善き者を択びてこれに従い、多く見てこれを識すは、知るの次ぎなり。」(述而第七・二七)
【メモ】物知りのように振る舞わず、学ぶ努力をし続けること。


「抑〻これを為して厭わず、人を誨えて倦まずとは、則ち謂うべきのみ。」(述而第七・三三)
【メモ】実行し続けること。


「学は及ばざるが如くするも、猶おこれを失わんことを恐る。」(泰伯第八・一七)
【メモ】謙虚に学ぶ続けること。慢心しないこと。


「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。」(先進第十一・一六)
【メモ】中庸が大事。


「事を先きにして得ることを後にするは、徳を崇くするに非ずや。其の悪を攻めて人の悪を攻むること無きは、慝を脩むるに非ずや。」(顔淵第十二・二一)
【メモ】自分の悪い点を責めて、他人の悪い点を責めないこと。


「速かならんと欲すること毋かれ。小利を見ること毋かれ。速かならんと欲すれば則ち達せず。小利を見れば則ち大事成らず。」(子路第十三・一七)
【メモ】目先の実利に気を取られず、焦らずに一歩ずつ進む。


「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。」(子路第十三・二三)
【メモ】雷同せずに調和を心がけること。


「古えの学者は己れの為めにし、今の学者は人の為めにす。」(憲問第十四・二五)
【メモ】他者に知られたいという虚栄心で学んではならない。


「子貢、人を方ぶ。子の曰わく、賜や、賢なるかな。夫れ我れは則ち暇あらず。」(憲問第十四・三一)
【メモ】他者を批評するのは時間の無駄。


「工、其の事を善くせんと欲すれば、必らず先ず其の器を利くす。是の邦に居りては、其の大夫の賢者に事え、其の士の仁者を友とす。」(衛霊公第一五・一〇)
【メモ】自分を磨くことができる友人を選ぶこと。


「其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ。」(衛霊公第一五・二四)
【メモ】思いやりとは自分が望まないことを他者にしないことである。


「過ちて改めざる、是れを過ちと謂う。」(衛霊公第一五・三〇)
【メモ】失敗しても改めないことが本当の失敗。


「恭なれば則ち侮られず、寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち人任じ、敏なれば則ち功あり、恵なれば則ち以て人を使うに足る。」(陽貨第十七・六)
【メモ】特に「寛」と「敏」の二つが自分の課題である。意識すること。

2012年7月14日土曜日

【第91回】Number807「EURO2012 FINAL」


 2012年12月15日、FIFAクラブW杯の決勝戦。バルサの高いレベルの試合をリアルタイムで観戦する高揚感は、たった一つのプレイで意気消沈させられることになった。ダビド・ビジャの怪我である。EUROに間に合わなくなる事態によもやなりはしないかという私の不安は、果たして半年後に現実のものとなった。

 ビジャがいなくてもフェルナンド・トーレスがいるではないか。しかし、トーレスはチェルシーでの低調なパフォーマンスに終始していて不安を拭えない状況であった。ブンデスでの活躍によりにわかに期待したラウールのサプライズ招集もなし。この状況でデルボスケは誰を「9番」にするのか、全く想像がつかなかった。

 そして、彼が初戦のイタリア戦で示した回答は、ゼロトップであった。ゼロトップ、すなわち「9番」としてのストライカーを配置しない布陣を、実質的にぶっつけ本番で採用したのである。

 ゼロトップが一つの布陣として機能することは、ローマが結果を出して数年前に流行らせたことから疑いがない。トッティをダミーの「9番」にした布陣は躍動感にあふれ、普段はセリエを見ない私も興味深く見ていたものだった。

 しかし、代表クラスで数試合をこなすことなくゼロトップがいきなり機能するものなのか。もし、スペイン代表の主力の大半を占めるバルサやレアルがゼロトップを日頃から用いているのであれば不安は軽減されただろう。そうであれば、ゼロトップの動きに慣れており、そのPros&Consを把握していることが想像に難くないからである。しかし、そうした事実は残念ながらなく、不安を解消する要素は皆無に等しかった。

 ダミーの「9番」を担うことになったのはセスク・ファブレガスであった。イタリア戦のスタメンが発表された時に、ゼロトップを採用したことに驚き不安に思ったと同時に、今のスペイン代表ならば、またセスクが「9番」であれば面白いサッカーをするのではないか、と期待を抱いたこともまた事実であった。

 実際、イタリアに引き分けた結果自体は満足ではなかったが、その試合内容自体は見応えがあった。大会ナンバーワンと称しても過言ではないのではないだろうか。「カテナチオ」のイタリアが攻撃的なスタイルを貫いてきたというサプライズの為せる相互作用もあったとはいえ、スペインのゼロトップは従来のパスサッカーにアジャストしていたように私の目には見えた。

 その後の試合では、トーレスを1トップに起用する試合もあったが、決勝でのイタリアとの再戦でデルボスケがゼロトップを選択したことから勘案すると、ゼロトップが今大会のスペイン代表での第一の選択肢であったということであろう。本誌の記事によれば、慣れない「9番」を担うセスクを支えたのはアンドレス・イニエスタであった。たしかに、今大会のMVPにも輝いたイニエスタの動きは秀逸だった。私のような素人目にもあまりに分かり易いうまさが何よりあり、周囲とのコンビネーションによるパス交換もまた魅力的であった。

 イニエスタによる「9番」セスクへのサポートの集大成は、決勝戦での一点目に如実に表れていた。シャビ・エルナンデスからイニエスタがボールを受ける瞬間に裏のスペースへ走り出したセスクへ、イニエスタからのパスが入り、ラインぎりぎりで上げたピンポイントのクロスにダビド・シルバが頭で合わせたゴール。あのゴールはこれからも語り継がれるであろう美しいゴールであったし、スペイン代表のゼロトップの有効性を証明した瞬間でもあった。

 今回のゼロトップはフットボールファンに対して好評ではなかったように思う。これを以てスペイン代表の力の衰えを指摘する論調が多く出ていることもいたしかたない。しかし、スペインは途中で敗退したのではなく、優勝したのである。しかも、EURO史上初の連覇であり、EUROとW杯を通じて三連覇をしたのも初の快挙である。

 さらにいえば、ゼロトップという選択肢を国際大会の本番の場で「試す」ことができたことも、戦略のオプションを増やすという点では貴重なことだったのではないか。思うにビジャかトーレスが「9番」を担う方がスペイン代表は機能すると思うが、アクセントを加える意味合いとしてゼロトップが次善策として機能することを証明できたのである。

 戦略のオプションを増やし、ビジャとプジョールという攻守の二枚看板を欠いても優勝したという事実は大きい。主力の高齢化が心配ではあるが、二年後のブラジルでもまた、無敵艦隊を止められる国は現れないかもしれない。

2012年7月1日日曜日

【第90回】『日本語が亡びるとき』(水村美苗、筑摩書房、2008年)


 明治期の研究者や文豪と呼ばれる人々がなぜあれほどまでに外国語を知悉していたのか。それは日本人の、そして日本という国が、欧米列強の植民地にならないための、サバイバルのためのものであった。こうした著者の指摘を俟つまでもなく理解していたつもりではあったが、<普遍語>と<国語>との関係性からの著者の指摘は新鮮であった。

 著者が述べるように、<国語>とは<普遍語>を翻訳することから成立した言葉である。日本の明治期を考えれば分かるように、不平等条約を改正するために、フランス語やプロシア語といった当時の<普遍語>の法律用語を<国語>に翻訳し、日本に適した法律を制定する必要があったのである。
 
 こうした過程の帰結として、<国語>は、日常的な会話で使われたり「方言」とも言われる土着の<現地語>よりも世界性を持つことになる。だがそれだけではない、と著者は指摘する。すなわち、<国民国家>が正式に規定する<国語>とはすぐれて近代の産物であり、「世界を鳥瞰図的に見る」という新たな視点を内包した、真に<世界性>をもつ言葉なのである。日本を取り巻く世界や国際関係という文脈の中で、日本という位置づけを相対的に見るための視座を与えるのである。

 この一つの現象としてナショナリズムが挙げられる。よく誤解されるようであるが、ナショナリズムという現象はグローバリゼーションの進展と同時並行で進行するものであり、いわば表裏一体の関係と言える。『想像の共同体』でも述べられているように、<国民国家>が成立する上で、<国語>と<国民文学>とナショナリズムとが結びつくことになるのである。

 グローバリゼーションという文脈としては、英語が<普遍語>として絶対的な地位を築きつつあるというのが現状である。その結果として、<叡智を求める人>が<国語>をスキップして直接的に<普遍語>にアクセスするという悪循環が生じつつあるとも言えるだろう。

 こうした悪循環のはじまりは、<叡智を求める人>が、<国語>で書かなくなるときではなく、<国語>を読まなくなるときからである、と著者は言う。<叡智を求める人>ほど優れたテクストの多い<普遍語>で書かれたものを読もうとすることはいわば自明であろう。その結果どうなるか。<叡智を求める人>は、自分が訴えたい読者に読んでもらうために、<国語>で書こうと思わなくなるかもしれない。その結果、<国語>で書かれたものの質はさらに低下する。当然のこととして、<叡智を求める人>はいよいよ<国語>で書かれたものを読む気がしなくなる、という負のスパイラルが出現するのである。

 では、国家レベルでこうした負のスパイラルを防ぐことはできるのだろうか。著者は、日本の国語教育においてまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきであるとする。<普遍語>からの翻訳という闘いの過程で創り上げた日本の近代文学を学ぶことで、<国語>に対する感受性を幼い頃から涵養するべきなのであろう。

 著者が指摘するように、<叡智を求める人>が英語という<普遍語>でしか表現をしなくなったときのことを考えるとおそろしい。そうしたときこそがタイトルにある『日本語が亡びるとき』であり、避けなければならないシナリオであろう。豊かな精神世界を現出させるためにも、<普遍語>とともに<国語>におけるリテラシーを私たちは豊かにしていく必要があるのではないだろうか。